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第147回 「都議会女性差別ヤジ事件」は終わらない
■男女共同参画議員連盟・野島会長の暴言
  9月16日(火)、都議会は今年の6月に起きた“女性差別ヤジ”事件を受けて、活動を停止していた、超党派の「男女共同参画社会推進議員連盟」の総会を5年ぶりに開いた。
  会長に就任した自民党の重鎮・野島善司都議(65歳)は、記者団の質問に応え、「女性に対して、今回で言えば『結婚したらどうだ』という話でしょ。僕だって言いますよ、平場では」と述べたという。そして、「平場」の意味を問われ、「まったくのプライベートなという意味」と説明している。さらに、記者から問題点を指摘されると、「30年、35年前は、こんな発言(女性差別発言)など当たりまえで、おせっかいバーさん、ジーさんが、日常言っていることだ」と居直り、まったく反省の色どころか、開き直って、「都議会ヤジ事件」の差別性を否定しようとしている。
  開いた口がふさがらないとは、このことだが、都議会自民党が「女性差別ヤジ問題」をやっきになって幕引きをはかろうとしている中で、その「努力」を水泡に帰す放言といってよい。
  今回、野島議員が、言いたかった点は、次の二つである。
一つは、都議会などの公の場で言ったから問題なのであって、プライベートな「平場」であれば、何の問題もないという点。
  二つは、「30年、35年前だったら」こんな発言は、一切問題にならなかったし、そういう(結婚したらどう)発言は、ごく日常的で当たり前の発言であり、とりたてて問題にする必要はないという点。

■「プライベートな『平場』なら問題にされない」
  ひとつめの発言は、野島が都議会の「女性侮蔑ヤジ」事件が「女性差別」であるという事の本質を全く理解できていないことを暴露したものだ。
  一般に、差別発言は、話者の主観的意図の善悪ではなく、その発言が、社会的にどう受けとめられるかという客観的な問題であり、さらに、今回の場合のような、「セクハラ(性差別)」、「パワハラ」などは、まず第一に被害者の気分と感情が基点となる。

■公の場、プライベートの場を問わず、差別発言は差別発言
  今回、野島は、「公」の議会での発言(ヤジ)だから問題になったのであり、プライベートな「平場」での発言なら一切問題なしと強調している。野島は、不快語(悪態語・罵倒語・侮辱語など)による発言、差別発言との違いをまったく理解していない。
  もっと言えば、不快語と差別語の違いを理解していないということだ。(連載差別表現:第141回142回144回参照)
  たしかに不快語は、公的な場所や仕事上においても、使用されない。仮に使用されても、話者の品格が問われるだけであり、「下品な奴」と軽蔑されるのがオチである。
  しかし、差別語は、公の場所はもちろんプライベートな空間、たとえ家族、友人との少人数での会話であろうと、社会的に許されるものではない。公の発言であれば、抗議、糾弾を受け、「平場」での発言であっても、家族、友人から注意され、その場に差別語の対象となる人物がいるいないにかかわらず、差別発言として指弾をされるべき社会的性格を持っている。差別語、差別発言を発する話者に問われているのは「品格」ではなく、まさに、その「人格」が問われているのである。

■「30年前なら当たり前に言っていたこと」
  二つ目の「30年、35年前だったら日常的な発言で問題なかった」という主張は、たしかに野島およびその周辺ではそのとおりだったかもしれない。しかし、それが意味するものは、「30年、35年前」は、それほど人権意識が低く、差別的(今回の場合では「女性差別」)な社会環境であったということを示しているにすぎない。つまり、「石女(うまずめ)」という言葉がリアルに息づいていた、女性差別が当たり前の時代であった事実以外のなにものをも意味していない。
  野島発言は、かつての男尊女卑を懐古的になつかしむ、単なるセクハラオヤジであることと、彼自身が、現代日本の人権意識基準から、いかに遅れているかを自白しているにすぎないのである。
  この野島会長の暴言を奇貨として、「都議会女性差別ヤジ事件」を今一度、大きな社会問題として糾弾すべきだろう。


 
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