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第163回 NHK『あさイチ」市原悦子さんの「かたわ」「毛唐」発言について
■NHK『あさイチ』ゲスト市原悦子さんの発言
 
 2015年5月22日(金)の朝に放送された『あさイチ』に、女優の市原悦子さんがゲスト出演していた。

『まんが日本昔ばなし』の中で、彼女がいちばん好きなのが「やまんば(山婆)」だとして、次のように語った。

 
「私のやまんばの解釈は世の中から外れた人。たとえば『かたわ』になった人、人減らしで棄てられた人、外国から来た『毛唐』でバケモノだと言われた人」
 
そして、
 
「彼らは反骨精神と憎しみがあって他人への攻撃がすごい。そのかわり心を通じた人とはこよなく手をつないでいく。その極端さが好き」
 
これらは、「やまんば」の魅力を、市原さんが語る中で出てきたことばだった。
ユーチューブの映像で、じっさいの場面も見たが、市原さんが差別意識をもって「かたわ」「毛唐」と発言したのでないことは確かだ。



■差別語を使用すれば差別表現になるのではない


 いつも私がくり返しているように、差別語の使用=差別表現ではない(くわしくは拙著『差別語・不快語』を参照  してほしい)。
 
今回の放送「あさイチ」での市原さんの発言は、研修などで典型事例としてあげる、石川達三著『人間の壁』(新潮文庫)にある、つぎの文章と同じだといえる。
 
(4)差別表現ではないが差別語の使用の仕方が誤っている場合

「特殊部落の子どもと他の子どもとの間にある差別感をどう取り除くか」
 
 上の表現は、差別表現ではなく、したがって“抗議”はしていない。差別語の使用のしかたについて“申し入れ”をおこなったもので、差別語と差別表現をめぐるいろいろな研修で、つねに引用している有名な事例だ。
 教員らが集まる教育研修会を取材した作家(石川達三氏)が、「『特殊部落』の子どもと他の子どもとの間にある差別感をどう取り除くか』ということを教員らが議論していた分科会は非常に熱気に満ちていた・・・」という文脈のなかででてきた表現。
 これは、差別語を使用しているが、差別表現ではない。
 しかし、この文章に使われている〈特殊部落〉は、ほんらい被差別部落あるいは、行政用語である同和地区などと表記されるべきだ。
 作者の石川達三氏は、この語のもつ歴史的・社会的背景への認識をもち得ないまま、誤って差別語を使用したということ。この作者の思いを生かすには「被差別部落」とすべきだろう。
このときには、発行元の新潮社に「申し入れ」を行い、著者石川達三氏の了解のもとで、「特殊部落」を「被差別部落」と改訂、編集長の注釈をつけて改訂版が発行されている。ここで、「抗議文でなく申し入れ」と、私がいう意味は、「抗議・要請文」は、差別表現に対してのみ、出されるものだからだ。
 

■判断の指標は、差別語を使用する必要性があるか・ないか
 
 さて、今回の市原悦子さんが差別語を使用した「事件」についての問題点をのべていこう。
 
まず、『差別語・不快語』から要約して、ポイントを押さえよう。(6月10日発売のちくま新書『部落解放同盟「糾弾」史――メディアと差別表現』でも解説しているので見ていただければと思う。)
 
●差別語を使用する必要性がある場合
差別語を使用したからといって、差別表現というわけではない。差別語を使用することによって、そのことばのもつ歴史性や社会性、つまりリアルな現実を描きだす必要がある場合、時代の差別意識をおびた差別語は、その表現に欠かせないことばとなる。たとえば、目が見えないために差別的言辞を投げつけられてきた古老が、「昔は、どめくら、と罵られ悔しい思いをした」と語ったとしても、なんら差別表現ではない。このときの「どめくら」を「視覚障害者」といい換えることは、逆に、そのことばのもつ差別の歴史を覆い隠すだけであり、視覚障害者の権利確立に役立つとは思えない。
差別語は、その差別をなくすためには、使用されなければならない場合がある。
差別問題・人権問題を研究する学術書や、差別問題を題材とした文学書などに差別語が記載されるのも同様に理解する必要がある。
つまり、差別語を使用する場合、そこに合理性と必然性があるかないかが、重要な指標となる。


●ことばは文化
いかなることばであれ、使用してはならないことばは存在しない。たとえそれが差別語・不快語であっても、使用禁止や放送禁止になるわけではない。ことばは文化であり、ことばを否定することは文化を否定することにつながる。
差別語は、抹消すべき対象ではなく、過去を知る重要な手がかりである。
 
 
【ポイント】差別語と禁句
差別語を禁句にすることは、じっさいにある差別を隠すことに手を貸すだけであり、差別をなくすことにはつながらない。
 
■有働由美子アナの具体的な「お詫び」は評価されるべき
 
 以上の点からかんがえると、あの場面で、市原悦子さんが「かたわ」「毛唐」という差別語を使う、社会的必要性と合理的理由はない。「障害をもつ人」「肌の色や目の色の違う外国の人」で十分。
 番組の終盤で、有働由美子アナが、
「さきほどのコーナーで『かたわ』『毛唐』という発言がありました。身体の不自由な方、外国人の方を傷つける言い方でした。深くお詫びします」
 と、お詫びと訂正をしたが、当然のことだ。
 ここで高く評価したいのは、市原さんの発言よりむしろ、「かたわ」「毛唐」という発言をきちんと指摘したうえで、そのことばの意味する差別性も含めて、有働アナが、お詫び・訂正したこと。問題は、“放送禁止用語”を発言したからではなく、差別語を不用意に使用したことにあるという点を踏まえてのものだ。
 これまでは、テレビ各局とも「さきほど番組内で不適切な表現がありましたが、お詫びして訂正します」で済ませていた。何が、どう不適切だったかを、具体的に語ることで、問題の顕在化がなされ、そのことを通して啓発効果が期待できる。
 
生放送ではよく起こる事態だが、番組内でなされる「お詫び」の内容で、人権感覚の熟度がわかる。
 
■ネット上で飛び交う「悪意はないから問題ない」という意見
  
 いっぽう、今回の市原さんの発言を、とくにネット上で擁護する声が多いのだが、それについてひとこと言っておきたい。「前後の文脈上問題ない」「差別意識はない」、つまり「表現の一手法」であり「悪意はない」といった意見についてだ。
 抗議・糾弾するのは、あくまでも差別表現であって、差別語の使用の有無とは関係がない。「悪意があるかどうか」も関係ない。この点を誤解している人が多いので、<差別表現とは何か>をもう一度整理しておく。
 
差別表現とは

○文脈のなかに差別性(侮辱の意志)が存在している表現のこと。
(1)差別語が使用されているか否か、(2)内容が事実か否か、(3)悪意があるか否か、とは直接関係しない。


○差別表現で問われているのは、表現の差別性であって、表現主体の主観的な差別的意図の有無の問題ではない。表現の客観性、その表現が社会的文脈の中でどう受けとられるかということ、つまり、表現の持つ社会的性格について問題にしている。
 
今回の事件でいえば、市原悦子さんは差別語を使用しているが差別表現を行ったわけではない。
それゆえにNHKは、抗議されることも糾弾されることもない。ただし、不用意な差別語の使用は、避けなければならない。

その点で、有働由美子アナのお詫びと訂正で十分である。
 
■「僕はカタワと言われても傷つかない」(乙武洋匡氏の発言)
 
最後に、このような事態を惹起させる一因ともなっているのは、『五体不満足』の乙武洋匡(おとたけひろただ)氏が、つぎのように述べていることだ。
 
「『カタワ』はNGで、『障がい者』はOKと誰が決めたのか。誰の感情にあわせた線引きなのか。まったく分からない」
 
とのべ、平気で「自分は『カタワ』と言われても傷つかない」と放言していることである。
なぜ、被差別の当事者が差別表現に抗議してきたのかを、乙武氏はわかっていない。
このような幼稚で軽重浮薄な暴言は、差別撤廃にいっさい関係なく、その防げになっていることだけは言っておきたい

 
「癩病」(1907年、明治40) →「らい病」そして「ハンセン病」(1996年)
「北海道旧土人保護法」(1899年、明治32) →「アイヌ文化振興法」そして2008年「アイヌ民族を先住民族と認める国会決議」
「ニグロ」→「アフロアメリカン」
「インディアン」→ネイティブフメリカン

 
武氏は、この歴史の闘いに学ばなければならない。たんなる名称の問題として、差別的呼称の問題を軽々に語るべきではない。
「差別的なことばを言い換えても差別的実態は変わらない」というのは、差別する側の発想であり、常套句でもある、ということを付け加えておく。

本連載(ウエブ連載差別表現 第12回)でも、乙武氏の発言について触れているが、もう少し厳しく批判しておく必要性を感じている。
 いま発売中の『週刊文春』が、今回の事件を「NHKで放送禁止用語『日本昔ばなし』市原悦子に絶賛の声」として取り上げているが、まったく事の本質を理解していない駄文というほかない。コメントを寄せているジャーナリストの徳岡孝夫氏に至っては、“アホ”としか言いようがない。フリージャーナリストの質の低下が、よく現れている。







 
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