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第151回 あらためて差別表現をかんがえる
■差別表現とヘイトスピーチ、何がどう違う?
 
最近、よくたずねられるのが、「差別表現とヘイトスピーチの相異」についてだ。講演の演題にも筆者は使っている。すでにこのウェブ連載の第141〜143回に書いているが、今回は、差別表現について、もう少し詳しく、佐藤優さんが『読書の技法』のなかでのべている否定神学的方法、つまり「漢心(からごころ)ならざるものが大和心」的な視点でのべてみる。
差別表現とは何かについて、これまで幾度も話し書いてきた。拙著『差別語・不快語』にも詳しく書いている。最近も【差別語と差別表現の関係】について、ヘイトスピーチとともに、その共通性と相異点について、いろいろと書いている。
 
■差別語が使われているから差別表現なのではない
 
差別語とは何か。ひとことでいえば、差別語とは社会的差別を受けている被差別マイノリティに対する侮蔑語のこと (人種、民族、宗教、言語、性、障害、被差別部落、在日韓国・朝鮮人など)。
差別表現については、いつも全国水平社創立大会決議(1922年/大正11年)から説明している。
 
『吾々に対し、穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す。』
 
この決議が意味しているのは「侮辱の意志」の有無である。“穢多”とか“特殊部落”あるいは“新平民”といった、いわゆる差別語を使用したから“徹底的糾弾”を行うのではないことも、全国水平社10回大会決議〈言論・文章による「字句」の使用に関する件、1931年〉で、明確にしている。
 つまり、差別表現とは、文脈の中に差別性〈侮辱の意志〉が客観的に存在している表現であり、〆絞霧譴使用されているか否かとは直接関係しない。次に、 表現内容が事実か否かとも関係しない。そして、として、話者、執筆者、総じて表現者の主観的意図とも関係しないのである。
 まず、〆絞霧譴使用されているか否かとは直接関係しない、については、過去幾度も例をあげてのべてきた。
 
a)「永田町は、腹黒い輩が巣食う特殊部落だ」
b)「キチガイに刃物」
c)「あいつは何もわかっていない、盲(めくら)と一緒だ」
 
以上、a〜cは、差別語を使った差別表現。
 
d)「永田町は、腹黒い輩が巣食う被差別部落だ」
e)「統合失調症に刃物」
f)「あいつは何もわかっていない、視覚障害者と一緒だ」
 
  以上、d〜fは差別語は使われていないが差別表現である。
 
 a〜fには、差別語の使用とは関係なく、文脈の中に被差別マイノリティに対する“侮辱の意志”が含まれている。つまり、表現の差別性には何の違いもないということである。
 
■差別語について
 
 ここで、差別語について少しふれておこう。歴史的、社会的背景をもつ差別語には、厳しい差別の実態が塗り込められている。しかし、その言葉が包含する差別に対する辛苦と怒りを、逆に、差別を撃つ言語として活用することこそが、表現者には求められている。その意味でも、差別語はある、しかし、使ってはいけない差別語などは存在しないと言ってよい。
 
■『週刊朝日』はなぜ差別事件をくり返したのか?
 
 つぎに、表現内容が事実か否かと、差別表現であるかどうかは関係ない、について。
その事例として、2012年に起きた橋下徹大阪市長に対する『週刊朝日』の差別事件(「ハシシタ 奴の本性」佐野眞一+本誌取材班)がある。
 このとき、「ウソではなく事実を書いているので、問題ないはずだ」とか、執筆者の佐野眞一氏自身も、解放同盟中央本部の糾弾を受けた後でさえ、「今でも事実関係として間違ったことは書かなかったと思っている」とのべるなど、事実を事実として書いて何が問題なのか、と開き直っていた。(ある識者は「これでは『松本治一郎伝』も書けない」とのべた。)
 
【*筆者註――ここで問われているのは、執筆者・佐野氏や『週刊朝日』編集部よりもむしろ、確認・糾弾を行った解放同盟中央本部関係者の、差別表現問題に対する認識の甘さと弱さである。そのことは、「ハシシタ」記事で糾弾を受けている最中に、山陰のある県で起きた事件と被差別部落を結びつけて記事にするため、『週刊朝日』編集部が、著名なライターを連れて現地に向かい、取材している事実からもうかがい知れる。この『週刊朝日』編集部の取材姿勢に対し、当該県連から強く抗議され、のちに反省文が出されている。しかし、この反省文の内容も、特異な犯罪と被差別部落を関連づけて記事化しようとする発想、取材姿勢そのものの中に、記者に刷り込まれた差別意識が潜在していることに気づいていない。糾弾を行った解放同盟中央本部の関係者も、その点の理解が弱いというより分かっていないのだから、『週刊朝日』は、「ハシシタ 奴の本性」に続いて、同じ過ちをくり返したのである。何度、抗議・糾弾しても、差別の本質に迫っていなければ、相手はただ面従腹背するだけで、差別意識に気づくことはない。差別と闘った先人は嘆いている。】
 
■猟奇的犯罪と部落を結びつける発想
 
 同じことは、1997年の神戸連続児童殺傷事件のときにも起きている。ジャーナリストの嶌(しま)信彦氏は、テレビで犯人を「在日コリアン」と発言。また、ホラー作家の鈴木光司氏は、講演で犯人の母親を「被差別部落の出身者」と断定した。鈴木氏は、抗議された後、〈犯人の母親は「被差別部落の出身者」ではなかった〉として謝罪してきたが、逆に言えば、「被差別部落の出身者」であったなら公言してよいという認識をしめしたのである。
 
 つまり、△虜絞棉集修蓮表現内容が事実か否かとも関係しないということの意味は、
動機不明の猟奇的犯罪と被差別部落およびその出身者を安易に結びつける思考そのものにひそむ差別性こそが問われているのであって、事実か否かの問題ではないということなのだ。犯罪を被差別部落、在日韓国・朝鮮人、精神障害者など、社会的マイノリティと根拠のあるないにかかわらず安直に結びつける発想そのものが、批判されているのである。(詳しくはウェブ連載差別表現 第141〜143回を参照していただきたい。)
 
■その表現が社会的文脈の中でどう受けとめられるかが問題
 
 著名人や政治家など公人の出自を描くこと一般が問題だと言っているわけではない。差別的に描いたことが問題とされているのであって、事実であるか否かを問うているのではない。つまり、表現内容の差別性が問われているということなのだ。
 最後に、(差別表現であるかどうかは)、I集充圓亮膣囘意図とも関係しない、について強調しておきたい。これは、ヘイトスピーチと差別表現との相異とも深く関わる〈主観性〉の問題である。
 つまり、差別表現を問うとは、表現の差別性を問うているのであって、表現主体の主観的な意図(善意か否かをも含む)の有無を問題にしているのではない。 (差別発言をした当人がすべからく「私には差別する意図がなかった」と弁明するように!) 。すなわち、表現の客観性、その表現が社会的文脈の中でどう受けとめられるかということ、つまり表現のもつ社会的性格について問題にしているのである。
ここで、冒頭にふれたように、ヘイトスピーチについても一言触れておきたい。
 
■ヘイトスピーチ
 
 過去問われてきた差別表現とヘイトスピーチ(憎悪扇動・差別扇動)は、社会的差別(出自・民族・性などの属性による)を受けている被差別マイノリティに向けられている点は同じだが、決定的違いは、主観的差別、すなわち、その攻撃性と目的意識性にある。
つまり、ヘイトスピーチとは、社会的差別の存在を前提に「マイノリティ集団を傷つけ、貶(おとし)め、排除するための言論による暴力」であり犯罪行為である。〈話者の品格〉の問題でもなく〈対抗言論〉で対処できる性質の発言ではない。それ故に、不快かつ侮蔑的発言や差別表現とは違い、法的規制が必要なのだ。不快語、侮蔑語には、名誉毀損罪や侮辱罪で対応できるし、差別表現にはそれに加えて、自力救済の社会的糾弾がある。
しかし、ヘイトスピーチなど、言論の暴走が肉体の抹殺(ヘイトクライム〜ジェノサイド)に至る歴史を振り返ったとき、ヘイトスピーチの法的規制は当然のことなのである。
 
 
■結論
 
結論として、差別表現は、
〆絞霧譴了藩僂陵無とは関係ない
表現内容が事実であるか否かとも関係ない
I集充圈行為者の主観的意図とも関係ない
ということである。
 この三点を、しっかりと差別事件を起した相手に理解させることが差別表現糾弾の要である。
 しかし、この差別表現糾弾の思想を欠いて、いくら理屈をのべても、差別事件を起した相手は反省しない(というより反省できない)。
 2011年の大阪府市ダブル選挙にかかわっての『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』、そして翌2012年の総選挙を前にしての『週刊朝日』の橋下徹大阪市長に対する差別記事事件。さらに2014年8月『週刊現代』柳井正氏にかかわる差別記事事件、(表面化していないが『週刊朝日』の差別取材)など、一連の差別表現事件が、なぜ解放同盟中央本部が抗議・確認・糾弾したにもかかわらず、相次いで起きたのか、その理由の一端が明らかになったと思う。(本来、糾弾会は公開が原則だが、最近はなぜか非公開)。
 糾弾する側が、差別表現問題について理解が浅く、それ故、表面的かつアリバイ的抗議や糾弾を行ってきたところに、同じような差別表現事件が連続して起きた原因があるといわざるを得ない。
 
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