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ウエブ連載差別表現 第201回 ネットのヘイトスピーチ規制に「副作用の懸念」?

 

「どっちもどっち論」の傍観者たち

 

 朝日新聞が、2018年7月6日付朝刊で、「ネットの差別表現『通報』続々」という記事を載せている。記事の導入部は以下の通りだ。

 

ネット空間の差別的な表現にどう対処するか。…(中略)…利用者の「通報」をもとに、投稿動画を削除したり広告主が問題を指摘されたサイトへの広告を停止したりする動きが広がっている。差別表現がなくなると歓迎する声がある一方、対象の拡大には言論の自由の観点から慎重さを求める声がある。

 

記事の本音はヘイトスピーチの法的規制に反対

 

 記事の本文は、両論併記のつまらない内容だが、締めくくりの小見出しには「表現の規制に懸念も」とある。

 

 つまり、差別表現(ヘイトスピーチ)の動画やツイッターを削除することの「副作用」として表現の自由そのものが規制される恐れがあるとし、「言論の自由の観点から慎重さを求める声もある」と朝日新聞はいう。

 

 この主張は、ヘイトスピーチとそれに抗議するカウンターの激しい行動をとらえて、価値中立的な観点から、「どっちもどっち」論に傾き、結局のところヘイトスピーチを放置する傍観者的思考と通底している。

 

 日本の憲法学者の大半がヘイトスピーチの法的規制に否定的なことは、この連載で幾度も批判しているので繰り返さないが、憲法学者らと同程度に、大手メディアの腰も引けていることを指摘しておきたい。

 

 

なぜ「どっちもどっち」論になるのか?

 

 そうした「どっちもどっち」論の根本には、差別表現一般とヘイトスピーチ(差別的憎悪扇動)とのちがいを理解していないという問題がある。(*詳しくは拙著『部落解放同盟「糾弾」史』(ちくま新書)を参照していただきたい。)

 

 ここで、差別表現一般とヘイトスピーチとの質的ちがいについて、のべておこう。

 

 差別表現とヘイトスピーチに共通しているのは、どちらも社会的差別(出自、人種・民族、宗教、性、障害など)を受けている被差別マイノリティに対する、文書や言動による侮辱表現である点。

 

 差別表現については、それを行った、話者や執筆者に差別的意図が希薄で、「ついうっかり、何気なく、そうとは知らずに」、差別の実態に対する無知ゆえに、差別的な社会意識を無批判に受け入れ表現したという場合がほとんどである。

 

  つまり、差別表現で問われているのは、文書・言動に含まれる〈表現の差別性〉(侮辱の意思)であり、主観的な差別的意図の有無ではなく、表現の客観性と社会的性格なのである。

 

 それに対して、ヘイトスピーチとはなにか。

簡略化していえば、「朝鮮人を殺せ」など、差別表現の中で、目的意識的かつ確信的な差別言動をヘイトスピーチと呼ぶ。

 

 

差別表現は当事者同士の話し合いで解決

 

 差別表現にかんしては、過去、被差別マイノリティの抗議団体から、「差別表現を法的に取り締まれ」という声は一度たりとも起こっていない。

 

 差別表現を行った話者・執筆者と、それを公共圏に媒介したメディアの社会的責任に対する、被差別当事者による「申し入れ」「抗議」「糾弾」などを通じて、権力の介入を排し、当事者どうしで問題を解決してきたのである。

 

 

ヘイトスビーチは犯罪行為

 

 しかし、ヘイトスピーチは、被差別マイノリティに対する主観的憎悪にもとづく差別、つまり目的意識性と攻撃性を持った「言論による暴力」である。

 

“話者の品格”でも“対抗言論”で対処できる性質の「言論表現」ではない。

 

 ヘイトスピーチは“差別的憎悪扇動”という暴力なのである。しかも歴史が証明しているように、ヘイトスピーチはヘイトクライム〜ジェノサイドに至る大量虐殺の導火線と言ってよい。 

 

 にもかかわらず、今回の朝日新聞記事では、「差別表現」だとか「差別的な発言」とか、あいかわらずヘイトスピーチも「表現」であるかのような認識である。

 

 ヘイトスピーチがマイノリティにもたらす被害の現実に、正面からむきあおうとしない傍観者的態度がみえる。

 

 朝日新聞をはじめメディアのほとんどが、ヘイトスピーチを「差別表現」あるいは「憎悪表現」、またあるいは「差別憎悪表現」(朝日新聞)などとしているが、「表現」という認識そのものが、ヘイトスピーチの正確な概念規定ではない。

 

 ヘイトスピーチとは、社会的差別の存在を前提とし、マイノリティ集団を傷つけ、貶め、排除するための言論による暴力的扇動であり、犯罪行為である。 

 

日本語に訳すなら、ヘイトスピーチは「差別的憎悪扇動」であり、ヘイトクライム(差別的憎悪犯罪)の構成部分であるということが理解されていない。

 

 1994年のルワンダ内戦時のラジオでの、フツ人によるツチ人殺人扇動は、たんなる差別表現ではなく、紛れもないヘイトスピーチだった。 

 

 

「表現の自由」にかんする国際的合意

 

 今回、朝日新聞が取り上げた、差別表現規制と言論出版・表現の自由との問題は、今に始まったことではない。すでに過去半世紀、論じられ、一応の社会的合意はできているものと思っていた。 

 

 合意とは、まず、憲法第21条の「表現の自由」は、基本的人権の根幹をなす権利であること。

 

 しかし、「表現の自由」の名のもとに、公共圏での無秩序、無責任な言動は許されず、無制限ではない。

 

  つまり、「表現の自由」は、内在的に他者の人権を侵害し、傷つけることを容認していない、という国際的合意のもとにある

 

 日本も1979年に批准している、国際人権規約の「自由権」第19条(表現の自由)には、次のように書かれている。

 

1.すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。

2.すべての者は、表現の自由についての権利を有する。(略) 

3. 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただしその制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a)他の者の権利又は信用の尊重(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

 

 ちなみに、国際人権規約20条(戦争宣伝及び憎悪唱道の禁止)には、

 

1.戦争のためのいかなる宣伝も、法律で禁止する。

2.差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する

 

と、ヘイトスピーチについて明確に禁止している。

 

 

自由と平等の変質

 

 言論・表現の自由が、封建制度を打倒し成立した近代的市民(フランス革命の第三身分=ブルジョアジー)国家とともに獲得された市民的権利であり、近代国家で基本的人権といえば、何よりも「自由」の概念であり、その中心が言論・表現の自由の規定であった。 

 

 日本国憲法にも、身体の自由(第18条)、思想及び良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社の自由、表現の自由(第21条)、居住・移転、職業選択、移住及び国籍離脱の自由(第22条)、学問の自由(第23条)など、市民的自由権が幅広く規定されている。

 

  ここで見落としてはならないのは、封建制度を打倒した市民階級が掲げたスローガンは、「自由・平等・博愛」であった。その当時、自由と平等は分かちがたく結びついていた。 

 

 しかし、その後の歴史が明らかにしているように、「自由」は資本の自由であり、平等は国家の庇護のもとでの平等であり、「博愛」はナショナリズムとなった。その後フランスはアジア・アフリカなどに、帝国主義的侵略を行い、海外に多くの植民地を抱えた。

 

 フランス革命の人権宣言は、「人および市民の権利宣言」とあるが、普遍的な「ひと」ではなく実質的には「市民」(有資産者階級)の権利宣言であった。 そのため、女性と子どもの権利は「市民」から除外されている。

 

 

政治的自由から社会的平等をもとめるたたかい

 

 日本でも明治維新後の1871年(明治4年)に、今日の部落問題にかかわる、いわゆる「賤民解放令」(実質、賤称廃止令)が出され、四民平等と宣言したものの、社会的差別はなんら解決しなかった。(旧穢多身分などは政治的には平等とされたものの社会的身分としては解放されていない。)

 

 以降、部落解放運動など被差別マイノリティが求めたのは、変質する前の市民革命期における自由と平等の理念の徹底であり、その法制化であった。 つまり政治的自由から社会的平等(解放)への闘いであった。

 

 憲法第14条(法の下の平等、貴族の禁止、栄典)

「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

 

は、社会的差別禁止規定としてある。

 

 

言論・表現の自由に

人間の存在(尊厳)を否定する

差別的な言論や表現は含まれない

 

 言いたいのは、政治的自由権は社会的平等権、つまり人間の存在そのものにかかわる社会的生存権の優位のもとに統一されているということ。 言論・表現の自由に、人間の存在(尊厳)を否定する差別的な言論や表現が含まれないのは、議論以前の当然の事柄である。 

 

 人権問題の核心には差別問題がある。

 

 1948年の世界人権宣言が、第一次、第二次世界大戦の痛烈な反省のもとに発せられたことはよく知られている。

 

 その根本にある思想は、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に代表されるジェノサイドを二度と起こさないという固い決意である。人種、民族、宗教、性、障害など、社会的属性にもとづくあらゆる差別を許さない思想が、人権問題の根幹にあるということを宣言している。

 

この世界人権宣言の具体化が、国連で採択された各人権条約に反映されている。

主な人権条約は次の通り。

 

・人種差別撤廃条約(1965年発効、日本1995年批准)

・国際人権規約(1966年発効、日本1979年批准)

・女性差別撤廃条約(1979年発効 日本1984年批准)

・子どもの権利条約(1990年発効 日本1994年批准)

・障害者の権利条約(2006年発効 日本2014年批准)

 

 ちなみに、ミャンマーのアウンサンスーチー氏は、ノーベル平和賞を受賞(1991年)した国際的な人権活動家として知られているが、政権を握った後、国内のイスラム教少数民族、ロヒンギャ迫害に対しては国際的に非難を受けながらも一貫してサボタージュしている。彼女の人権思想には差別認識が欠けている。エセ人権活動家と言ってよい。

 

 

ヘイトスピーチ対策法を実効性あるものにするたたかいを

 

 2016年6月に施行された「ヘイトスピーチ対策法」は、ヘイトスピーチが犯罪であることを明確に宣言している。しかし、それを無視して、いまだにヘイトデモが、減ったとはいえ行なわれている。

 

 いま喫緊に要請されているのは、人種差別撤廃条約の理念を国内法として初めて具体化した、「ヘイトスピーチ対策法」に罰則規定と救済規定など、実効性を高める条項を盛り込む闘いだ。それにより理念法としてのヘイトスピーチ対策法がより闘いの武器として磨き上げられるだろう。

 

メディアが、そのための議論に積極的に紙面を提供することを願う。

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ウェブ連載差別表現 第200回  『月刊コロコロコミック』 3月号(小学館発行) チンギス・ハーン侮辱表現事件


 

■ チンギス・ハーンはモンゴル民族の「信仰の対象」

 

  小学館が発行する人気コミック雑誌 『月刊コロコロコミック』3月号が、モンゴル民族から尊敬され崇拝されている、日本でもなじみの深いチンギス・ハーンの肖像画の顔に「チ(ン)・(チ)ン」と書き、男性器のいたずら書きをして掲載し、抗議の声が殺到している。

 

  なぜ抗議の声が殺到しているのか。

  それはモンゴル国および中国内のモンゴル自治区をはじめ、世界のモンゴル民族にとって、チンギス・ハーンは「民族の精神的支柱」であり、「信仰の対象」だからである。

 

   「チンギス・ハーンは英雄を超えた誇り高きモンゴル民族の祖先であり、神様である。」

 今回の「落書き事件」は、

 「モンゴル民族、国家への侮辱として、信仰の冒涜としてモンゴル民族の人びとが憤慨し抗議するのは極めて当然であろう」

 と、モンゴルの文化・政治にくわしい富川力道氏は述べている。

 

〈「やりすぎ!!!イタズラくん」515頁 より引用〉

 

やりすぎ!!!イタズラくんより引用

■駐日モンゴル大使館も抗議

 

 掲載のコミックは『やりすぎ!!!イタズラくん』(吉野あすみ)。

 一般読者に「君も足利義満&チンギス・ハンの落書きに挑戦だ!!」と肖像画を印刷したハガキページをつけ、コンテスト応募を呼びかけている。

 

  在日のモンゴル人や元横綱・朝青龍などのツイッターでの批判が拡散し、駐日モンゴル大使館も抗議する事態におよんで、小学館側は、大使館に謝罪文を提出した。

 

 しかし、通り一遍の謝罪内容に、まったく誠意が感じられないとの怒りが沸き起こり、226日(月)には小学館本社前で100名近くが集まり、抗議行動がおこなわれた。その時、小学館側は、抗議団体からの抗議文の受け取りを拒否し、門前払いしている。写真は2月26日の小学館前での抗議行動 モンゴル情報クローズアップより

 

 2月26日在日モンゴル人らが小学館前での抗議

 すでに事態を重く見た紀伊國屋、ジュンク堂などの主要書店は、抗議者からの意見をもとに、自主的に販売を中止している。 (2月28日現在、くまざわ書店、未来屋書店が販売中止に踏み切っており、販売拒否する店が日毎にに増加している。)

 

 小学館が駐日モンゴル大使館に対し、「今後はかかる事態を起こさないよう、モンゴルの歴史・文化に関する知見を深め、一層の配慮をして参る所存です」などの形式的な“お詫び”ですまそうとしている背景には、新聞への謝罪広告ならまだしも、発行部数80万部を超える『月刊コロコロコミック』の回収による経済的損失と混乱を、なんとしても回避したいというよこしまな意図が透けて見える。

 

「配慮」すべき事態とは、今現在、コミックが流通し、販売されているという憂慮すべき現状に、早急に対処することだろう。

 

 

■2005年「ムハンマド風刺画事件」との類似性

 

 

  今回の事件に接して想起されるのは、デンマークの新聞社が、紙面に12種類のムハンマドをモチーフにした風刺画を掲載、イスラム教徒から厳しく抗議された事件である。

 

2005年、デンマーク『ユランズ・ポステン』紙が「ムハンマドの顔」と題し、12人のイラストレーターによる預言者ムハンマドの似顔絵を掲載。なかには頭が爆弾のような風刺漫画もあった。これに対し、「イスラム教に対する冒瀆だ」とするイスラム諸国の反発は、ヨーロッパ全土から中東、アジアへも拡大。ついにはシリアの首都ダマスカスで、デンマーク、ノルウェー大使館に放火、さらにレバノンのベイルートでもデンマーク総領事館が放火される事態となる。

 

                     (拙著『最新 差別語・不快語』より)

 

 

 そして、この事件から10年後に起きた、シャルリー・エブド社襲撃事件を忘れてはならない。

 

2015年1月7日フランス・パリで、週刊誌新聞社「シャルリー・エブド」が、武装したイスラム過激派に襲撃され、記者ら12名が殺害される。同紙は、デンマークの新聞『ユランズ・ボステン』が掲載した預言者ムハンマド風刺画を2005年当時転載し、抗議を受けていた。

 『シャルリー・エブド』の風刺画は、ムスリムが信奉する宗教に対する侮辱的憎悪表現。風刺とはほんらい、強者(権力)に対する弱者(庶民)の抵抗表現であり、フランスにおける政教分離の原則「ライシテ」は、宗教的憎悪表現の自由を許すものではない。人種や民族や宗教を理由に特定の集団や個人を差別することは禁止されている。

 「シャルリー・エブド」社が襲撃を受けたのは、同紙が抗議を無視して風刺画を掲載しつづけ、イスラム教への憎悪を煽ったことが、背景にある。

 しかし、「シャルリー・エブド」襲撃事件じたいは一連のイスラム原理主義者の無差別攻撃の一つであり、「表現の自由に対する挑戦」だとか「宗教的な原理主義vs.表現の自由」の問題としてとらえるべきではない。

(「シャルリー・エブド」紙は、2015年 9月9日トルコ海岸に漂着したシリア難民の子どもの遺体を侮辱、風刺して、国際的な批判を浴びている。)

                                            (拙著『最新 差別語・不快語』より)

 

 

■背景にある社会の排外主義

 

 今回の事件で、作者の吉野あすみ氏がモンゴル及びチンギス・ハーンを侮辱する意思をもって落書きしたとは思わない。しかし、侮辱表現か否かは、作者の主観的意図とは関係ない。

 

 昨今、大相撲がおこなわれている国技館などで、モンゴル人力士に対する「モンゴルへ帰れ」などの排外主義的なヤジが飛び交っている事実があり、さらに日馬富士問題などの影響で、モンゴル人力士に対するヘイト・スピーチは、より一層深刻になっている現実がある。

 

 こうした状況の中で、モンゴルの「神様」に対する侮辱的な表現(落書き)を、社会がどのように受けとるのかをも考慮すべきべきだろう。

 

 

■「落書」「落首」

 

 落書き一般が問題なわけではない。その昔から「落書」「落首」は権力批判をともなう社会風刺文化として、日本だけでなく各国に存在している。

 

 その意味で、落書きの対象が、アメリカ大統領のトランプでも、日本の安倍首相でも一向に差し支えない。〈当事者から抗議は来るだろうが社会的支持は得られない〉。

 

 今回の「落書き」には社会風刺の視点も何もなく、ただ無邪気にイタズラ書きを楽しむという内容だが、他民族の神聖な象徴を、嘲笑の対象とすべきではない。

 

 〈モンゴル帝国を建国したチンギス・ハーン(1162-1227)〉

 

チンギス・ハーン肖像

■問われるのは出版社の社会的責任

 

  今回の事件では、小学館側の対応の稚拙さがめだつ。

 

  著者が「落書き」したことが問題なのではない。第一義的責任は、その「落書き」が他民族を冒涜する内容を含み、社会的(国際的)批判をまぬがれないことを予期できずに出版した編集部と編集総務の差別・人権問題に対する認識の低さにある。

 

  問われているのは、出版元・小学館の社会的責任である。

 

  2016年に初版3万部で全国紙に全5段のカラー広告を載せ、即1万部の重版という鳴り物入りで刊行した『ダーリンは70歳・高須帝国の逆襲』を1週間もしないうちに絶版・回収したという事件があった。(*ウェブ連載差別表現 第184回参照)

 

 そのときの対応との違いに驚くが、今回の侮辱表現の悪質さは、国際的広がりをもつ重大事件だ。

(ちなみに『ダーリンは70歳』の時、なぜ絶版・回収したかの説明を小学館は一切おこなわなかった。)

 

 今回の「落書き」事件、もしこれが今上陛下をはじめ、歴代の天皇の肖像に対して、同様の落書きをおこなったとしたら、どういう事態が出来(しゅったい)するのかぐらいは、小学館の編集総務でも理解できるだろう。

 

 くり返すが、問われているのは小学館の社会的責任であり、早急に回収処置をとり、新聞に謝罪広告を載せ、その上で、駐日モンゴル大使館およびモンゴル人の抗議団体と、真摯な話し合いの場をもうけ、謝罪とともに、モンゴル文化に対する認識を深める企画を率先しておこない、犯したあやまちを償うべきであろう。

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第199回 ダウンタウン浜田・黒塗りフェイス事件

 

 

■ ダウンタウン 『絶対に笑ってはいけない! アメリカンポリス24時!』

 

 

 『ガキの使いやあらへんで!絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』(日本テレビ系 12月31日)。大晦日年越しのスペシャル番組である。

 

 ダウンタウン浜田のコスプレは毎回恒例となっているが、今回、批判を浴びているのは、「ビバリーヒルズ・コップ」主演のエディー・マーフィをまねて、顔や手などを黒く(茶色)塗って登場したこと。視聴率が高いこともあり、日本国内のみならず海外でも大きく取り上げられ、黒人差別=人種差別との批判の声が上がっている。

 

 相方の松本人志は、フジテレビのワイドショーでこの件にふれ、「今後バラエティーは黒塗りなしでいくんですかね?ルールブックを作ってほしい」と、事の重大性に無自覚で、トンチンカンなことを述べている。

 

 一方、放送した日テレは「差別する意図は一切ありません」と、居直りともとれるコメントを出し、差別表現問題(黒人差別)にかんする無知をさらけだしている。

 

 結論を先に言っておけば、差別表現の問題は、演技者、発話者、執筆者の主観的な意思(善意も含め)とは関係ない。その表現の客観性、つまりその表現が、社会的文脈の中でどう受け止められるかに、判断基準がおかれる。

 

 

■国内外であいつぐ人種差別(黒人差別)発言

 

 ダウンタウン浜田の黒塗りメイク差別事件について語る前に、昨今あいついでいる国内外における人種差別事件についてふれておきたい。

 

.好ΕА璽妊鵑琉疥蘇淵船А璽鵤&M社が、自社のパーカーを黒人少年に着せた広告写真を、通販サイトカタログに掲載。そのパーカーには、「COOLEST MONKEY IN THE JUNGLE(ジャングルで最もクールな猿)」とプリントされていた。

 何が問題かを言及する必要もない、極めて悪質な黒人差別だ。

 批判されたH&M社は謝罪したものの、アパルトヘイトと闘ってきた南アフリカでは、国内17店舗のうち6店舗が、抗議の意思表示として襲撃される事件も起きている。

 

▲▲瓮螢の日用品メーカー「ダブ」社が、自社のボディソープ「ダヴ(Dove)で洗えば白くなる」と謳い、黒人女性がシャツを脱ぐと白人女性になるというCM動画を流した。同社は謝罪し、広告は中止されているが、肌の色を汚れとする酷い差別広告である。

 

 

C羚颪寮剤メーカー「Qiaobi」のCMは、黒人男性の口の中に洗剤を入れ、洗濯機に押し込んで回すと中国人になるというもの。インターネットに投稿され、黒人差別だと批判された。メーカー側は謝罪し、CM放送を中止。

 

2017年12月8日、山本幸三・自民党前地方創生相が、自民党の三原朝彦衆議院議員のパーティーで、三原議員がアフリカ諸国との交流を行っていることにふれ、「何であんなに黒いのが好きなのか」と、度し難い差別発言を行った。山本議員には黒人差別発言との自覚もない。

  (*ウェブ連載第197回「自民党・山本幸三議員の人種差別発言」ではこれについて詳しく書いている

 

ザ砲瓩弔韻蓮▲▲瓮螢大統領トランプの人種差別発言だろう。1月11日、米国への移民が多いハイチや中米、アフリカ諸国を「Shithole(肥溜め)」と呼ぶという、信じられない侮辱的な人種差別発言。

 

 ハイチはもとより中米各国の首脳も抗議の声を上げ、アフリカ各国が加盟するアフリカ連合(AU)54カ国の大使が、米国で緊急集会を開き、トランプに謝罪を求める共同声明を発表している。

 

 このトランプ発言に対して、アメリカの白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(KKK)の元最高指導者は「真実を語ったと称賛。

 

 トランプ大統領は、みずからの度し難い人種差別発言への批判から逃げきれないと考え、発言そのものがなかったとして無視する態度をとっている。

 

 

■批判された後にも「完全版」を放送

 

 

 ダウンタウン浜田の黒塗りメイクは、このような国内外で激しい批判が巻き起こっている中で起きた黒人差別表現事件だということを、まず確認しておきたい。

 

 批判は日本国内に住むアフリカ系米国人から沸き起こった。すぐさまSNSで海外に飛び火し、英国BBC放送や米ニューヨーク・タイムズなど主要メディアが「ブラック・フェイスは極めて侮辱的」な「人種差別」だと報じている。

 

 しかし日テレは、あろうことか1月6日に放送した『ガキの使い!絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!完全版SP』でも、浜田の黒人メイクシーンを流し、極めて挑発的な行動をとっている。

 

 

■日本における黒人差別批判の歴史

 

 

 日本社会で黒人差別表現への批判が行われた歴史はそれほど古くない。

 

 それは、1975年に結成された黒塗りフェイスでドゥーワップ(黒人歌唱グループでアカペラで歌う)を歌い、一躍人気グループとなったシャネルズ(現ラッツ&スター)が、1996年には「夢で逢えたら」で紅白歌合戦に初出場したことからもうかがえる。

 

 明治維新まで、歴史的に接触する機会がほとんどなかった日本人が黒人に対する差別的偏見を持つようになったのは、欧米文化を取り入れるなかで、白人優位主義的まなざしを刷り込まれたことによる。

 

 1854年、前年に引き続き来航したペリー提督が、日本人の観衆に向けて、白人の部下に「ミントレル・ショー」(顔を黒く塗った白人と白人が登場する寸劇)を観させた。観客の日本人は喜んだという。ペリー提督離日後も、日本独自でミンストレル劇や黒塗りで黒人に扮し、笑いをとる人種差別的コメディが、日本人コメディアンによって、1870年から、ごく最近まで演じられた。

  (*この項は日本在住の作家、バイエ・マクニール氏の論考を参照)

 

 

■批判された黒人キャラクター商品

 

 日本で、黒人差別表現が大きな問題となったのは1980年代。

 

 ワシントン・ポスト紙の記者が、都内の百貨店でおもちゃの“サンボ” を見て驚いた。

 さらに別の百貨店で黒人のマネキンを見て、あまりにステレオタイプ化された、人種差別的な黒人像が “ふつうに” ディスプレイされていることに、さらに驚いた。

 

 記者は、このことについての記事(「黒人の古いステレオタイプが日本で吹き返す」)を本国アメリカに送り、それが大きくとりあげられて日本に逆配信されたところから始まっている。

 

 黒人キャラクター商品を作った日本人の制作者に悪意があったとは思わないが、表現された黒人像は、すでに1930〜40年代のアメリカで批判されてきた黒人像だった。

 

 ステレオタイプ化された黒人像の源流には、あからさまな侮蔑があった。

 

 その後、マネキンなどは、即刻撤去され、時の内閣をも巻きこんだ、日米間の国際問題にも発展した。批判活動はさらに「ちびくろサンボ」や漫画に描かれた黒人像批判へと発展していった。

  (*「ちびくろサンボ」問題の経緯については拙著『最新 差別語・不快語』236頁で論じているので参照してほしい)

 

 

■黒人のステロタイプ像

 

 日本では、「クロンボ」とか「ニガー」という差別的呼称の問題というより、むしろ、『カルピス』の商標や、「ダッコちゃん」人形に見られるように、黒い丸顔・分厚い唇など、その「人種的」特徴を誇張し、嘲笑ったものや、腰みのをまとい、手には槍をもち、ドクロの首飾りを描いて、「未開人」「土人」として蔑むステレオタイプ的表現が、問題視された。

 

(写真は当時売られていたダッコちゃん人形)

 

 

 

1988年、玩具メーカー「タカラ」は「ダッコちゃん」の製造を中止、翌年「カルピス」は登録商標である黒人がストローでカルピスを飲んでいるマークの使用をとりやめる。

 

その後、1991年には、手塚治虫氏の『ジャングル大帝』をはじめとする作品のなかに、ステレオタイプな黒人差別表現が数多くあるとして、出版停止や差別的な部分の改訂を求める運動が、日本国内とアメリカで起きている。

 

カルピス商標(当時)

(当時のカルピス商標)

 

■外交問題となった政治家の黒人差別発言

 

 一方、その頃は政治家による黒人差別発言も頻発していた。

 

 1986年、当時の中曽根首相が、自民党の全国研修会で、「日本は高学歴になってきておる。…(中略)…平均点からみたら、アメリカには黒人、プエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって、日本人よりはるかに知的水準が低い」と発言し、米議会や黒人議員連盟が強く抗議。

 

 1988年、当時の自民党渡辺美智雄政調会長が、「日本人はまじめに金を返すが、アメリカには黒人やヒスパニックなんかがいて、破産しても、明日から金返さなくてもいい、アッケラカンのカーだ」と発言。国内外から人種差別発言として厳しい抗議を受ける。

 

 1990年、自民党の梶山静六法務大臣が、資格外就労の外国人女性摘発をめぐって、「悪貨は良貨を駆逐するというが、アメリカにクロ(黒人)がはいって、シロ(白人)が追いだされているような混在地になっている」と発言。

 これに対して、全米黒人地位向上協会などアメリカの団体のみならず、アフリカ各国をも巻きこんで抗議行動が拡がった。

 

 法務大臣をはじめ政府首脳は陳謝したものの、米下院が梶山法相非難決議を全会一致で採択。さらに東京都議会都市問題調査団が、ニュージャージー州都トレントンのダグラス・パルマ黒人市長により、訪問を拒絶される。

 梶山法相は、衆参両院の法務委員会で「国内外からの強い非難を浴びてはじめて人種差別問題への『感受性の欠如』やその克服の難しさに気づき」「外国人の労働問題という観点もなく短絡的だった」と陳謝。                                            (以上『最新 差別語・不快語』より)

 

 しかし、先に書いたように、この時期にラッツ&スターはテレビや音楽雑誌などで人気を博し、1996年の紅白歌合戦に初出場をはたしている。

 

 

ラッツ&スター、ももクロのブラックフェイス共演は事前中止

 

 さて、その後あまり活動をしていなかったラッツ&スターだが、2015年フジTVの「ミュージック・フェア」に、ももいろクローバーZとのジョイント出演が決まる。

 

 ラッツ&スターのメンバーの一人が、出演予告として、ももクロと自分たちが黒塗りフェイスでポーズをとった写真をネット上にアップしたところ、写真を見たニューヨーク・タイムズの日本人女性記者がツイート。

 

 「これが日本が人種差別について議論すべき理由だ」と、投稿していた黒塗りメイク写真とともに批判した。

 

 それをきっかけに、議論は一挙に沸騰した。

 

 その結果、フジTV「ミュージック・フェア」は、ラッツ&スターとももクロの黒塗りフェイスでのパフォーマンスシーンを、全面カットして放送したという事件があった。

 

(写真はラッツ&スターとももクロの黒塗りフェイス)

 

ラッツ&スターとももクロの黒塗りフェイス

 

■差別表現か否かは主観的意図とは関係ない

 

 ラッツ&スターが、黒人ミュージシャンに憧れ、心の底から尊敬の念を抱いていたことは、よく知られている。

 

 しかし、冒頭に書いたように、演者の主観的な意図=善意(憧れと尊敬心)は、差別表現(人種差別)か否かの判断基準とは関係ない事柄である。

 

 カットしたフジTVの判断は正しかった、というべきだろう。

 

 

■ミンストレル・ショーと、ラッツ&スター黒塗りメイクの差別性

 

 19世紀の奴隷制下のアメリカで、白人が顔を黒く塗り、ステロタイプな黒人像やしぐさで、面白おかしく演じる「ミンストレル・ショー」が、見世物として始まる。

 

 この「ミンストレル・ショー」は、1950年から60年代に高まった公民権運動の中で、その差別性ゆえに、最後の息の根を止められている。

 

 アメリカやヨーロッパ(のエンターテインメント業界)では、白人が顔を黒く塗り、黒人を演じる行為そのものが差別であるとの社会的規範がある。

 

 翻って日本では、それが今までなかったということに過ぎず、つまりラッツ&スターのブラックフェイスを差別だと見抜けなかっただけのことであり、意識的に許容されていたわけではない。単に無自覚だったということだ。

 

 この点は、自戒を込めて強調したい。

 

 

■「真似しただけ」と居直ってはいけない!

 

 

 『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』の浜田の黒塗りフェイスについて、局側は「映画ビバリーヒルズ・コップ主演のエディー・マーフィに扮した」、「真似ただけのこと」、「差別する意図はありません」と言っているようだ。

 

 しかし、どんな言い訳をしても、それは黒人差別表現であり、率直に反省し、「ミンストレル・ショー」消滅の過程に学び、演劇における黒人差別の歴史を知ることだう。

 

 黒い肌の色ゆえに黒人差別があるのではない。白人が黒人を支配する構造があり、そのもとで、「白は美しい」という観念が作り上げられている。

 

 社会構造として、アメリカをはじめ欧米各国にも、黒人差別はある。そして日本にも政治家の発言として顕現しているように、黒人に対する社会的差別は現に存在している。

 

 この社会情況の中で、顔を黒く塗って黒人を演じる行為は、その主観的意図、経緯、善意やリスペクトとは関係なく、すべて差別であると言わねばならない。

 

 「今後バラエティーは黒塗りなしでいくんですかね?ルールブックを作ってほしい」と逆ギレした浜田の相方・松本人志に言っておきたい。これが国際的「ルール」だと。

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