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第167回 ヘイトスピーチの法規制について考える(その2)―朝日新聞社「報道と人権委員会」の議論を読んで
2015年7月31日

前号166回に引きつづき、朝日新聞社第三者機関「報道と人権委員会」での宮川光治元最高裁判事の発言について考えていこう。

 
――宮川委員の発言
 
宮川委員 (1)欧州での反ユダヤ主義、移民排斥運動、米国やカナダでの人種主義とは異なる様相をもっており、特殊、日本的な事態と言ってもいい。  (2)表現の自由が民主主義社会の基盤であることを考えると、ヘイトスピーチ表現により、被害者が現に重大で、著しく回復困難な損害を被る危険が明白にあるということでなければ、処罰法規での規制は、許されないと思う。在日韓国・朝鮮人という被害者集団に属する人たちの人格の尊厳を回復困難なまでに侵害する明白な危険がある、そういう表現行為を定義付けるのは困難だと思う。また、暴力の扇動を規制する立法が必要なまでの状況はない。
 処罰法を構築しても、人種差別、民族差別が抑制され、偏見が減る保証はなく、そのことは排外主義の台頭に悩む欧州社会の現状が示している。処罰法はもろ刃の剣であり、私は処罰法には慎重であるべきだと思う。

 
○ヘイトクライムは処罰対象だがヘイトスピーチは「表現の自由の範囲」?
 
宮川委員の意見、すなわちヘイトスピーチは表現の自由の範囲内であり、ヘイトクライムがあって始めて処罰の対象となるとの考えには、二つの誤りがある。
一つは、ヘイトスピーチを受けた側の精神的苦痛は、(言葉による)暴力の結果であり、物理的・肉体的傷害と区別する合理的かつ法的根拠はないということだ。
二つめは、ヘイトスピーチの和訳を朝日新聞の解説でも「差別的憎悪表現」としているところにある。単なる「憎悪発言」あるいは「憎悪表現」とするよりマシだが、認識の根本において違いはない。           「死ね」「殺せ」などのヘイトスピーチは、正確には「差別的憎悪扇動」と表現すべきであり、そうであるが故に、扇動行為のターゲットとされた被差別マイノリティの心に、深い心理的傷を負わせるのである。
ヘイトスピーチの定義について、中途半端な認識を前提に規制反対論を展開するから、現実から遊離した空理空論になるのである。
ヘイトスピーチに対する認識不足から、というよりも、先に結論ありきで、自己の主張に都合の良い「ヘイトスピーチ」物語(概念)を作り、そこからしか物事を見ない態度、つまり、客観性・実証性を無視ないし軽視し、自己(憲法学)の殻(権威)に閉じこもり、論を展開する「反知性主義」的主張といわねばならない。

 
○ユダヤ住民の家屋にハーケンクロイツを描きヘイトクライムで逮捕(米国)
 
ヘイトスピーチ=言語表現、ヘイトクライム=実行行為と理解しているようだが、すでにアメリカでは、ナチスのシンボル、ハーケンクロイツ(鉤十字)をユダヤ系地区の家屋にスプレー缶で描く嫌がらせを行った犯人は、憎悪犯罪(Hate crime)で逮捕されている。単なるスプレー缶による表現の自由でもなく、器物損壊罪でもない、人種差別にもとづくヘイトクライムで逮捕されているのだ。
アメリカのサウスカロライナ州チャールストンで起きた、教会での銃乱射で黒人9人が射殺された痛ましい事件は、ヘイトクライムの恐ろしさと犯罪性を最悪の形で示している。アメリカ国務省は、容疑者をヘイトクライム(憎悪犯罪)の罪で起訴している。
ヘイトクライムの概念は深く広い。ヘイトスピーチはヘイトクライムの一部分でもあるのだ。
「ヘイトスピーチは表現の範囲」などという宮川元最高裁判事は、一度でいいから、現場に行って自分の目で確かめ、自分の耳で聞いてから発言したほうがいい。
さらに許し難いのは、「処罰法を構築しても、人種差別、民族差別が抑制され、偏見が減る保証はなく、そのことは排外主義の台頭に悩む欧州社会の現状が示している」との宮川委員の発言(前号166回WEB連載)である。
これは、殺人罪を作っても殺人がなくならないのだから無意味といっているに等しい。こんな陳腐な法理解で、よくも最高裁判事が務まったものと、開いた口が塞がらない。安倍首相並みの反知性主義といわざるを得ない。

 
○長谷部恭男 早稲田大学教授の発言
 
長谷部委員 (1)ヘイトスピーチはヘイトクライム(少数民族、社会的マイノリテイーへの偏見や憎しみに基づく暴行などの犯罪行為)と結びつくリスクがある。米国ではアフリカ系などの少数民族に対するヘイトクライムがある。フランスでは、特にユダヤ系の人々に対する暴行傷害などのヘイトクライムが頻発し、近年では毎年何千人単位で、ユダヤ系住民が国外移住していると言われる。日本では、状況はそこまでには至っていない。
(2)表現の内容にもとづく規制は、表向きは正当な理由、立法目的を掲げているものの、経験的に言って、政府の側に特定の党派や思想を抑圧しようという不当な動機があって導入される蓋然性(がいぜんせい)が高い。そうすると、思想や情報の自由市場がゆがめられ、思想の自由市場がうまく機能しなくなる。だから、表現の内容にもとづく規制は、原則許さない、というのが憲法学のオーソドックスな考え方。ヘイトスピーチも表現活動であり、その規制は表現の内容にもとづく規制ということになる。やはり、慎重の上にも慎重に、規制の必要性や合理性を考えねばならない。
(3)私は(犯罪行為)であるヘイトクライムとヘイトスピーチは区別すべきだと考える。ヘイトクライムを重く処罰することは憲法学から見ても問題は少ない。ただ、そのことと、ヘイトスピーチについて、どのように対処すべきかは、別のことだと考える。

 
○長谷部委員の発言(1)「日本では状況はそこ(欧米)までには至っていない」
 
人種差別主義のヘイトスピーチが被害者にもたらす現実が、まるで見えていないのは、先の宮川委員と同じといっていい。「日本では、状況はそこまでには至っていない」とは、何を指して述べているのだろうか? 在日韓国・朝鮮人、あるいは、中国人が母国に逃げるような事態が起こるまで静観していればよい、とでもいいたいのか?
では、母国が日本のアイヌ民族、および被差別部落出身者の脅威は何を基準に判断するのだろうか? またフランスにおいては「ユダヤ系の人々に対する暴行傷害などのヘイトクライムが頻発し」と述べているが、イスラム教徒やロマ(日本では差別的に「ジプシー」と呼ばれている)に対する迫害の実態が、教授の視野に入っていないのは、なぜだろうか。

 
○長谷部委員の発言(2)論理のすり替え
 
権力者が、目的意識性をもって権力を濫用してきたのは世界の歴史が教えるところであり、それを理由に「経験的に言って」「ヘイトスピーチの法規制」に反対するのは、喫緊の具体的な課題にたいし、抽象的な一般論で反対しているに過ぎず、論理のすり替えがある。
法規制は、その内容、定義を厳密にすることはもちろんだが、立法化を目指さすのは、あくまで手段であって目的ではない。法規制は、反人種主義、差別を許さない社会運動にとって、闘いの武器になるところに最大の意義がある。

 
○長谷部委員の発言(3)ヘイトスピーチがわからないからヘイトクライムもわからない

ここでも、ヘイトスピーチを「差別的憎悪表現」ととらえているところから、混乱と誤解が生じている。精神的苦痛と肉体的打撃を区別して考える根拠に意味はない。以前この連載でも書いたが、私の定義を参考までにしめしておく。
 
[ヘイトスピーチとヘイトクライム]
ヘイトスピーチとヘイトクライムの違いは、「扇動」か「実行」かの違いであり、ヘイトクライム=差別的憎悪行為の実行、つまり差別的憎悪感情にもとづく肉体的攻撃であり、その延長線上に、ジェノサイドがある。ヘイトスピーチ(扇動)→ヘイトクライム(実行)→ジェノサイド(大量虐殺)
 
ヘイトスピーチに対する多くの知識人の発言もそうなのだが、長谷部委員の発言を読むと、言動における精神的暴力と物理的な肉体に対する暴力を区別し、統一的に理解していないところに問題がある。「表現の自由」か「法規制」かの二項対立的な思考と同様の、現実に即して物事を考えていない抽象論といえる。ヘイトスピーチは、ヘイトクライムの一部を構成していると理解すべきなのだ。
結論をいえば、この朝日新聞の記事は、ヘイトスピーチ法規制反対の社論を客観的に見せようと企図した、自社広告的記事といえる。
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