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第144回 差別表現とヘイトスピーチの違い
  前回、前々回と差別表現とヘイトスピーチの違いについて考えてきた。その決定的違いは、主観的な差別、つまり、その攻撃性と目的意識性にあることを前回述べた。引き続き、なぜ差別表現は法規制が求められず、ヘイトスピーチは法で規制すべきと考えるのか、述べていきたい。

(3)ヘイトスピーチは「話者の品格の問題」か?――憲法学会の状況認識
2012年11月、慶應三田キャンパスで、国際人権法学会の研究大会が開かれ、「差別表現・憎悪表現の禁止に関する」シンポジウムが行なわれた。欧米各国のヘイトスピーチ禁止法の実情報告が終わり、各分野の著名な教授から、<日本法への示唆>としてコメントがなされたのだが、その内の一人、憲法の慶應大学K教授の発言には、思わず耳を疑った。
  彼は次のように語った

「まだ日本の憲法学界では、差別表現(ヘイトスピーチ)の問題は、学問の対象ではない」
「差別表現は話者の品格の問題である」
「論議するなら思想の自由市場で行えばよい」


  差別の現実をまったく無視する発言であった。ヘイトスピーチが学問の対象ではないのだから、その禁止法を諸外国のように立法化する必要性など、日本の憲法学者が微塵も考えていないことがあきらかになった。
  「表現の自由」を絶対視し、思考停止する憲法学者の発言に、驚き怒りを通り越して正直あきれてしまった。たしかに、戦前の天皇制ファシズム下における言論弾圧は忘れてはならない歴史であり、その反省を踏まえて憲法第21条の「表現の自由」が基本的人権の根幹をなす権利として揚げられている。だが、それは権力の抑圧に対しての言論・表現の自由なのであって、被差別マイノリティへの差別扇動を自由とするものではない。
  憲法学者に代表される思想・表現の自由市場(論)は、相対する両者が、社会的、政治的に対等の立場にあることを前提としている。しかし、ヘイトスピーチにさらされている在日韓国・朝鮮人は、日本社会全体から日常的に差別されているばかりか、法的地位などにおいて不利な立場にあり、対等な議論は成り立たない。また反論することによって、レイシストからさらなる攻撃を加えられる危険性も高く、大多数の在日韓国・朝鮮人は沈黙を強いられている。
  我々が法的規制を求めているのは、ヘイトスピーチ(差別煽動・憎悪煽動)であって、ついうっかり、なにげなく、差別の現実に無知なために行った言動や差別意識の希薄な差別語、差別表現、社会性をもたない不快語(一般に侮蔑語)を取り締まる法律をつくれと言っているのではない。この点が、反レイシズム運動を積極的に行っている右翼やアカデミックな憲法学者は区別がついていない。

(4)差別表現はメディアに対する社会的抗議で解決
  ヘイトスピーチを「話者の品格の問題」という憲法学者は、在日韓国・朝鮮人が、関東大震災(1923年)時の大虐殺を連想し、生命の危険を感じている心情に極めて鈍感だ。
  この発言を聞いて想起したのは、日本における、差別表現問題の歴史である。
今から92年前の1922年、部落民自身による自主的解放の荊冠旗を掲げて、全国水平社創立大会が開催された。その決議第一項が「吾々に対し、穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したるときは、徹底的糺弾を為す」であることはすでに述べた。
  それは、明治4年(1871年)に「賤民解放令」が出され、封建的な身分差別から政治的に解放されたにもかかわらず、その後も前近代的な賤視観念にとらわれた人々から堪えがたい侮蔑的な言動がくり返し行なわれていたことに対する怒りを表現したものだ。戦前・戦後の部落差別表現に対する抗議・糾弾は、すべてこの決議第一項の主旨と精神を受け継いでなされてきた。
  1970年代から90年代にかけて、部落解放同盟を始め、女性、障害者、アイヌ、在日韓国・朝鮮人、同性愛者など、社会的差別を受けているさまざまな被差別マイノリティが、差別表現と、そこに凝縮されている差別的実態に抗議の声をあげ、「差別語と差別表現」の問題は、大きな社会的関心事となった。
  しかし、これらの差別表現と、今くりひろげられているヘイトスピーチには、決定的な違いがある。

■目的意識的にマイノリティの抹殺を煽るヘイトスピーチ
  部落解放同盟の差別表現に対する抗議・糾弾は、もっぱらマスメディアに対するものであり、しかもその大半が、「ついうっかり」「なにげなく」差別の現実をよく理解せず、予断と偏見に無自覚のままなされた差別表現で、悪質な差別表現事例は数えるほどしかなかった。
  それゆえ「差別表現を規制する法律を作れ」という要求は、部落解放同盟を始め、被差別マイノリティのどの団体からも提起されたことはない。それはあくまでも、権力犯罪を暴き、権力の抑圧から「言論・表現の自由」を守ることを使命とするマスメディアと、差別表現に抗議する被差別マイノリティとの対話を通じて、解決されてきたのである。

(5)表現の自由は他者の人権侵害を許容しない
  しかし、声高に「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」と叫ぶレイシストたちの言動は、この言論・表現の自由の精神とはまったく相容れない。というよりも、むしろ表現の自由を守るためにも、このようなレイシストによるヘイトスピーチを取り締まる法が必要とされている。
  包括的差別禁止法を持たないこの国で、今、喫緊に要請されているのは、被差別マイノリティに対する「ヘイトスピーチ」(差別・憎悪宣伝扇動)禁止法なのである。
  さきに紹介した国際人権法学会シンポで報告され、強調されていたのは、欧米各国とくに欧州人権条約には、表現の自由の行使には、「義務及び責任が伴うこと」が明記されており、「表現の自由」の名のもとに、無秩序、無責任な言動は許されず、無制限な自由ではないことを定めていること。つまり、「表現の自由」は、内在的に他者の人権を侵害し、傷つけることを許容していないということなのだ。
  憲法21条が掲げる表現の自由が優越的地位にあることは、欧米各国でも認められている。しかし、2013年10月7日の京都地裁の判決が指摘するように、ヘイトスピーチは人種差別的犯罪であり、「表現の自由」の名による差別煽動、憎悪煽動は断じて許されないのである。

(6)「言論」の暴走の放置は肉体の抹殺に至る
  ヘイトスピーチは、社会的差別の存在を前提に、被差別マイノリティ集団を傷つけ、貶め、排除するための言論による暴力であり、犯罪行為であることは、すでに述べた。それは、「話者の品格」の問題でもなく、「対抗言論」で対処できる性質の暴言ではない。言論の暴走を放置すれば必ず肉体の抹殺(ジェノサイド)に至ることは、内外の歴史が証明しているところだ。

  日本の憲法学界や国際人権法学会が、ヘイトスピーチの被害にさらされている人々の現実から目をそらし、机上の法理論をもてあそんでいるとき、自民党は、2012年4月28日(この日の意味を思い出せ!)に、「日本国憲法改正草案」を発表した。
  国防軍の創設や「天賦人権説」の否定など、さまざまな問題点と危険性が指摘されている「改正草案」だが、とくに憲法第21条にある「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」から「これを」を外し、さらに第2項として、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」が付け加えられていることに注意したい。
  これは欧米の人権条約に書かれた文言をもってきているわけだ。しかし、これは憲法に入れる中身ではない。憲法は、国家の横暴にたがをはめるためのものである。もし、これが憲法に明記されたら、政府批判そのものができなくなるような内容だ。筆者は、こうした「憲法改正」に対して、非常に危機感をもち注視している。

■“法のために人がある”と発想する憲法学者
  周知のように、この憲法第21条(集会・結社・表現の自由・通信の秘密)を盾に、日本政府は人種差別撤廃条約の第4条(a)(b)項の「人種的優越又は憎悪に基づくあらゆる思想の流布」、「人種差別を煽動する行為」等に対して、処罰立法措置を義務づけることを留保している。日本の憲法学者の大半がヘイトスピーチ(憎悪発言・差別発言)を禁止する法の必要性を「話者の品格」の問題、「思想の自由市場」にゆだねるべきとして、否定的であることは述べてきた。
  そして、その観点から、ほとんどすべての憲法学者が人種差別撤廃条約の第4条(a)(b)「人種的優越または憎悪に基づく思想の流布」の禁止を批准せずに留保したことを、評価しているのである。
差別発言(ヘイトスピーチ)の問題について積極的な発言をしている内野正幸氏(中央大学)においてすら、次のように述べるのである。

差別的表現に対する法的規制といえば、なによりも人種差別撤廃条約第4条のことが思い起こされよう。それは、人種差別主義的な表現活動に対する刑罰的規制などにつき定めるものであり、いきすぎた厳しい規制を内容とする点で、表現の自由を手厚く保障する日本国憲法21条に適合しない、とみるべきであろう。実際、1995年、日本政府は、アメリカの場合と同様、問題条文である4条を留保した上で条約を批准したが、これは賢明な態度であったと評価すべきであろう。(『表現・教育・宗教と人権』)


  これは、学問的整合性を現実の差別的実態より優位におく発想と言わなければならない。言い換えれば、“法が人のためにある”ではなく、“法のために人がある”という国家主義的な視点である。くり返すが、我々が法規制を求めているのは、単なる不快語、差別語による差別表現ではなく、目的意識的に被差別マイノリティを抹殺せよとする主張と行動、つまり、ヘイトスピーチに対してである。


 
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