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第18回 聴覚障害者向け 字幕が浮かぶ眼鏡
<聴覚障害者の願いをかなえる日本映画用の字幕表示システムが開発された> ことを読売新聞のニュースで知った。

 開発されたのは、眼鏡のように装着すると、スクリーンの前の空間に字幕が浮かび上がって見える小型のヘッドマウントディスプレー(HMD)。字幕情報はMASCのウェブサイト上にあり、HMDを携帯電話端末「iPhone」(アイフォーン)に接続するとiPhoneを通じて送られてくる仕組みだ。 と書いてある。
「東京都中途失聴・難聴者協会」副理事長の小川光彦さん(49)は「私たちにとって、映画は人や社会とつながる大切なきっかけ。いつでもどこでも大切な人と映画を観に行ける環境を整備してもらえたらありがたいと期待を寄せている。
 聴者(耳に障害を持たない人)にとっては、別に気に止める程の記事ではないかも知れないが、一歩立ちどまって考えてみると、聴者であっても、映画館やテレビで洋画を見るとき“吹き替え”や日本語の字幕スーパーがなければ、多くの人が <外国語弱者> としての己を自覚せざるを得ないだろう。

 商業ベースで採算がとれるからこそ、聴者向けに吹き替えや日本語の字幕が行なわれているわけだ。しかし、聴覚障害者にとっては、吹き替えも字幕スーパーもない日本の映画やドラマ、そして報道番組も全て、海外にいるような感覚であり、ごくわずかな例を除いて何の配慮もされていない現実がある。

 2006年12月に国連総会で採択された、「障害者の権利に関する条約」は、その前文で、<障害者が社会生活を送るうえでの不便や困難は、障害者の「障害」に起因するのではなく、障害者と社会環境との相互の関係によって生じる障壁にあり、「障害」による不便や困難さを生じさせているのは、社会環境の側である> と主張している。

 たとえば、車いすでの移動が困難な原因は、車いすに乗っている障害者にあるのではなく、段差のある歩道や、エレベーターのない階段、スロープのない入り口、スムーズに通過できない駅の改札口など、社会環境の整備不足にこそ責任がある、という考えだ。

 さらに、第2条の「定義」のなかでは、<「障害を理由とするあらゆる区別、排除又は制限」は、差別であると指摘しているだけでなく、「障害」による不便さや困難さを除去し、改善するための「必要かつ適当な変更及び調整」=「合理的配慮」をおこなわないことも、障害者に対する差別である> と定義している。

 拙著『差別語・不快語』でも書いたように、この定義は、「障害」による不便や困難からの脱却は、医療や機能回復のためのリハビリなどによって、「障害」を克服する自助努力で実現すべきものという従来の認識から、社会環境の改善によって「障害」は「障害」でなくなるという考え方への大転換をなすものであり、社会で生活するすべての人々に対する平等な「合理的配慮」の実施が強く求めている。つまり、障害者が被る社会的不利益や社会的制約(障害者が生きていくうえで出会う差別や偏見、さまざまなバリア)などは、障害をもつ個人に帰せられる問題ではなく、障害のない人にあわせてつくられた社会環境や社会制度に、いい換えるなら健常者中心に構成された社会の側にこそ、障害者差別の核心があると述べているのである。

『条例のある街』(野沢和弘著・ぶどう社刊)の中に、「明りのなくなった街」という小見出しで、視覚障害のある方の次のような話が載っている。
「神様のいたずらで、障害者はどの時代でもどの町でも一定の割合で生まれる。しかし、神様のいたずらが過ぎて、この町で目の見えない人が多くなったらどうなるのか。みなさん考えてみてください。私はこの町の市長選に立候補する。そしたら目が見えない人が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は選挙公約をこうします。この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、街の灯りをすべて撤去する。そうしたら、目の見える人たちがあわてて飛んでくるでしょう。『なんて公約をするんだ。夜危なくて通りを歩けやしないじゃないか』と。市長になった私はこう言います。『あなたたちの気持はわかるけれども、一部の人たちの意見ばかり聞くわけにはいきません。少しは一般市民のことも考えてください』。そう、視覚障害者である私たち一般市民にとっては、灯りなんてなんの必要もない。地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人はわかってくれないのだろう」

車いす用のトイレをつくろうとすると、「こんなに財政が厳しいのに、一部の人たちのためにそんなお金を使うのはもったいないじゃないか」という議論がよく起こるけれど、もし車いすの人たちのほうが大勢になったら、なかなかそんなことを面と向かって言えなくなるだろうということを言いたかったのである。

「障害」の問題の本質は、何かができるか、できないかということではない。どういう特性を持った人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているのか、いないのか。障害者差別の本質は、そういうことに尽きるのではないだろうか。
②今週の問題表現―『週刊文春』2011年10月20日号
<関東では“東の西成”こと台東区山谷地区のほか新宿、新大久保、錦糸町、横浜市寿町がメッカだ。>(28頁)
 先週も書いた「○○はメッカ」だという表現。

 イスラームの関係団体の堪忍袋の尾もそろそろ切れるのではないか。 
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