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第143回 『週刊現代』8/30号「ユニクロ・柳井が封印した『一族』の物語」の差別性を問う
■「封印した『一族』の物語」の企図

  『週刊現代』8月18日発売号に、藤岡雅(本誌記者)執筆の「ユニクロ・柳井が封印した『一族』の物語」と題した記事が載っている。
  サブタイトルには、「地元・山口を嫌う柳井正」「『ヤクザと同和運動』に彩られた真の創業者」「社史に記されなかった『柳井商店』の原点」「似ても似つかぬ父と子」とある。
8月18日の新聞広告にも同様のタイトルとサブタイトルが載っている。

  この「スクープレポート」と冠せられた記事の、いったい何がスクープなのだろうか。
記事は「故郷を捨てた人」「一族との距離」「政財界から暴力団まで」などの小見出しのもと、ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が、なぜ、生れ育った故郷を顧みず、世話になった親族に冷淡なのかという声を、地元の人や親族に取材し、語らせている。
  その上で、ユニクロの前身「小郡商事」設立の裏面を記し、「そこ(小郡商事)には柳井氏が公の場では触れようとしない、秘められた『一族の物語』があった。」と興味本位な書き方をしている。
  結論から先に言えば、その「秘められた『一族の物語』」つまり、柳井氏を被差別部落と関連付けることのみが、この記事の企図したものであり、それが「スクープ」なのであり、前例の一連の橋下徹氏に対する差別報道にならえば、「驚愕の事実」ということなのだろう。ここに、この記事の差別性が、すべて凝縮されている。

■売らんがための部落差別キャンペーンの三番煎じ

  2011年11月号の『新潮45』、同年11月3日号の『週刊文春』、『週刊新潮』が、現大阪市長の橋下徹氏に対し、「書かれなかった『血脈』」(週刊文春)、「『同和』『暴力団』の渦に呑まれた独裁者『橋下知事』出生の秘密」(週刊新潮)と広告をうち、そして翌2012年10月26日号の『週刊朝日』が、「ハシシタ 橋下徹 本人も知らない本性をあぶり出すため、血脈をたどった!」などの差別的広告を打っている。
  それと同様に、今回、週刊現代が、売らんが為に、購買者の気を引き好奇心を煽る差別的な広告を打ってまで“スクープレポート”した内容は、先に抗議され、糾弾された、新潮、文春、朝日による橋下徹氏への部落差別キャンペーンの二番煎じ、いや、三番煎じと言ってよい。

■目的の差別性を覆い隠すための免罪符として使われた「解放運動評価」

  確かに、柳井氏の親族が山口県の水平社運動や戦後の部落解放運動に関わっていたことは事実だし、それを積極的に評価する姿勢を筆者が見せていることも確かだろう。
  しかし、それは、はっきり言って目的の差別性を覆い隠すための免罪符的記述に過ぎない。ここで問題となっているのは、筆者の主観的な善意や正義心ではなく、その記事がもたらす社会的影響と柳井氏のセンシティブな個人情報を、何のためらいもなく明らかにしていることである。
  重要なことは、柳井氏が、このような形で週刊誌に、「家系図」まで載せられて、自身が被差別部落と関連付けられることを、はたして承諾していたのかということだ。社会的差別を受ける可能性のある内容の記事を書くさい、当事者本人に取材し了解をとるのは、ジャーナリストの基本中の基本といってよい。たとえ親族や運動団体が語っていることが、歴史的事実であるにせよ、勝手に出自関連記事を書くことが、社会的に許されるはずがない。
  今回の記事は、スポーツ界、芸能界、歌謡界などで頑張っている、すべての被差別出身者に関わる重大な問題を含んでいる。

■取材目的の差別性――橋下大阪市長への週刊朝日記事と同じ

  この記事の当事者は、柳井氏であり、彼が、自己の「一族」の「出自」について、どう考え、どう思っているかがすべてであり、親族があれこれいう筋のことでもないし、ましてや運動団体の幹部の言葉を引用して、伯父で解放運動の活動家であった柳井政雄氏を評価するのは、その意図とは別に、取材目的の差別性を感じざるをえない。
  柳井氏が、差別撤廃運動に対し、どういうスタンスをとるかは、柳井氏自身に関わる事柄であって、他人が、あれこれ評価すべき問題ではないし、したり顔で語ることでもない。
  自らの出自に誇りを持ち、それを明らかにしている解放同盟の元委員長・松本治一郎の出自をたどり伝記を書くことと、自らの社会的属性を名乗っていない著名人の「血脈」、「血筋」、「一族」を、当事者の意思を無視し、意に反して描くこととは、まったく次元の違う問題だ。

  橋下徹大阪市長の出自を暴いた『新潮45』、『週刊文春』、『週刊新潮』、『週刊朝日』は、そのことがわかっていなかった。断っておくが、著名人、政治家など公人の「出自」を描くこと一般が問題だと言っているわけではない。厳しい社会的差別が存在している中で、なぜ被差別者の「出自」を描く必要があるのかを問うているのである。つまり、描く必要性とその意図、表現が与える社会的影響が問われているということなのだ。

  この記事を素直に読めば、柳井正氏が、故郷に冷たく、親戚とも疎遠で、地元に義理を欠く人物であり、その最大の原因が、同氏が、被差別部落に縁り(ゆかり)のある人間だということを隠したいからという結論にしかならない。

■どう言い訳しようが、記事の狙いは「柳井氏の出自を書くこと」にある

週刊現代8/30号65頁下段で、藤岡記者はこう書く。

「柳井正氏は昨年、世界中の正社員の賃金を同じ成果なら同じ水準とする世界同一賃金構想を提唱……。しかしこの構想を別の視点で眺めると、水平運動や同和運動を通じて何十年間にもわたり差別と闘い、決して出自や人種で人を差別してはならないとする柳井家の平等への渇仰が反映しているものとも見えてこないだろうか。」


  このように言い訳的に書いているが、このレポートが差別記事であるという結論に変わりはない。なぜなら筆者の意図は、つまり「スクープ」の狙いは、そこにはないからだ。この筆者と記事には、差別に対する憤りの感情と差別を見抜く直観力が欠けている。つまり、差別の現実について無自覚だということだ。そして、部落出身という社会的属性と人格、政治思想や経営手法を結びつける発想そのものに、潜在した自覚されない差別意識があることに、筆者や編集部は気づいているのだろうか。

■差別的意図の有無でなく、差別とは何かの認識が欠落していることが問題

  さらに言えば、私は、筆者(藤岡雅)の主観的な差別的意図の有無を、ここで問題にしているのではない。同記事の表現の客観性、その事実の指摘と表現が社会的文脈の中でどう受けとられるかということ、つまり、表現の持つ社会的性格について問題にしているのである。
「秘められた『一族の物語』」に触れる、社会的必要性と合理的な理由は、この記事から読みとることはできない。

  最後に、山口県光市生まれの詩人、丸岡忠雄氏の詩<ふるさと>を記してこの項を終わる。

<“ふるさとをかくす”ことを
父は
けもののような鋭さで覚えた
ふるさとをあばかれ
縊死(いし)した友がいた
ふるさとを告白し
許婚者に去られた友がいた
吾子よ
お前には
胸を張ってふるさとを名のらせたい
瞳をあげ
何のためらいもなく
“これが私のふるさとです”と名のらせたい>



 
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