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連載第154回 ヘイトスピーチと表現の自由 (後編)
 
全国水平社創立大会決議が訴えたもの
 
ヘイトスピーチを「話者の品格の問題」という憲法学者は、在日韓国・朝鮮人が、関東大震災(1923年)時の大虐殺を連想し、生命の危険を感じている心情に極めて鈍感である。
この発言を聞いて私が想起したのは、日本における、差別表現問題の歴史であった。
今から92年前の1922年、部落民自身による自主的解放の荊冠旗(けいかんき)を掲げて、全国水平社創立大会が開催された。
その決議第一項は「吾々に対し、穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したるときは、徹底的糺弾を為す」である。それは、明治4年(1871年)に「賤民解放令」が出され、封建的な身分差別から政治的に解放されたにもかかわらず、その後も前近代的な賤視観念にとらわれた人々から、堪え難い侮蔑的な言動が繰り返し行なわれていたことに対する怒りを示したものだ。
戦前・戦後の部落差別表現に対する抗議・糾弾は、すべてこの決議第一項の主旨と精神を受け継いでなされてきた。
ちなみに、この水平社創立大会における、決議第三項は、東西本願寺に向けられた抗議であり、創立大会終了後、募財拒否の決議文をつきつけている。

 
ヘイトスピーチと差別表現、その決定的違い
 
1970年代から90年代にかけて、部落解放同盟をはじめ、女性、障害者、アイヌ、在日韓国・朝鮮人、同性愛者など、社会的差別を受けている様々な被差別マイノリティが、差別表現と、そこに凝縮されている差別的実態に抗議の声をあげ、「差別語と差別表現」の問題は、おおきな社会的関心事となった。
しかし、いま繰り広げられているヘイトスピーチとは、決定的な違いがある。
部落解放同盟の差別表現に対する抗議・糾弾は、もっぱらマスメディアに対するものであり、しかもその大半が、「ついうっかり」「なにげなく」差別の現実をよく理解せず、予断と偏見に無自覚のままなされた差別表現で、悪質な差別表現事例は数えるほどしかなかった。
それゆえ、「差別表現を規制する法律を作れ」という要求は、部落解放同盟をはじめ、被差別マイノリティのどの団体からも提起されたことはない。差別表現に対する抗議・糾弾は、
あくまでも、権力犯罪を暴き、権力の抑圧から「言論・表現の自由」を守ることを使命とするマスメディアと、差別表現に抗議する被差別マイノリティとの対話を通じて、解決されてきたのである
 
表現の自由は他者の人権侵害を許容しない
 
しかし、声高に「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」と叫ぶレイシストたちの言動は、この言論・表現の自由の精神とは全くあい入れない。というよりむしろ、表現の自由を守るためにも、このようなレイシストによるヘイトスピーチを取り締まる法が必要とされている。包括的差別禁止法を持たないこの国で、今、喫緊(きっきん)に要請されているのは、被差別マイノリティに対する「ヘイトスピーチ」(差別・憎悪宣伝扇動)禁止法なのである。
前号で紹介した学会シンポで報告され、強調されていたのは、欧米各国とくに欧州人権条約には、表現の自由の行使には、「義務及び責任が伴うこと」が明記されており、「表現の自由」の名のもとに、無秩序、無責任な言動は許されず、無制限な自由ではないことを定めている点である。
つまり、「表現の自由」は、内在的に他者の人権を侵害し、傷つけることを許容していないということなのだ。
憲法21条が掲げる表現の自由が優越的地位にあることは、欧米各国でも認められている。しかし、京都地裁(それを維持した大阪高裁)の判決が指摘するように、ヘイトスピーチは人種差別的犯罪であり、「表現の自由」の名による差別煽動、憎悪煽動は、断じて許されないのである。

 
「言論」の暴走の放置は肉体の殲滅(せんめつ)に至る
 
ヘイトスピーチは、社会的差別の存在を前提に、被差別マイノリティ集団を傷つけ、貶(おとし)め、排除するための言論による暴力であり、犯罪行為なのである。
それは、「話者の品格」の問題でもなく、「対抗言論」で対処できる性質の暴言ではない。言論の暴走を放置すれば、かならず肉体の殲滅(ジェノサイド)にいたることは、内外の歴史が証明しているところである。
では、「在特会」など“ネット右翼”と呼ばれる人々は、一体どんな心性の持ち主なのか。彼らを取材した安田浩一氏は、その著『ネットと愛国』の中で、聞くに堪えない人種差別的罵詈雑言を吐いている彼ら、彼女らは、何も特別な思想や政治的主張の持ち主でも、性格破綻者でもないと語る。
「在特会とは何者かと聞かれる。そのたびに私はこう答える。あなたの隣人ですよ。」

 
アイヒマンはなぜホロコーストを実行したか
 
同様のことを、20世紀最大の大量虐殺(ホロコースト)が行われたアウシュビッツからの生還者元国際司法裁判所判事のトーマス・バーゲンソール氏は次のように述べている。
「ナチス・ドイツによる大量虐殺は過去の話でもなければ、どこか遠くの国のことでもない。特定の条件下であれば、いつでも、どこの国においてもジェノサイドは起こりえる」
―――その条件とは?
「社会の中の不寛容だ。政治的なものもあるし、経済的なもの、民族的なものもある。そして憎悪。力を持つ集団が別の集団を憎悪し、それがジェノサイドを引き起こす」
―――第2次大戦中、強制収容所のナチスの軍人たちは、そういう人たちでしたか?
「彼らは、家では普通の生活をしている人たち。戦争の状況下でなければ絶対にやらない凶行をした人が、家に帰り、手を洗って子どもと遊ぶということをしているわけだ。元々は普通の人たちが、特定の条件下に置かれるとそういう行為に走る、ということがある」
(朝日新聞2013年9月19日より)

 
ハンナ・アーレントが語る「凡庸な悪」とは?
 
バーゲンソール氏が語る、「特定の条件下」とは、国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法を強行採決し、共謀罪の立法化をもくろみ、そして、仕上げとしての憲法改悪に一直線につき進んでいる、現下の政治情況のことではないのかと危惧するのである。
ナチ・ホロコーストの実行者アイヒマンに対して、ハンナ・アーレントが発した言葉、「凡庸な ( ※ ) 」の意味を、今こそ問い直すときではないか。


※「凡庸な悪」 アーレントは「自分は命令に従っただけ」と主張するアイヒマンを評して、自らの頭で考え、責任をもって善を意志することのできない人々を「凡庸さに宿る悪」であると語った。

この原稿は、『アンジャリ』誌上に発表したものを、今回了解を得て掲載をさせて頂いた。アンジャリ編集部に厚く御礼申し上げたい。
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