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第156回 日の丸・君が代問題をめぐるひとつのエピソード
■国旗・国歌法制定をめぐって
 
  敗戦後の部落解放運動に道筋をつけた「部落解放全国委員会」から「部落解放同盟」に名称変更して、今年で70年になる。来る3月2〜3日に、第72回全国大会が東京で開かれる (70回でないのは臨時大会が二度開かれているため)。
今回のウエブ連載では、差別表現とは直接関係しないが、「日の丸・君が代」問題について、ひとつのエピソードを紹介したい。
  今なお教育現場では、「国旗・国家」法制定の主旨に反して「日の丸・君が代」の強制が行われ、反対する教職員に対する弾圧も厳しさを増している。
  自戒を込めて、隠された事実を明らかにしていきたい。

 
■運動方針には「国旗・国歌法制定の動きに反対」と書くも……
 
今から15年ほど前、小渕内閣の官房長官だった野中広務さんが、その豪腕を発揮して、1999年(平成11年)8月に、「国旗国歌法」を成立させた。
成立の背景にある政治的意図については省くが、この「国旗国歌法」制定の過程で、日の丸掲揚や君が代斉唱を、教育委員会が強制し、各地の教育現場に大きな混乱をもたらしていた。
その渦中で1999年2月、広島県立世羅高校の石川校長が、卒業式当日に、教育委員会の度重なる威圧・強圧に耐え切れず、自裁するという痛ましい悲劇も起こっている。
この石川校長の自裁から2日後の、1999年3月2日〜3日にかけて、部落解放同盟の第56回全国大会が、東京・九段会館で開かれた。
その大会初日(3月2日)のことである。

大会議案書には、当然、日の丸・君が代=国旗・国歌法制定の動きに反対する運動方針が書かれている。この運動方針について、午前・午後と、代議員と執行部で論議するのだが、同盟の中心議題が「地対財特法」の期限切れを控え、人権擁護法案などにあり、日の丸・君が代問題でないことは確かだった。しかし、同和教育と直接関係する重要な政治的課題であることはまちがいない。
大会当日、九段会館にもっとも近い某新聞社の解放同盟担当記者が、午後遅くなって、取材にやってきた。大会の論議を、終了間際しか聴いていなかったが、彼の問題意識は、いま世間を騒がせている「国旗・国歌法」制定にあった。
それゆえ、彼の記者は、「解放同盟全国大会開催。日の丸・君が代に反対」と、小見出しのベタ記事を書き、翌日の朝刊に掲載されることになった。ところが、当時マスコミ担当だった私に、K同盟本部委員長から、「何だ、この記事は!こんなことは論議していない」、さらに「野中(広務)さんに知れたらまずい」とまで言って怒りを露わにしたのである。驚き、あきれはて、開いた口が塞がらなかった。

 
■全国大会後の定例記者会見を中止したのは・・・・・・
 
結局、“人権・マスコミ懇話会”の代表幹事の一人、日経新聞の野田記者のとりなしで、某新聞記者に非はないということになったものの、K委員長が納得することは最後までなく、大会終了後の定例記者会見も、K委員長の独断で、中止させられた。ちなみに、そのとき事情がよく飲み込めず、慌てていた教宣担当中央執行委員は、現書記長の西島藤彦氏である。
ではなぜ、それほどまでにK委員長は、国旗国歌法制定反対が大会の運動方針に書かれていたにもかかわらず、それが記事化されることに恐怖し、戦慄(せんりつ)したのか。
それは、同盟の運動方針にそって、広島県連をはじめ、全国の都府県連が反対運動を展開していたにもかかわらず、K委員長自身は、国旗国歌法案を推進している野中さんに気を遣って、明確に反対の意思表示をしていなかったということである。
同盟中央本部が本気で国旗・国家法制定に反対する運動を展開していれば、野中さんの豪腕があったとしても、はたして法成立が実現したかどうかは、疑わしい。
このことは、その当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのある政治家で、権力の中枢を担っていた官房長官の野中さんが、複数の同盟役員を通して、上杉佐一郎委員長、上田卓三委員長、小森龍邦書記長、川口正志副委員長など歴戦の闘志が同盟中央本部を去り、弱体化していた同盟中央に深く影響を及ぼしていた事実と符号する。(それは別に野中さんが意識的に接近したというより、当時の同盟役員の方から擦り寄っていたのである。)
そのあたりの事情は、部落解放同盟中央本部の機関誌『部落解放』(2014年8月号)に載っている、<「現場の声を聞き、先頭に立って引っ張っていく」――部落解放同盟中央本部・西島新書記長に聞く>で、次のように述べていることからも、うかがい知れる。

 
中央本部の執行委員になったのは、94年からです。私が入った94年は、ちょうど人権擁護施策推進法の議論が大詰めをむかえていました。(中略) 当時、与党・自民党内で審議会設置法に関して絶大な影響力を持っていたのは、京都選出の衆議院議員・野中広務さんでした。そこで同じ京都出身の私が窓口をやれということで、野中さんと何度も交渉を行う中で、ようやく寺澤亮一さんが審議会委員に入ることができました。微力ながら貢献できたかなと思っております。
 そして、当時の上杉佐一郎委員長と野中さんとの会談を設定したり、野中さんと部落解放同盟のパイプ役をしていました。(中略) また、自民党の野中広務さんとは20年の付き合いで、1996年の衆議院選挙では、部落解放同盟としてはじめて野中さんを推薦しました。このとき野中さんの演説会に、社会党の重鎮である野坂浩賢さんに応援演説を頼めないか、という話がもちあがりました。(中略) 園部中央公民館で開かれた野中広務さんの演説会では、野坂さんが電話口から応援演説をするという快挙が実現しました。(『部落解放』2014年8月号)
 
■麻生太郎の部落差別発言を封印
 
  しかし、野中広務さんが議員活動を終え、権力から離れた後には、手のひらを返したかのように疎遠になり、ついには、すでに幾度もくわしく触れている麻生現副総理兼財務大臣の野中さんに対する重大な部落差別発言(魚住昭著『野中広務 差別と権力』、辛淑玉・野中広務共著『差別と日本人』参照のこと)に対して、解放同盟中央本部は一切の抗議を行わなかった。
この部落差別発言が公になり、国際的にも大きく報じられ(2009年1月16日付 ニューヨークタイムズが四面を使って報じた)、同盟の全国大会で、代議員からも突き上げられ、学者・文化人からも、麻生の差別発言を糾弾すべきとの声が沸き起こったにもかかわらず、批判の声を圧殺し、野中さんの、気力を振り絞っての抗議に何ら報いることなく、この麻生の部落差別発言を封印したのである。
  現在は、佐高信(さたか・まこと)さんから差別主義者と批判されている福岡選出の自民党議員・鳩山邦夫に「魔王」を贈るなどのゴマ刷り要請行動をおこなっていると聞く。
  麻生太郎の部落差別発言に対し、秘密裡に“手打ち式”が行われたと噂されているが、これらのことを含め、権力に対する小心で狭量なK委員長の虚像を、随時、明らかにしていきたい。加えて、エセ同和組織から“信頼”をおかれている本部書記や、“先生”と呼ばれている役員の行状についても報告していく。さらには、昨年暮れに、出版・人権差別問題懇談会の50社近い会員社の社長宛に、K委員長名で出された怪文書もどきの背景についても、暴露していきたい。

 
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