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連載第154回 ヘイトスピーチと表現の自由 (後編)
 
全国水平社創立大会決議が訴えたもの
 
ヘイトスピーチを「話者の品格の問題」という憲法学者は、在日韓国・朝鮮人が、関東大震災(1923年)時の大虐殺を連想し、生命の危険を感じている心情に極めて鈍感である。
この発言を聞いて私が想起したのは、日本における、差別表現問題の歴史であった。
今から92年前の1922年、部落民自身による自主的解放の荊冠旗(けいかんき)を掲げて、全国水平社創立大会が開催された。
その決議第一項は「吾々に対し、穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したるときは、徹底的糺弾を為す」である。それは、明治4年(1871年)に「賤民解放令」が出され、封建的な身分差別から政治的に解放されたにもかかわらず、その後も前近代的な賤視観念にとらわれた人々から、堪え難い侮蔑的な言動が繰り返し行なわれていたことに対する怒りを示したものだ。
戦前・戦後の部落差別表現に対する抗議・糾弾は、すべてこの決議第一項の主旨と精神を受け継いでなされてきた。
ちなみに、この水平社創立大会における、決議第三項は、東西本願寺に向けられた抗議であり、創立大会終了後、募財拒否の決議文をつきつけている。

 
ヘイトスピーチと差別表現、その決定的違い
 
1970年代から90年代にかけて、部落解放同盟をはじめ、女性、障害者、アイヌ、在日韓国・朝鮮人、同性愛者など、社会的差別を受けている様々な被差別マイノリティが、差別表現と、そこに凝縮されている差別的実態に抗議の声をあげ、「差別語と差別表現」の問題は、おおきな社会的関心事となった。
しかし、いま繰り広げられているヘイトスピーチとは、決定的な違いがある。
部落解放同盟の差別表現に対する抗議・糾弾は、もっぱらマスメディアに対するものであり、しかもその大半が、「ついうっかり」「なにげなく」差別の現実をよく理解せず、予断と偏見に無自覚のままなされた差別表現で、悪質な差別表現事例は数えるほどしかなかった。
それゆえ、「差別表現を規制する法律を作れ」という要求は、部落解放同盟をはじめ、被差別マイノリティのどの団体からも提起されたことはない。差別表現に対する抗議・糾弾は、
あくまでも、権力犯罪を暴き、権力の抑圧から「言論・表現の自由」を守ることを使命とするマスメディアと、差別表現に抗議する被差別マイノリティとの対話を通じて、解決されてきたのである
 
表現の自由は他者の人権侵害を許容しない
 
しかし、声高に「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」と叫ぶレイシストたちの言動は、この言論・表現の自由の精神とは全くあい入れない。というよりむしろ、表現の自由を守るためにも、このようなレイシストによるヘイトスピーチを取り締まる法が必要とされている。包括的差別禁止法を持たないこの国で、今、喫緊(きっきん)に要請されているのは、被差別マイノリティに対する「ヘイトスピーチ」(差別・憎悪宣伝扇動)禁止法なのである。
前号で紹介した学会シンポで報告され、強調されていたのは、欧米各国とくに欧州人権条約には、表現の自由の行使には、「義務及び責任が伴うこと」が明記されており、「表現の自由」の名のもとに、無秩序、無責任な言動は許されず、無制限な自由ではないことを定めている点である。
つまり、「表現の自由」は、内在的に他者の人権を侵害し、傷つけることを許容していないということなのだ。
憲法21条が掲げる表現の自由が優越的地位にあることは、欧米各国でも認められている。しかし、京都地裁(それを維持した大阪高裁)の判決が指摘するように、ヘイトスピーチは人種差別的犯罪であり、「表現の自由」の名による差別煽動、憎悪煽動は、断じて許されないのである。

 
「言論」の暴走の放置は肉体の殲滅(せんめつ)に至る
 
ヘイトスピーチは、社会的差別の存在を前提に、被差別マイノリティ集団を傷つけ、貶(おとし)め、排除するための言論による暴力であり、犯罪行為なのである。
それは、「話者の品格」の問題でもなく、「対抗言論」で対処できる性質の暴言ではない。言論の暴走を放置すれば、かならず肉体の殲滅(ジェノサイド)にいたることは、内外の歴史が証明しているところである。
では、「在特会」など“ネット右翼”と呼ばれる人々は、一体どんな心性の持ち主なのか。彼らを取材した安田浩一氏は、その著『ネットと愛国』の中で、聞くに堪えない人種差別的罵詈雑言を吐いている彼ら、彼女らは、何も特別な思想や政治的主張の持ち主でも、性格破綻者でもないと語る。
「在特会とは何者かと聞かれる。そのたびに私はこう答える。あなたの隣人ですよ。」

 
アイヒマンはなぜホロコーストを実行したか
 
同様のことを、20世紀最大の大量虐殺(ホロコースト)が行われたアウシュビッツからの生還者元国際司法裁判所判事のトーマス・バーゲンソール氏は次のように述べている。
「ナチス・ドイツによる大量虐殺は過去の話でもなければ、どこか遠くの国のことでもない。特定の条件下であれば、いつでも、どこの国においてもジェノサイドは起こりえる」
―――その条件とは?
「社会の中の不寛容だ。政治的なものもあるし、経済的なもの、民族的なものもある。そして憎悪。力を持つ集団が別の集団を憎悪し、それがジェノサイドを引き起こす」
―――第2次大戦中、強制収容所のナチスの軍人たちは、そういう人たちでしたか?
「彼らは、家では普通の生活をしている人たち。戦争の状況下でなければ絶対にやらない凶行をした人が、家に帰り、手を洗って子どもと遊ぶということをしているわけだ。元々は普通の人たちが、特定の条件下に置かれるとそういう行為に走る、ということがある」
(朝日新聞2013年9月19日より)

 
ハンナ・アーレントが語る「凡庸な悪」とは?
 
バーゲンソール氏が語る、「特定の条件下」とは、国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法を強行採決し、共謀罪の立法化をもくろみ、そして、仕上げとしての憲法改悪に一直線につき進んでいる、現下の政治情況のことではないのかと危惧するのである。
ナチ・ホロコーストの実行者アイヒマンに対して、ハンナ・アーレントが発した言葉、「凡庸な ( ※ ) 」の意味を、今こそ問い直すときではないか。


※「凡庸な悪」 アーレントは「自分は命令に従っただけ」と主張するアイヒマンを評して、自らの頭で考え、責任をもって善を意志することのできない人々を「凡庸さに宿る悪」であると語った。

この原稿は、『アンジャリ』誌上に発表したものを、今回了解を得て掲載をさせて頂いた。アンジャリ編集部に厚く御礼申し上げたい。
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連載差別表現第153回 ヘイトスピーチと表現の自由
 この「ヘイトスピーチと表現の自由」の原稿は、今年1月末に書き上げたもので、親鸞仏教センター(真宗大谷派)の『アンジャリ』(2014年6月1日発行)に掲載された。今回、親鸞仏教センターの了解を得て、転載することになった。御礼申し上げたい。
 
 
■たんなる差別表現ではない

 ヘイトスピーチ。この耳慣れない言葉が人々に知られるようになったのは、2012年の暮れも押しせまった頃である。
それは、第二次安倍内閣の成立と相前後して、声高に叫ばれるようになった。「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」などと、聞くに堪えない罵詈雑言を、白昼堂々何のためらいもなく連呼している。
 その団体は、「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)という。ネット右翼と呼ばれている在特会は、何の根拠もない「在日特権」なる虚構を、東京・新大久保、大阪・鶴橋のコリアンタウンを基点に、全国の主要都市で蛮声を張り上げ振り撒いている。そればかりか、“お散歩”と称して、在日コリアンの商店街を練り歩き、そこで働いている人々に暴言を吐き仕事を妨害し、さらにショッピングや食事を楽しむ日本人に中傷を浴びせている。こうしたレイシスト(人種差別者)の排外主義的妄動は、いま現在も続けられてい
その一方で、一般市民による創意工夫を凝らした反レイシズムのカウンター行動も活発に行なわれている。
 日本では、これら在特会を始めとする民族排外主義団体の暴言を、当初、ヘイトスピーチ=差別発言として批難していたのだが、そのあまりにもひどい言論の暴力が、「差別発言、憎悪発言」という訳語では実態を正確に反映していないとして、ヘイトスピーチ=差別煽動、憎悪煽動と呼ぶべきとの意見が、今では多数を占める。その背景には、ヘイトスピーチを犯罪とみなしている、欧米各国の法的規制の実情を知ったことも大きく影響している。

 
■司法で裁かれはじめた犯罪
 
 
すでに、この在特会の民族排外主義的憎悪に基づく犯罪行為が、法廷で裁かれている。主な事件は次のようなものだ。

1)2009年12月9日、京都朝鮮第一初級学校・南門前における在特会会員らによるヘイトスピーチ(在日韓国・朝鮮人差別発言)
2)2010年4月14日、徳島県教組を襲撃し、威力業務妨害と建造物侵入罪に問われた事件
3)2011年1月22日、奈良水平社博物館に対する「在特会副会長」Kによるヘイトスピーチ(部落差別発言)
4) 2012年3月2日のロート製薬「強要」事件。強要罪で逮捕され有罪が確定している。

3)は、それまでの在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチが被差別部落民に向けられた最初の事件。水平社発祥の地、奈良県御所市柏原にある水平社博物館に対する差別街宣行動で、「穢多やら非人やらいうたら…(中略)…出てこい穢多ども、ここは穢多の聖地やと聞いとるぞ」(奈良地裁の判決文より)との発言が、数十分間にわたって行なわれた。
奈良地裁は、水平社博物館側の訴えを認め、「上記文言が不当な差別用語であることは公知の事実」であり、名誉毀損罪にあたるとの判決を下し、慰謝料150万円の支払いを被告・在特会(当時)のKに命じている。
 
■退けられた在特会側の「表現の自由」

 画期的な判決が出たのは、1)の京都朝鮮第一初級学校が求めた民事訴訟に対してだ。すでに、威力業務妨害と侮辱罪で、執行猶予四年の判決(刑事裁判)は出されていたが、民事裁判において特筆すべき司法判断が、2013年10月7日、京都地裁において下された。
 判決は、在特会に対し京都朝鮮第一初級学校周辺半径200m以内の街宣禁止と1226万円の損害賠償の支払いを命じた。
高額な賠償金には、ヘイトスピーチの悪質さが加算されている。注目すべきは、繰り返されたヘイトスピーチを、人種差別撤廃条約の人種差別に当たると判断し、在特会側の“表現の自由”という主張を退けたことである。
判決文は、「我が国の裁判所は、人種差別撤廃条約上、法律を同条約の定めに適合するように解釈する義務を負う」と明言し、在特会の行動を、「在日朝鮮人という民族的出自に基づく排除であって、在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するもの」であり、「人種差別撤廃条約一条一項に当たる人種差別」と認定した。
確かにこの判決には、原告側が並行して求めていた民族教育権について、「子どもの権利条約」などに明記されている自己の文化・言語を享受する権利についての判断を避けており、不充分性はまぬがれない。だがそれを認めた上でなお、この判決の意義を高く評価したい。それは何よりも、法律より上位にある条約を根拠に、ヘイトスピーチ=人種差別行為と断じ、条約と国際法規の遵守を謳った、憲法第98条の精神を体現したところにある。
 私がこの京都地裁判決にこれほどこだわるのは、一つは、この司法判断から当然導きだされるヘイトスピーチを禁止する法律を緊急に立法化する必要性を感じているからである。もう一つは、そのためにも、日本の憲法学界の“差別と表現の自由”についての旧態依然たる認識を改めてもらいたいからでもある。
 
■ヘイトスピーチは「話者の品格の問題」か?
 
 2012
年11月、慶應三田キャンパスで、国際人権法学会の研究大会が開かれ、「差別表現・憎悪表現の禁止に関する」シンポジウムが行なわれた。欧米各国のヘイトスピーチ禁止法の実情報告が終り、各分野の著名な教授から、<日本法への示唆>としてコメントがなされたのだが、その内の一人、憲法の慶應大学K教授の発言には、思わず耳を疑った。
曰く、「まだ日本の憲法学界では、差別表現(ヘイトスピーチ)の問題は、学問の対象ではない」、「差別表現は話者の品格の問題である」、「論議するなら思想の自由市場で行えばよい」と、差別の現実を全く無視する発言であった。ヘイトスピーチが学問の対象ではないのだから、その禁止法を諸外国のように立法化する必要性など、日本の憲法学者が微塵も考えていないことが明らかになった。
「表現の自由」を絶対視し、思考停止する憲法学者の発言に、驚き怒りを通り越して、正直あきれてしまった。確かに、戦前の天皇制ファシズム下における言論弾圧は忘れてはならない歴史であり、その反省を踏まえて、憲法第21条の「表現の自由」が基本的人権の根幹をなす権利として揚げられている。だが、それは、権力の抑圧に対しての言論・表現の自由なのであって、被差別マイノリティへの差別扇動を自由とするものではない。
 思想の自由市場(論)は、相対する両者が、社会的、政治的に対等の立場にあることを前提としている。しかし、ヘイトスピーチにさらされている在日韓国・朝鮮人は、日本社会全体から日常的に差別されているばかりか、法的地位などにおいて不利な立場にあり、対等な議論は成り立たない。また反論することによって、レイシストからさらなる攻撃を加えられる危険性も高く、大多数の在日韓国・朝鮮人は沈黙を強いられている。
(以下、次号掲載は金曜日)
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連載第152回 糾弾権について思う
■はじめに

 今回のWEB連載に掲載する「糾弾権について思う」は、7〜8年ほど前に書いた文書である。政治生活を終えた野中広務さんが、身を賭して、麻生・山崎両自民党実力者を部落差別発言で告発しているにもかかわらず、解放同盟中央本部が全国大会で追及されても静観するばかりで、一切行動を起さず、いっぽうで麻生と中央本部が裏で“手打ち”をしたという噂を聞いた時期に、つまり結果として、この麻生の部落差別発言を封印した頃に書かれている。
 2009年1月16日付、ニューヨークタイムズが1面から4面までの紙面を割いて、この麻生の部落差別発言を報じたが、日本の全国紙を始め、大手メディアは黙殺している。
 まとまってこの問題に触れている本として、魚住昭著『野中広務 差別と権力』、辛淑玉・野中広務共著『差別と日本人』がある。
 麻生の「ナチスの手口に学べ」など一連の発言や、安倍政権のとどまるところを知らない反動化に、解放同盟中央本部一部幹部の糾弾を放棄した姿勢が無関係とは言えない。
 解放同盟中央本部の一部幹部と麻生、鳩山(邦夫)など、自民党との“深い関係”についても、次回以降で明らかにしていきたい。

■ 糾弾は運動の生命線
  • 部落解放同盟は「糾弾権」を“運動の生命線”と叫び続けてきた。
     糾弾とは文字通り、差別された者の抗議・告発の行為であり、怒りの表現である。
     1922年の全国水平社創立大会は「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す」と決議している。
     しかし、決議したからといって糾弾権なるものが社会的に認知されたわけではない。
     糾弾が、虐げられた者の“権利”として社会的に容認されるには、権力の苛烈な弾圧、迫害の下、夥(おびただ)しい犠牲者をその代價として払っている。
     糾弾は天皇制国家権力といえども躊躇はしない。

 ■軍隊と司法を糾弾

  •  その象徴的な出来事が、福岡連隊差別糾弾闘争(1926年)と高松差別裁判糾弾闘争(1933年)であろう。
     前者は、福岡連隊内におけるたび重なる部落出身兵卒への差別に対して、全国水平社の総力を結集した軍隊糾弾闘争として、解放運動の歴史にその名を刻んでいる。
     官憲のデッチあげた陰謀により、松本治一郎全国水平社委員長を始め、多くの水平社同人が下獄した。
     後者は、香川県高松の被差別部落の青年が部落出身を告げずに結婚したことを理由として、結婚誘拐罪に問われた事件である。
     “差別判決を取り消せ、さもなくば解放令を取り消せ”のスローガンの下、運動は燎原の火のように全国に燃え広がり、水平社の組織的基盤を固めた司法権力糾弾闘争であった。
     今日の狭山差別裁判糾弾闘争の先駆をなす闘いである。
     
    ■糾弾権は人間の尊厳を守るためにある
     言うまでもなく、これらの闘いは、天皇制ファシズムという未曾有の人権抑圧体制下において、人間としての誇りをかけた糾弾闘争であった。糾弾は、部落民衆の流した血涙の歴史である。
     判例も言う。
     
    「差別糾弾は手段、方法が相当な程度を超えない限り、社会的に承認されて然るべき行動であり(矢田教育差別事件・大阪地裁判決1975年6月3日)、また法秩序に照らし、相当と認められ、程度を超えない手段、方法による限り、かなりの厳しさを有することも是認される(同事件・大阪高裁判決1981年3月10日)」
     
    ■野中広務『差別と権力』に書かれたこと
     最近、読んだ本に野中広務『差別と権力』(魚住昭著)がある。野中さんの政治家としての人生を部落差別とのかかわりにおいて描ききった力作である。この本のエピローグに、野中さんが最後の自民党総務会で発言した内容が記されている。
    それは麻生総務大臣(当時)の「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」という発言に対する野中さんの激烈な批判である。
     この本の中では触れられていないが、同じ総務会で野中さんは、山崎拓首相補佐官(当時)が女性スキャンダルを追及する週刊誌記者たちに「あの女性は部落の人間だよ、君たち、それを記事にしたら大変な騒ぎになるぞ」と恫喝をかけたことについても指弾している。この事実は解放同盟中央本部の幹部も確認している。
     野中さんが最後の気力を振り絞って抗議・糾弾したこの二人の政治家に対し、同盟中央本部が抗議を行ったことを寡聞にして知らない。
     
     糾弾に功罪はある。しかし抗議すればすばやく対応する企業やマスコミなど、やりやすいところだけを糾弾し、政治権力者には及び腰、というのであれば、糾弾権などと声高に叫ばないほうがよい。
     先人の矜持を貶(おとし)めてはならない。
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第151回 あらためて差別表現をかんがえる
■差別表現とヘイトスピーチ、何がどう違う?
 
最近、よくたずねられるのが、「差別表現とヘイトスピーチの相異」についてだ。講演の演題にも筆者は使っている。すでにこのウェブ連載の第141〜143回に書いているが、今回は、差別表現について、もう少し詳しく、佐藤優さんが『読書の技法』のなかでのべている否定神学的方法、つまり「漢心(からごころ)ならざるものが大和心」的な視点でのべてみる。
差別表現とは何かについて、これまで幾度も話し書いてきた。拙著『差別語・不快語』にも詳しく書いている。最近も【差別語と差別表現の関係】について、ヘイトスピーチとともに、その共通性と相異点について、いろいろと書いている。
 
■差別語が使われているから差別表現なのではない
 
差別語とは何か。ひとことでいえば、差別語とは社会的差別を受けている被差別マイノリティに対する侮蔑語のこと (人種、民族、宗教、言語、性、障害、被差別部落、在日韓国・朝鮮人など)。
差別表現については、いつも全国水平社創立大会決議(1922年/大正11年)から説明している。
 
『吾々に対し、穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す。』
 
この決議が意味しているのは「侮辱の意志」の有無である。“穢多”とか“特殊部落”あるいは“新平民”といった、いわゆる差別語を使用したから“徹底的糾弾”を行うのではないことも、全国水平社10回大会決議〈言論・文章による「字句」の使用に関する件、1931年〉で、明確にしている。
 つまり、差別表現とは、文脈の中に差別性〈侮辱の意志〉が客観的に存在している表現であり、〆絞霧譴使用されているか否かとは直接関係しない。次に、 表現内容が事実か否かとも関係しない。そして、として、話者、執筆者、総じて表現者の主観的意図とも関係しないのである。
 まず、〆絞霧譴使用されているか否かとは直接関係しない、については、過去幾度も例をあげてのべてきた。
 
a)「永田町は、腹黒い輩が巣食う特殊部落だ」
b)「キチガイに刃物」
c)「あいつは何もわかっていない、盲(めくら)と一緒だ」
 
以上、a〜cは、差別語を使った差別表現。
 
d)「永田町は、腹黒い輩が巣食う被差別部落だ」
e)「統合失調症に刃物」
f)「あいつは何もわかっていない、視覚障害者と一緒だ」
 
  以上、d〜fは差別語は使われていないが差別表現である。
 
 a〜fには、差別語の使用とは関係なく、文脈の中に被差別マイノリティに対する“侮辱の意志”が含まれている。つまり、表現の差別性には何の違いもないということである。
 
■差別語について
 
 ここで、差別語について少しふれておこう。歴史的、社会的背景をもつ差別語には、厳しい差別の実態が塗り込められている。しかし、その言葉が包含する差別に対する辛苦と怒りを、逆に、差別を撃つ言語として活用することこそが、表現者には求められている。その意味でも、差別語はある、しかし、使ってはいけない差別語などは存在しないと言ってよい。
 
■『週刊朝日』はなぜ差別事件をくり返したのか?
 
 つぎに、表現内容が事実か否かと、差別表現であるかどうかは関係ない、について。
その事例として、2012年に起きた橋下徹大阪市長に対する『週刊朝日』の差別事件(「ハシシタ 奴の本性」佐野眞一+本誌取材班)がある。
 このとき、「ウソではなく事実を書いているので、問題ないはずだ」とか、執筆者の佐野眞一氏自身も、解放同盟中央本部の糾弾を受けた後でさえ、「今でも事実関係として間違ったことは書かなかったと思っている」とのべるなど、事実を事実として書いて何が問題なのか、と開き直っていた。(ある識者は「これでは『松本治一郎伝』も書けない」とのべた。)
 
【*筆者註――ここで問われているのは、執筆者・佐野氏や『週刊朝日』編集部よりもむしろ、確認・糾弾を行った解放同盟中央本部関係者の、差別表現問題に対する認識の甘さと弱さである。そのことは、「ハシシタ」記事で糾弾を受けている最中に、山陰のある県で起きた事件と被差別部落を結びつけて記事にするため、『週刊朝日』編集部が、著名なライターを連れて現地に向かい、取材している事実からもうかがい知れる。この『週刊朝日』編集部の取材姿勢に対し、当該県連から強く抗議され、のちに反省文が出されている。しかし、この反省文の内容も、特異な犯罪と被差別部落を関連づけて記事化しようとする発想、取材姿勢そのものの中に、記者に刷り込まれた差別意識が潜在していることに気づいていない。糾弾を行った解放同盟中央本部の関係者も、その点の理解が弱いというより分かっていないのだから、『週刊朝日』は、「ハシシタ 奴の本性」に続いて、同じ過ちをくり返したのである。何度、抗議・糾弾しても、差別の本質に迫っていなければ、相手はただ面従腹背するだけで、差別意識に気づくことはない。差別と闘った先人は嘆いている。】
 
■猟奇的犯罪と部落を結びつける発想
 
 同じことは、1997年の神戸連続児童殺傷事件のときにも起きている。ジャーナリストの嶌(しま)信彦氏は、テレビで犯人を「在日コリアン」と発言。また、ホラー作家の鈴木光司氏は、講演で犯人の母親を「被差別部落の出身者」と断定した。鈴木氏は、抗議された後、〈犯人の母親は「被差別部落の出身者」ではなかった〉として謝罪してきたが、逆に言えば、「被差別部落の出身者」であったなら公言してよいという認識をしめしたのである。
 
 つまり、△虜絞棉集修蓮表現内容が事実か否かとも関係しないということの意味は、
動機不明の猟奇的犯罪と被差別部落およびその出身者を安易に結びつける思考そのものにひそむ差別性こそが問われているのであって、事実か否かの問題ではないということなのだ。犯罪を被差別部落、在日韓国・朝鮮人、精神障害者など、社会的マイノリティと根拠のあるないにかかわらず安直に結びつける発想そのものが、批判されているのである。(詳しくはウェブ連載差別表現 第141〜143回を参照していただきたい。)
 
■その表現が社会的文脈の中でどう受けとめられるかが問題
 
 著名人や政治家など公人の出自を描くこと一般が問題だと言っているわけではない。差別的に描いたことが問題とされているのであって、事実であるか否かを問うているのではない。つまり、表現内容の差別性が問われているということなのだ。
 最後に、(差別表現であるかどうかは)、I集充圓亮膣囘意図とも関係しない、について強調しておきたい。これは、ヘイトスピーチと差別表現との相異とも深く関わる〈主観性〉の問題である。
 つまり、差別表現を問うとは、表現の差別性を問うているのであって、表現主体の主観的な意図(善意か否かをも含む)の有無を問題にしているのではない。 (差別発言をした当人がすべからく「私には差別する意図がなかった」と弁明するように!) 。すなわち、表現の客観性、その表現が社会的文脈の中でどう受けとめられるかということ、つまり表現のもつ社会的性格について問題にしているのである。
ここで、冒頭にふれたように、ヘイトスピーチについても一言触れておきたい。
 
■ヘイトスピーチ
 
 過去問われてきた差別表現とヘイトスピーチ(憎悪扇動・差別扇動)は、社会的差別(出自・民族・性などの属性による)を受けている被差別マイノリティに向けられている点は同じだが、決定的違いは、主観的差別、すなわち、その攻撃性と目的意識性にある。
つまり、ヘイトスピーチとは、社会的差別の存在を前提に「マイノリティ集団を傷つけ、貶(おとし)め、排除するための言論による暴力」であり犯罪行為である。〈話者の品格〉の問題でもなく〈対抗言論〉で対処できる性質の発言ではない。それ故に、不快かつ侮蔑的発言や差別表現とは違い、法的規制が必要なのだ。不快語、侮蔑語には、名誉毀損罪や侮辱罪で対応できるし、差別表現にはそれに加えて、自力救済の社会的糾弾がある。
しかし、ヘイトスピーチなど、言論の暴走が肉体の抹殺(ヘイトクライム〜ジェノサイド)に至る歴史を振り返ったとき、ヘイトスピーチの法的規制は当然のことなのである。
 
 
■結論
 
結論として、差別表現は、
〆絞霧譴了藩僂陵無とは関係ない
表現内容が事実であるか否かとも関係ない
I集充圈行為者の主観的意図とも関係ない
ということである。
 この三点を、しっかりと差別事件を起した相手に理解させることが差別表現糾弾の要である。
 しかし、この差別表現糾弾の思想を欠いて、いくら理屈をのべても、差別事件を起した相手は反省しない(というより反省できない)。
 2011年の大阪府市ダブル選挙にかかわっての『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』、そして翌2012年の総選挙を前にしての『週刊朝日』の橋下徹大阪市長に対する差別記事事件。さらに2014年8月『週刊現代』柳井正氏にかかわる差別記事事件、(表面化していないが『週刊朝日』の差別取材)など、一連の差別表現事件が、なぜ解放同盟中央本部が抗議・確認・糾弾したにもかかわらず、相次いで起きたのか、その理由の一端が明らかになったと思う。(本来、糾弾会は公開が原則だが、最近はなぜか非公開)。
 糾弾する側が、差別表現問題について理解が浅く、それ故、表面的かつアリバイ的抗議や糾弾を行ってきたところに、同じような差別表現事件が連続して起きた原因があるといわざるを得ない。
 
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第150回 差別表現に抗議するとは ――『週刊現代』(8月30日号)
■『週刊現代』への「申し入れ」と話し合いから一変して
 
先日、不愉快な話を小耳に挟んだ。というのも、『週刊現代』(8月30日号)掲載の「ユニクロ・柳井が封印した『一族』の物語」(本連載第143回参照)に関する差別記事事件で、それまでの解放同盟中央本部と講談社の話し合いの経緯を全く無視するかのような「社長を出せ」という要求が、突如、講談社側に突きつけられたという。
 
そもそもの発端である『週刊現代』(8月30日号)の差別記事に対し、当初、解放同盟中央本部は、かつての橋下徹氏(現大阪市長)にたいする『週刊文春』『週刊新潮』のときと同じく、差別記事であることが見抜けず、無視ないし軽視し、問題にはしないという、等閑視的態度をとっていた。しかし、反差別の人権活動家や地元山口から、抗議の声が上がるに及んで、中央本部が、渋々「申し入れ」を行ったという経緯がある。
ここで注意したいのは、「抗議文」ではなく「申し入れ」という形式をとったことである。
差別表現に対して、一般に、「抗議文」より「申し入れ」形式のほうが、抗議の意思表示としては弱い。そのことが、今回の『週刊現代』にたいする「申し入れ」という抗議姿勢にも表れている。(このことに中央本部が気づいているかどうかは別にして)
 
■<「ヤクザ」と「同和」>を一対として並記したことが当該記事の核心ではない
 
それだけではない。この講談社社長及び『週刊現代』発行人、編集人宛に出された「申し入れ」の内容には、もっぱら<「ヤクザ」と「同和」>を一対のものとして表記したことに対して、批判の矛先が向けられている。(この点についても本連載第148回で論じているので参照されたい。)
問題の所在は明確である。それは、<「ヤクザ」と「同和」>を並記して、社会にある差別意識を助長したことにあるのではない。連載143回の繰り返しになるが、要点を引用しておく。
 
・この「スクープレポート」と冠せられた記事の、いったい何がスクープなのだろうか。
・結論から先に言えば、その「秘められた『一族の物語』」つまり、柳井氏を被差別部落と関連付けることのみが、この記事の企図したものであり、それが「スクープ」なのであり、一連の橋下徹氏に対する差別報道にならえば、「驚愕の事実」ということなのだろう。ここに、この記事の差別性が、すべて凝縮されている。
 
・断っておくが、著名人、政治家など公人の「出自」を描くこと一般が問題だと言っているわけではない。厳しい社会的差別が存在している中で、なぜ被差別者の「出自」を描く必要があるのかを問うているのである。つまり、描く必要性とその意図、表現が与える社会的影響が問われているということなのだ。
・今回の記事は、スポーツ界、芸能界、歌謡界などで頑張っている、すべての被差別出身者に関わる重大な問題を含んでいる。
・さらに言えば、筆者(藤岡雅)の主観的な差別的意図の有無を、ここで問題にしているのではない。同記事の表現の客観性、その事実の指摘と表現が社会的文脈の中でどう受けとられるかということ、つまり、表現の持つ社会的性格について問題にしているのである。「秘められた『一族の物語』」に触れる、社会的必要性と合理的な理由は、この記事から読みとることはできない。
 
■相手を屈服させようとする態度は、差別糾弾の精神とは異なる
 
今回、同盟中央本部の話し合いに、講談社側は誠意をもって対応していると聞いていた。本来なら、すでに問題は解決しているハズなのに、なぜ突然、態度を豹変させ、社長の出席を求めるような奇怪な行動に出たのであろうか。
 
 それは、「出版・人権差別問題懇談会」(以下、出人懇)に、現在、強圧的に中央本部が介入してきていることと無関係ではない。当初、抗議する意志すらなかった中央本部が、急に「やる気」を出した背景には、『週刊現代』(8月30日号)の記事内容にたいしてではなく、出人懇副代表幹事の講談社に対する、筋違いの圧力をかけるためでしかない。今回の差別表現事件を利用して、自らの理不尽な要求を押し付け、相手を屈服させようとする邪道であり、差別糾弾の精神を貶める恥ずべき行為であると言わねばならない。
 
出人懇は1990年7月に設立された。そのとき、「会」の主旨を理解し、その必要性を広く出版業界に呼びかけ、設立を実現したのは、理不尽な差別表現行為を決して許さなかった講談社の、故・野間佐和子さんの意志であったことを忘れてはならない。
講談社、『週刊現代』は、話し合いのルールから外れた解放同盟中央本部の邪な恫喝に屈することなく、正論で対処すべき。それでも、社長を出せなどとエセ同和まがいの要求を突きつけるならば、席を蹴っても何ら問題はない。断固とした意志をもって、対峙すべきである。
 
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