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第89回「どこの誰かが勝手に決めた差別用語?」―毎日新聞 牧太郎氏の不見識
■『毎日フォーラム』掲載のコラム「『禁止用語』を考える」
 毎日新聞社から『毎日フォーラム』という月刊の政策情報誌が発行されている。その2013年3月号に、牧太郎氏(毎日新聞記者・元『サンデー毎日』編集長)が自身のコラム「牧太郎の信じよう!復活ニッポン」で「『禁止用語』を考える」と題した一文を載せている。副題には、「故なき規制は『日本の文化』を失うおそれがある」とある。

 そのなかで牧氏は「百姓」が「差別にあたる可能性が強い」ので、「農民」に置き換えるべきだと校閲から注文され、抗(あらが)ったが直された例を挙げ「ともかくどこの誰かが勝手に決めた『差別用語』『放送禁止用語』が大手を振って歩いている」と憤懣(ふんまん)をぶつけている。

 その上で、いくつか具体例を出している。
例えば、職業に関する差別用語。「魚屋」「八百屋」「肉屋」「米屋」「酒屋」「本屋」「花屋」「おもちゃ屋」「文房具屋」「床屋」……。全て「禁止用語」だ。「○○屋」という言い方は全て差別用語だ!というのだ。
そのために「魚屋」は「鮮魚店」、「八百屋」は「青果店」、「肉屋」は「精肉店」、「米屋」は「精米店」、「酒屋」は「酒店」、「本屋」は「書店」、「花屋」は「生花店」、「おもちゃ屋」は「玩具店」、「文房具屋」は「文具店」、「床屋」は「理髪店」と言わなければならない。
(『毎日フォーラム』2013年3月号より)
 そして、「実にばかげている。(あまり使いたくない言葉だが)『言葉狩り』である」と怒り、「ある言葉が『差別』を助長するかどうかの判断は『各々の主観』に基づく。あってはならないのは『差別の現実』である。『言葉』ではない」としめくくっている。

■マイノリティの怒りに向き合えなかったメディア
 ひとこと言っておくが、先に挙げた例が「差別用語」だと、だれが決めたかと言えば、それはほかならぬ牧氏も属するマスコミ業界だということである。

 1960年代後半から80年代にかけて、部落解放同盟を中心に、障害者団体、在日韓国・朝鮮人団体、女性団体、先住民族アイヌ団体などの社会的マイノリティが、不快で他者を貶め、傷つける差別語と差別表現に対して、鋭い追求を行ってきたことはよく知られている。とくに抗議の矛先が、その与える社会的影響の大きい新聞、テレビ、出版などのマスメディアに向けられたことも、当然のことであった。

 しかし、多くのマスコミが、その抗議と怒りの声に対し、正面から向き合い、差別語と差別表現の問題を真摯に考えようとしなかったことは、各社が秘密裏に作成していた「禁句・言い換え集」などのマニュアル的な言葉の言い換え集を見れば、一目瞭然である。

 つまり、対処療法的かつ糊塗(こと)的に対応するのみで、差別語に塗りこめられた「差別の現実」を見ようともしなかった。また、その撤廃のためのメディアの社会的責任を果そうともせず、「差別語」と言われる言葉を消すこと、隠すことに専念してきた結果が、牧氏が怒る現在の状況を生み出しているのである。

■「侮辱の意志」の有無が表現の差別性を決定する
 差別語は存在する。しかし、使用してはいけない差別語(「禁止用語」)などというものはない。問われているのは、差別語の使用の有無ではなく、文脈における表現の差別性、つまり差別表現を問題にしているのである。一知半解なマスコミの対応の責任を、被差別マイノリティの抗議に負わせるのは、それこそ天に唾する行為と言わねばならない。

 差別語と差別表現について、部落解放同盟の原則は、明解である。
『一、吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す』(1922年3月3日 全国水平社創立大会決議第一項)
 つまり、「侮辱の意志」の有無が「差別表現」か否かの決定的基準なのである。
 そして、この全国水平社の決議第一項を徹底すべく、「第10回大会(1931年)で、「言論・文章による『字句』の使用に関する件」を改めて決定している。
「言論・文章による『字句』の使用に関する件」  提出 中央常任委員会

主文 吾々は「字句」の使用に対して明確なる態度を決定す。

理由 この「字句」使用の問題に就ては運動の当初よりの懸案であって、一応は決定されていたのであった。その後の闘争が該問題取扱上に種々のデリケートな、限界のルーズな事もあって、その初期に決定された「侮辱の意志による言動」が閑却された様な形であった。そこでこの「字句」さえ使えば悪いのだとの認識不足な考え方が起り、吾々の部落を現わすのに闘争団体の名称である、水平社と呼ぶことが最も安全であるかのごとく心得、平気で代名詞として使用する傾向が現われて来た。その他に於いても如何に必要な時であっても、ウッカリ文章及び言論に表現すると糺弾されるから「アタラズ」「サワラズ」式にとの態度となってこの問題に対する真面目な批判と、発表、通信、研究等を聞くことが出来なかった。吾々は如何なる代名詞を使用されても、その動機や、表現の仕方の上に於いて、侮辱の意志が――身分制的――含まれている時は何等糺弾するのに躊躇しない。
 然れども、その反対に「エタ」「新平民」「特殊部落民」等の言動を敢えてしても、そこに侮辱の意志の含まれていない時は絶対に糺弾すべきものではないし、また糺弾しない。この点徹底せしめるべく努力せねばならぬ。(1931年全国水平社第10回大会)
 1960年代後半から強められた差別語、差別表現に対する糾弾闘争は、この方針の下に行われたのである。「言葉狩り」という牧氏の理解が、いかに浅薄なものかがわかるであろう。加えて、この決議文では、1931年当時から、マスコミが禁句や言い換えに汲々とするのみで、「この問題に対する真面目な批判と、発表、通信、研究等を聞くことが出来なかった」ことを指摘している。

■「なにが差別か」を決めるのは「各人の主観」ではない
 最後に、「ある言葉が『差別』を助長するかどうかの判断は『各々の主観』に基づく」と、牧氏が述べていることについて、拙著『差別語・不快語』の一文を引いて、その誤りを糾しておきたい。
なにが差別か、差別表現かを、だれがなにを基準に判断するのでしょうか。“足を踏まれた痛み” を知る被差別マイノリティが、差別だといえば差別表現になるのでしょうか。たしかに被差別マイノリティは、ほかのだれよりも差別について、鋭敏な感性をもつ当事者です。
 しかし、なにが差別・差別表現かは、すぐれて客観的なもので、時代とともに変化する社会意識(社会的価値観)のなかに判断基準があるといえるでしょう。つまり、被差別者の主観的告発は、社会的に受け入れられることによってはじめて客観性(正当性)をもつわけです。大切なことは被差別者からの抗議・告発に真摯に向かいあい、しっかりと抗議内容を受けとめ、そのうえで、抗議された側としての思いを率直にのべることです。
 なにが差別か、差別表現かは、被差別者の主観のなかにではなく、客観的な社会的文脈のなかに存在します。その点、抗議されて萎縮し、告発者のいいなりになる姿勢は、問題の解決を遠ざけるだけです。それは、その本質において、被差別者の抗議に背を向け、無視する態度と表裏の関係です。“差別の現実に深く学ぶ” ということは、被差別者のいい分を全面的かつ無条件に受け入れることとはちがいます。主体性をもって、被差別マイノリティに向きあう姿こそ、真に相手を尊敬する対応です。
(『差別語・不快語』より)
 牧さんは校閲と断固闘って「百姓」と明記すべきだった。完遂できなかった憤りを他者に向けるべきではない。妥協した自分自身と闘うべきである。
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