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第2回 『原発ジプシー』という書名について
 先週の第1回では、「ジプシー」という言葉について『差別語・不快語』の中から、関口義人著『ジプシーを訪ねて』の引用部分を転載して説明しましたが、今回はそれを踏まえて、具体的に『原発ジプシー』という書名について考えてみます。

 最近、本文中に「ジプシー」という言葉が出てくる場合、「ロマ」「スィンティ」などの自称を併記して載せている例をよく見かけます。それはそれで良いと思うのですが、免罪符的に考えているのでは意味がありません。

 日本では、「ジプシー」という言葉に差別的な意味合いだけでなく、「放浪・流浪の民」が虐げられ、差別された生活の中から育んできた、生を貫くエネルギーとしての歌や踊りなどが評価され、肯定的に使用されてきた歴史があります。

 本文中にではなく、タイトル(書名)にあえて『原発ジプシー』と名付ける意味は、後者の肯定的な部分を前提にしてのことでしょう。

 この本の中で、「原発ジプシー」という言葉が出てくるのは、初版本の“あとがき”の終わりに、「原発の下請け労働者には地元の農民や漁民、そして私自身が体験したような、原発から原発へと渡り歩く“原発ジプシー”と呼ばれる日雇いの下請け労働者が大勢いる」という箇所に、1回だけです。本文と“あとがき”を読む限り、初版本を出した1979年当時、著者は、それ程強い問題意識を持って「ジプシー」という言葉をタイトルに選んだとは思えません。原発現場を渡り歩いた、原発放浪者、原発渡り鳥、原発流浪者という流れの中で、「流浪の民」、「ジプシー」の名をタイトルに付けたものと、推察できます。

 今回、増補改訂版を復刊するにあたって、著者の堀江邦夫氏は、“跋―もしくは「最終章」として”の中で、タイトルを変更しなかった理由を2つあげています。
ひとつは、「原発ジプシー」ということばが、私の造語などではなく、1970〜80年代にかけて実際に広く使われていたものだったことがある。(中略)「原発ジプシー」は、その時代のなかで生まれ、そしてその時代のなかで育ったことばであって、いまとなっては歴史的な意味のあることばだとさえ私は思っている。
として、「どのような理由があるにせよ」言い換えに反対するとしています。

理由の二つ目は
「原発ジプシー」ということばは、原発周辺地域住民や、原発現場の労働者のあいだでよく
口にされていたもので、(中略)原発を渡り歩く彼ら日雇いの下請け労働者たち自身が自嘲
とも悲しみともつかぬ思いをそこに込めて、自らをこの言葉で表現していた事実を私たちは
見逃すわけにはいかない。
として、「わしらは原発のジプシーみたいなもんさ」。と呟く彼らの境遇と、
話に聞くジプシー(ロマ)の人びとが受けているであろう差別や迫害、それと同じような苦しみを俺たちもまた味わっているのだという、ジプシー(ロマ)の人びとにむけたそんな共感とも同情ともつかぬ響きがこの言葉には含まれているのだ。同じ<痛み>のなかにおかれた者たちどうしの血を吐くような共通言語としての「ジプシー」なのだ。
として、言い換えには反対だとしています。

 理由の一について言っておかなければならないのは、1979年当時、まだ、「ジプシー」という言葉の差別性について、それほど認識されていたわけではなく、差別的に比喩的表現として使用される場合が圧倒的であり、先に述べた肯定的で積極的な意味の比喩的表現として使用されていた例は、まれでした。しかし、「ジプシー」という言葉を使った比喩的表現に対する抗議は、1990年以前にはほとんどなされていませんでした。部落解放同盟が、1988年に反差別国際運動(IMADR)を結成し、ドイツ、ロマ同盟との交流が深まってから、積極的に取り組んできた経緯があります。

 1970年〜80年代に「ジプシー」という言葉が広く比喩的に使用されていたとしても、それは、決して「ジプシー」という言葉に込められた、他称としての差別性を深く理解した上でのことではなかったわけです。そのことは、1979年の“あとがき”を読めばわかります。さらに言い換えは、「歴史=時代に対する改竄であり、冒瀆ではなかろうか。」は、一般的にはその通りです。しかし、そこに初版本時の時代状況の中で、「ジプシー」という言葉の他称としての差別性に、深い理解も大きな感心も払っていなかったとすれば、(本文及び“あとがき”を読む限りそう思わざるを得ない)今日の人権状況に照らして、復刊の“あとがき”の書き方も違うものになるのではないでしょうか。反省の契機を欠いた後付けの理由は、単なるノスタルジックで自己満足的な、「居直り」と受け止められかねない危険性があります。

 二つ目の理由は少し飛躍があると言わざるを得ません。

 部落差別に関わって、自己の社会的立場を自嘲的に「士農工商、代理店」など、比喩的に表現した例が数十あり、強く抗議がなされてきました。原発を渡り歩く下請け労働者が、自らを自嘲的に「わしらは原発のジプシーみたいなもんさ。」と呟くとき、何故被差別マイノリティを自己の置かれた立場の比喩的表現として引っ張り出してくる必要があるのか、という、比喩の対象とされる側の思いを無視した傲慢さがうかがえます。

 同じ苦しみを持つ者の「共感」と「同情」と「痛み」が「ジプシー」という言葉に込められているという、堀江氏の主張は分かりますが、しかし、比較対象とされたロマ(ジプシー)の人々がどう思いどう感じるかは、堀江氏の思いとは無関係の、全く別の事柄です。当事者性抜きの勝手な思い込み、とも受け取られかねません。今、EU域内のロマは、「放浪・流浪」ではなく定住化を求めて活動していることも報告しておきます。差別と迫害そして排除が、「放浪・流浪」の背景にあります。堀江氏が「ジプシー=差別語」として、短絡的かつ、機械的に排除したり置き換えることを批判しているのは、マスメディアの思想的脆弱性を問題にしている点において、その通りでしょう。

 信念や良し、しかし反省の契機を欠いた飛躍が感じられます。増補版復刊の“あとがき”には、初版本(1979年)の時とは、「ジプシー」(ロマ)についての理解も認識も深まっており、『原発ジプシー』というタイトルは、今日より輝きを増していると、著者自身の言葉で一言語るだけで充分でしょう。

 それにしても、今から32年前1979年に発刊された本ですが、全く新鮮さを失っていないことは驚きです。現在進行形で語られているかのごとくであり、福島第一原発事故のニュースを見るごとに、今まさにこの本に書かれている被曝労働が、より厳しい条件下で行なわれていることが、画面を通じてせまってきます。著者は、“取材”目的を秘匿したまま、美浜原発を皮切りに、福島第一原発、敦賀原発の3か所で、半年間にわたって原発被曝労働に従事し、その実態を告発し、今も過酷な労働を余儀なくされている仲間を気遣いながら、東電・関電を始め、電力会社に対する怒りを現しています。

 福島第一原発の事故と、その報道が、より深く立体的に理解できてくる、是非読まれるべき本だということを、最後に申し添えて、この項を終わりと致します。
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