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第12回 乙武洋匡氏の <なぜ僕は自分を「カタワ」と呼ぶのか> 雑感
 先週の『週刊新潮』(2011年9月1日号)に、上記の見出しに <一障害を笑えてこそ、「真のバリアフリー」> という一文を乙武氏が寄稿している。

 全文を読んでやや違和感を覚えた。

 乙武氏は書いている。
<みんな障害がある人に対して差別意識を持っている以上、どんな言葉を使っても“差別語”と言われます。字面を変えても本質を変えなければ意味がない。そう訴えたくて、あえてカタワのような強い言葉を使うのです。>

 確かに「字面」(言葉)を言い換えても、差別的現状や差別意識が変わったことにならないのは当然だ。しかし、新しい積極的な言葉で差別的な現状を表現することは、差別の現実を逆照射し、変革の大きな契機になることを、彼は歴史から学んでいない。言葉には力がある。

「乞食」、「ルンペン」を「ホームレス」→「路上生活者」、「穢多」、「特殊部落」を「未解放部落」→「被差別部落」と言い換えてきた歴史に意味がないとする彼の主張は、あまりにも幼過ぎる。「通信傍受法」の本質を「盗聴法」と見抜き、「中国残留孤児」を「中国置去り日本人孤児」と表現することは、決して意味のないことではない。

 それともう一つ、<僕は35年生きて、差別や偏見を感じたことが一度もありません> と乙武氏は述べている。それは、良い環境・良い人々に恵まれた人生で良かったとしか言いようがないが、決して普遍化できる個人的体験ではない。

 被差別の当事者性を持って語ることには好感を覚えるが、普遍性を持たない主張に社会性は生まれないだろう。しかし、差別語と言われる言葉が、議論の俎上に載ること自体は、大いに歓迎すべきことだと思う。
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