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第166回 ヘイトスピーチの法規制について考える(その1)―朝日新聞社「報道と人権委員会」の議論を読んで
○「憎悪の表現と法規制」についてかわされた議論の中身
 
 朝日新聞の7月21日付朝刊に「ヘイトスピーチ」をテーマに、朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」定例会が開かれ、「表現の自由とも絡めて法規制をどう考えるか」について交わされた意見の概要が「憎悪の表現と法規制」と題されて載っている
 
  発言者(委員)は長谷部恭男早稲田大学教授、宮川光治元最高裁判事、今井義典元NHK副会長の三人。
論旨は概ね、法規制反対で、朝日新聞社のヘイトスピーチ法規制に慎重な論調を追認するような内容である。
 大きな紙面を割いて、朝日新聞社が主張したかったのは、客観的な第三者の有識者も朝日の社論と同じですよと、強調したいがためであろう。唯一の救いは、今井委員が多少なりとも元ジャーナリストの視点からヘイトスピーチの法規制を主張していることである。
 今井委員の発言を見てみよう。
 
――ヘイトスピーチをめぐる国内の現状をどう見るか
今井委員 国内での受けとめ方はやや鈍感ではないか。近隣の国々との関係が良好に進んでいないことや歴史問題も背景にあり、この問題を国内のマイノリテイー、外国から来て日本で暮らす少数の人を対象にした小さなこととして見逃してはならない。日本語では憎悪表現などと訳して使うが、もっと深い忌まわしい意味をこの行為は持つと感じる。
 
今井委員 ヘイトスピーチの規制は別の角度から言えば、人種差別を声高に叫ぶ人たちにも表現の自由を認めていいのか、現に重大な人権侵害という害悪を受けている人たちを救済する道がなくていいのか、非常に難しい選択を迫られている。
 ただ、日本社会では、ひとごととの軽く受け流す意識があると思う。ヘイトスピーチは基本的に悪である、という意識を国民全体が共有するものが必要になってきているのではないか。その共通の理念として、法律で人種の差別を押さえ込む、基本的な原則を打ち出すことがまずあるべきではないか。
 
と、至極まっとうな意見を述べている。それに対し、元裁判官の宮川委員はつぎのようにいう。

 
○「日本のヘイトスピーチはヨーロッパの人種主義とは異なる特殊日本的現象」――宮川委員の発言(1
 
宮川委員 (1)欧州での反ユダヤ主義、移民排斥運動、米国やカナダでの人種主義とは異なる様相をもっており、特殊、日本的な事態と言ってもいい。(2)表現の自由が民主主義社会の基盤であることを考えると、ヘイトスピーチ表現により、被害者が現に重大で、著しく回復困難な損害を被る危険が明白にあるということでなければ、処罰法規での規制は、許されないと思う。在日韓国・朝鮮人という被害者集団に属する人たちの人格の尊厳を回復困難なまでに侵害する明白な危険がある、そういう表現行為を定義付けるのは困難だと思う。また、暴力の扇動を規制する立法が必要なまでの状況はない。処罰法を構築しても、人種差別、民族差別が抑制され、偏見が減る保証はなく、そのことは排外主義の台頭に悩む欧州社会の現状が示している。処罰法はもろ刃の剣であり、私は処罰法には慎重であるべきだと思う。
 
宮川光治元最高裁判事の発言の(1)の部分をよく読んでみよう。
日本のヘイトスピーチが、とくに在日韓国・朝鮮人を標的にしていることについて、宮川元判事は、欧米の人種主義とは異なる「特殊、日本的な事態」という。これは、差別についての無理解から生じるトンデモ本レベルの発言である。欧米の人種主義と日本のヘイトスピーチが異なるのは、差別(人種差別)の現象形態つまり表現形式の違いであって、差別の本質、つまり差別の内容に何ら違いはない。

差別の現象形態には、人種、民族、宗教、性、障害、部落、在日、アイヌ民族など様々な形があるが、差別とは、

【〈差異〉を理由に、特定の個人や集団が意図的に排除・忌避・抑圧・攻撃・軽蔑の対象とされ、基本的人権(市民的権利)が侵害され社会的に不利益を被り、人間の尊厳を否定される状態】

のことであり、地域・国家によって様々な形があるが、その本質は同じなのだ。
 
 2013年に、京都地裁が京都朝鮮第一初級学校南門前における「在特会」のヘイトスピーチを「「表現の自由に値しない」「著しく侮蔑的な発言を伴い、人種差別撤廃条約が禁ずる人種差別に該当する」と判断したことを受けて、読売新聞社説が「ナチスによるユダヤ人虐殺の記憶が色濃い欧州と日本では、歴史的背景が大きく異なる点に留意せねばならない」と述べ、法規制に慎重な主張をしたのと同じレベルである。つまり、欧米との形式的違いを強調して、現下のヘイトスピーチを特殊日本的現象として、国際人権基準を無視し、法規制を避ける論拠とするごまかしである。
そして、この主張そのものが、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチを軽んじる差別である。

 
○「明白な立法事実(マイノリティ虐殺)が確認されるまで法規制は必要ない」――宮川委員の発言(2
 
 つぎに宮川委員発言の(2)については、あまりの現状認識の希薄さに驚かざるを得ない発言である。現下のヘイトスピーチはたいしたことではないという認識の下、被害者が受けている精神的ダメージと苦痛、生命を奪われる恐怖に対して、まったく理解していない。想像力が枯渇しているとしか言いようがない。そこから宮川氏は、「暴力の扇動を規制する立法が必要なまでの状況はない」と断ずるのである。
要するに、ヘイトスピーチ→ヘイトクライムによって、在日韓国・朝鮮人をはじめ社会的マイノリティーが虐殺される“立法事実”が確認されるまで、法規制は必要ないと言っているに等しい暴論である。


 
○「我々が見ようとしないのは被害者の存在だ」安田浩一
 
 6月11日に行われた「ヘイトスピーチとナショナリズム」のシンポジウムで、ヘイトスピーチの現場で身体を張ってディープな取材を続けている安田浩一さんは、ヘイトスピーチの現場で「私たちが見なかったもの、見ようとしなかったものとは何かというと、被害者の存在です」と述べ、さらに以下のように語った。


 
それ(ヘイトスピーチ)は確実にこの社会の一員であるマイノリティを傷つけ、マイノリティの排除を狙うことによって、その人々の心を大きく傷つけている。
これを私は、少なくとも言葉の暴力だとはとらえていません。言葉の暴力という表現をかつて使っていたことがありますが、使うのを一切やめました。これは暴力そのものです。人間を傷つけ、人の存在を否定し、そればかりか、この社会のあり方、地域のあり方すべてを傷つけ、否定するものだと思っています。ですからこれは暴力以外の何物でもないのです。
乱暴な言葉であれば、私たちも日常使っているわけです。ヘイトスピーチというのはそうではなく、私たちがどんなに努力しても乗り越えることのできない、変更することのできない属性に対する暴力だと思うわけです。(創』8月号)
 
                                            以下、次号

 
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