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ウェブ連載差別表現 第155回 仏パリの新聞社襲撃事件について

 
■テロvs.言論・表現の自由の問題か?
 
 正月気分も抜けない1月7日、 フランスの首都パリで、過激な風刺画が売り物の週刊新聞「シャルリー・エブド」の事務所が、武装したイスラム教信奉者に襲撃され、記者ら12人が殺害されるという痛ましい事件が起きた。(その後、逃亡犯による立てこもり銃撃戦などで警察官を含む5人が死亡している。)
そして、テロから言論・表現の自由を守れとの大合唱の下、パリで第二次世界大戦時のパリ解放以来という、160万人、仏全土で370万人が参加する大規模な抗議デモが行われた。とくにパリのデモ行進では、先頭に40カ国の首脳が腕を組んで行進する映像が、全世界に発信された。
 しかし、本当にテロvs.言論・表現の自由の問題なのだろうかと疑問が残る。

 
■日本で起きた「『悪魔の詩』翻訳者殺害事件」
 
 事の発端は、ムハンマドの風刺画である。今回の事件は、イスラム教徒(ムスリム)にとって「命」そのものである預言者ムハンマドの風刺画についての評価を避けて、語ることはできない。
同様の事件は、すでに日本でも起きている。1991年「悪魔の詩」翻訳者殺害事件である。イランのホメイニ師から反イスラームを理由に死刑宣告を受けていたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を、筑波大学の五十嵐一助教授が翻訳したことに対する報復事件だ(2006年時効成立)。

 
■10年前にも同新聞社は抗議を受けていた 
 
 ムハンマドの風刺画問題では、すでに2005年にデンマークの新聞ユランズ・ボステン紙に「ムハンマドの顔」と題した風刺画が掲載され、中東の、デンマークとノルウェーの大使館が放火されるなどの事件が起きている。このときも、今回襲撃された「シャルリー・エブド」社が、この風刺画を転載し、抗議されている。この件について、以前、私は、次のように述べた。
 
〈イスラームには独自の戒律があります。これはイスラームの行動規範であり、倫理規定とされているものです。たとえば、ユダヤ教と同じく豚肉の禁忌、飲酒の禁止などは日本でもよく知られていますが、偶像崇拝も固く禁じられており、ムハンマドの像を描くこと自体がタブーであることなどはあまり理解されていません。
 2005年に起きた、デンマークの日刊紙に掲載されたムハンマドの風刺漫画をめぐる事件は、偶像禁止のタブー以前の、イスラームとムハンマドに対する文化的蔑視をふくんでおり、社会的に許容される風刺ではありませんでした。〉
(『差別語・不快語』2011年)
 
■ムハンマド風刺画は表現の自由の範疇に含まれる問題か?
 
 今回、この連載で取り上げたいのは、先にも書いたように、イスラームの預言者ムハンマドの風刺画が、はたして、表現の自由の範疇に含まれるのか、ということだ。NHKニュースや朝日新聞は、「テロから言論・表現の自由を守れ」一色の報道姿勢だ。朝日新聞は、ブチ抜きの社説(1月9日)で、「言論への暴力を許すな」と掲げ、1987年の朝日新聞阪神支局襲撃事件と重ね合わせ、「言論の自由を守る決意を新たにしたい」と意気込んでいるが、本当にそうか疑問が残る。
その朝日新聞の1月11日付「声」欄には「テロ生む背景を見つめたい」と題した投書が載っている。

 
今回の事件では、イスラムへの風刺画をこの新聞が掲載したことが原因との指摘がある。「風刺」とは、強者に対する弱者の抵抗である。抑圧された庶民が、権力者を「笑い飛ばす」ことは許される。だが、イスラム教徒の心の支えを笑いものにすることが、風刺といえるだろうか。
だから、今回の事件を朝日新聞阪神支局襲撃事件と同一視は出来ないと思う。死傷した記者は社会問題にメスを入れようと権力に立ち向かっていたのであり、他人の信仰を笑いものにはしていない。(朝日新聞「声」欄2015年1月11日)
   
 
正論だと思う。さらに1月15日の同じ「声」の欄には、「本当に許される『自由』なのか」と題した、次のような投書が掲載されていた。
 
言論・表現の自由へのテロや暴力・脅迫事件が起こるたび、語られる正義がある。「言論や表現の自由への挑戦は断じて許されない」――それ自体に異を唱えるつもりはない。ただ、その「自由」の中身を考えたい。
襲撃されたフランスの週刊新聞が掲載していた風刺画は「自由」から逸脱していたのではないか。もちろん表現の自由を自己規制するな、という議論もあるだろう。しかし、その表現がどんな影響を与えてるか、だれかを傷つけたりしないか、思いを巡らせて「自制」するのは当然ではないか。萎縮や放棄ではない。配慮、深慮、熟慮だ。(中略)週刊新聞は事件後初めて出す特別号の表紙に風刺画を再び掲載したという。「すべては許される」というメッセージとともに。しかし、それは本当に許される「自由」なのか。今はただ祈るしかない。これ以上の犠牲を生まないように。(朝日新聞「声」欄2015年1月15日)


 
ここに紹介した二つの投書は、至極真っ当な意見と言わねばならない。
 
■預言者に対する風刺画は「ヘイトスピーチ」――イスラーム研究者の声
 
また、現代イスラーム研究の第一人者・内藤正典同志社大学教授は、テロには断固反対という立場を前提に、預言者に対する風刺画は、言論・表現の自由の領域を逸脱しており、イスラームに対する侮辱と軽蔑をあからさまにした憎悪表現であり、「ヘイトスピーチ」であると、厳しい批判を行っている。内藤正典教授の意見の一部を紹介したい。
 
「テロが卑劣で容認できないことは言うまでもない。だが、預言者ムハンマドはムスリムにとって『命』である。それを嘲ることは人格を全否定されるに等しいことを理解すべきだ。」
 
「ガザの市民2500人(子ども500人)を虐殺したイスラエル、ウクライナ、チェチェン、ダゲスタン等で虐殺をくり返したロシア、ウイグルで虐殺をくり返す中国、ガザを見捨てたパレスチナ自治政府。あなた方にテロを非難する資格はない。」
 
「強者が弱者を嘲(あざけ)り、罵(ののし)ることが言論の自由か。シャルリ・エブドは、傲慢(ごうまん)で偽善(ぎぜん)をふりかざす指導者やムスリム諸国の政治家たちを罵るべきであって、肩を寄せ合うように暮らしている移民たちや難民キャンプで祈るしかない人々の心の拠りどころを罵るべきではない。それは風刺ではなく暴力である。」
 
「デンマークのときも、実は、暴力的な応答に火をつけたのは新聞社ではなく、当時、デンマーク首相だったラスムッセンの対応のまずさだったと聞いたことがあります。この問題を宗教的な原理主義対表現の自由の問題、といきなり飛躍させたのは新聞社ではなく、政府でした。」
 
イスラム教にかぎらず、普遍宗教の内在論理と感性をよく理解している内藤先生だけに、厳しい言辞の中に強い怒りを感じる。
 
■近代市民社会の「言論・表現の自由」を対置するのは筋違いでは?
 
 パリ市内で160万人、仏全土で370万人という空前の大規模デモがくり広げられた。フランス国家とマスコミは、このデモの意義をテロに屈せず言論・表現の自由を守る固い決意の表れとして声明を出し、報道していた。
 しかし、先にも書いたように、私には違和感がある。デモ参加者の多くが、テロ集団が言論機関である新聞社を襲撃したことに対し、人間の根本的生命活動である言論・表現の自由が、銃撃によって踏みにじられ、侵された、と危機感をもち、怒りを胸に秘め、自主的に参加したことに疑う余地はない。例えば、この痛ましい襲撃事件が、国家の権力機関の、とくに警察署だったとしたら、これほどのデモにはならなかったであろう。
 さらに、不謹慎をかえりみずに言えば、ユダヤ系スーパーだけの惨事であっても、抗議する人の怒りは同じでも、デモ参加者は少数にとどまっていただろう。
 ではなぜ、これほどの空前絶後の大規模抗議デモが、フランスはもとより、全世界で行われたのだろうか。
 それは「先進国」フランスの言論機関が、(その表現内容のよしあしは別にして)襲われたという一点にある。
 2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロは、世界の人々に恐怖と怒りをもたらしたが、人々の自発的抗議デモは、散発的なものにとどまり、むしろ、反イスラムの愛国主義者と志願兵が増え、ついにはアメリカの国家権力によるアフガニスタン、イラクへの侵略となって、今日のドロ沼の中東情勢の最大の原因となっている。
 
 私が言いたいのは、今回の「シャルリー・エブド」襲撃事件は、言論機関への暴力であり、表現の封殺を意図したテロ行為である限りにおいて、「言論・表現の自由」への挑戦であり、それは絶対に譲ることのできない人間の原理的活動を破壊する行為だということ。このようなテロ行為が、言論・表現の自由を破壊する行為であることは事実だが、これは近代市民社会の社会規範を超越した狂信的な蛮行であり、市民社会共通の「言論・表現の自由」を対置しても筋が違う、ということだけは強調しておきたい。
このことを理解していない頓珍漢な民族排外主義組織「在特会」のような連中が、ヘイトスピーチも表現の自由だと、声高に叫ぶのである。

 
■宮崎哲弥氏の『週刊文春』での論評
 
 パリの新聞社の風刺画が、ムスリムを侮辱していることは確かで、襲撃はその報復行為であることも間違いない。言論・表現に対する許されないテロ行為であることは事実だが、「表現の自由」と対置して、テロ行為を批判するのは、位相が違う。「表現の自由」は、権力に対置すべき人権概念だ。
 宮崎哲弥氏が『週刊文春』(1月22日号)の“時々砲弾”でこの問題に触れている。

 
 「表現の自由」といえども無制約ではない?そんなの当たり前だ。今回ムハンマドのカリカチュアを描いた戦闘的リベラルたちがそんなことを知らないと思っているのか? 個人のプライヴァシーや名誉に関わる表現、人種や性に関し差別や偏見を助長する表現、残虐行為を礼賛し、犯罪を唆(そそのか)す表現は制限されて当然だし、現に規制されている。
 だが西欧の考え方において、宗教に対する揶揄(やゆ)や冷評を含む批判は、それらとは別の枠組みなのだ。あえていえば宗教に対する言説や表現には極力制限を課してはならない、という共通了解が息衝(いきづ)いている。ここを理解しないことには、本件の厄介さはわからない。

 
 宮崎氏のコラム全体は、今回の事件について、極めてすぐれた論評だと思うが、宗教批判だけは「表現の自由」の制約外であり、それは西欧が歴史的にかち取ってきた共通了解という点には、異論がある。
 
■多様性を尊重するとは――パリ160万人抗議デモが意味するもの
 
 宗教に対する憎悪扇動を法的に禁止している国は多数あるが、フランスにはない。国際人権規約の“自由権”第20条(戦争および憎悪唱道の禁止)の2項に、「差別、敵意または暴力の扇動となる国民的、人種的または宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」とある。
 テロは絶対に容認できないが、宗教的憎悪を煽る行為も容認すべきではない。これが、西欧の共通了解なのだ。唯、フランスが、それを認めていないだけなのだ。
 9.11はテロだが、言論・表現の自由とは無関係だった。今回もテロだが、風刺画に対してなされたことで、言論・表現の自由の問題として報道されている。パリで抗議デモをした160万人の意思は、“物言えば唇寒し”的状況に対する憤りであり、イコール「表現の自由」が侵されたことに対してではない。
 
「シャルリー・エブド」社は、挑発的なムハンマド風刺画を性懲りもなく掲載した最新号を発刊した。5万部が500万部売れたとしても、それはイスラム教を侮辱し、ムスリムの「命」=存在を蹂躙(じゅうりん)し、犠牲にしたうえでの、売らんが為の商売行為だ。
 多様性とは、宗教を含め、それぞれの文化を尊重することにある。今回の事件を、言論・表現の自由に対するテロ行為と断言し、批判するマスメディアは、もう一度、今回の事件を冷静に考える必要がある。
良識あるジャーナリストは、あんな風刺画は描かないし、載せない。
福島原発事故による放射能汚染を風刺して、ゴールキーパー川島選手の手を千手観音に描き、お詫びしたのは、フランスの新聞社だ。
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