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第87回「橋下大阪市長の朝日新聞社グループ提訴に正義はあるか」(2)
 先週に引き続き、橋下徹氏の朝日新聞出版及び、朝日新聞社への提訴について言い足りなかったことを書いておきたい。

■筋が違う―紀伊国屋書店差別事件から
 ひと昔前、紀伊國屋書店の人事部が、採用時の注意事項に、「チビ・ブス・カッペ(田舎っぺ)・メガネの女性は採用しないように」というマル秘文書を作成していたことが発覚し、社会的抗議を受けたことがある。(実はこのマル秘文書には上記以外に、採用注意事項として、「当人及び、父母などが『創価学会員』、『共産党員』も採用しないこと」が記されていた)。

 このマル秘文書を公表したのは、紀伊國屋書店の労働組合だった。

 会社側の高圧的な対応に窮していた組合側がマル秘文書を入手、公開し、経営側に打撃をあたえ、その後の労使関係を有利にする思惑もあった。

 この問題に対して、女性団体を中心に労働組合や解放同盟も共闘の輪に加わり、マル秘文書の作成を指示した、経営側に対し、抗議、糾弾をおこなったが、なかなか、解決点が見い出せなかった。というのも、交渉上の要求項目に、労使間の問題にかかわる事項がかなり含まれていたからだ。

 会社経営側としても、女性差別、就職差別との批判は甘受して改善を約束するものの、それとは直接関係ない労使問題については、妥協することが難しかったのである。

 マル秘文書が公開され、社会的指弾を受けた会社経営側は、差別問題については真摯に反省し、具体的な改善策を提示してきたが、それとは別問題の資本と労働の問題、つまり、経営と組合間の要求事項を切り離してほしいといった。

 結局、組合側と話し合って、労働条件の改善や組合弾圧をしないなど、労使間の問題は別に席をもうけることで了解をとり、一挙に問題が解決に向かった。

 なぜ、このようなことを長々と書いたかと言えば、差別問題に直接関係しない事柄を、要求項目に書き入れ、それを含めて解決を求めるのは、筋が違うと言いたいからである。

 女性差別、就職差別という社会的に許されない、言いわけできない差別事件を起こし、経営側が反省を余儀なくされている。それを奇貨として、要求事項実現をめざし、攻勢に転じる契機にしたい組合側の気持ちはわかる。

 しかし、それはあくまでも企業内の労使交渉でおこなうべき事柄であって、差別問題と直接は関係していない労働問題は、切り離して、事にあたるのが筋だと思う。

■昨年の橋下氏の抗議がなぜ社会的影響力を持ちえたのか
ひるがえって、今回の『週刊朝日』(4月12日号)における、橋下徹氏と日本維新の会を揶揄した記事と、昨年10月の『週刊朝日』(10月26日号)の差別記事問題を考えれば、おのずから問題点が見えてくる。

 揶揄した記事に抗議するのは、橋下氏個人の勝手だ。しかし、それと社会的差別事件である『週刊朝日』部落差別記事事件とを結びつけて『週刊朝日』側を攻撃するのは、どう考えても、筋が違うと言わざるをえない。

 橋下氏が昨年10月の『週刊朝日』の部落差別記事に対し、敢然と、優生思想にもとづく、今日の日本では許されない社会的差別として、抗議、糾弾したことについては、いくら称賛しても称賛しすぎることはない。

 だがしかし、なぜ、橋下氏の抗議が、『週刊朝日』側の全面謝罪につながったのかを、少し冷静に考えて、その社会的背景を理解する必要があるのではないだろうか。

 「出自」による社会的差別=部落差別を受けたのは、直接には橋下徹氏だったが、その背後には、六千部落三百万の被差別部落民の差別に対する怒りがあった。そのことを思い起こす必要がある。

 つまり、橋下徹大阪市長は、都会の片隅で、故郷(ルビ ふるさと)を胸を張って名のれない、しいたげられた被差別民の憤怒と怨嗟の声を代弁したのである。そのことを、忘れてはならない。とくに橋下姓を持つ被差別民の、あの記事を目にしたときの悔しさ、怒りの感情は押して知るべしであろう。

■個人への侮辱と社会的差別を混同してはいけない
 くり返しになるが、橋下氏はツイッターで、こう言っている。

◎2013年4月7日 橋下徹@t_ishin
アメリカで人種差別を大々的にやった企業が存続できるか。ヨーロッパでナチスや優生思想を肯定し人種差別を大々的にやった企業が存続できるか。そんなのあり得ない。即廃業だ。それに比べれば日本は人権侵害には大甘だ。こんな状況の日本で、人権を尊重しろと言い続ける朝日新聞グループ。お笑いだよ。 posted at 11:26:24
繰り返し言う。朝日新聞グループと俺は、加害者と被害者の関係なんだ。これは俺が生きている限り、そして俺の子孫が生きている限り付きまとうことだ。それだけのことをしたんだ。そこを忘れるな。もう一度、グループあげて、被害者への謝り方、償い方を研修しろ。いつもあんたらが紙面で言ってることだ posted at 11:44:28
(橋下徹氏ツイッターより)

 上段の“つぶやき”はなるほど、その通りで、橋下氏の人権感覚が、歴史に学んだ、確かなものであることが理解できる。

 しかし、下段の“つぶやき”は前回も述べたが、<差別−被差別>の関係は、<加害者−被害者>の関係とは違う。この点は、くり返さない。

 今回、言及したいのは、朝日新聞社グループが犯した部落差別記事事件をとらえて、「これは俺が生きている限り、そして俺の子孫が生きている限り付きまとうことだ」と述べている部分である。

 橋下氏が部落差別を「血筋」論的に理解してる点は、いまは問わない。問題は<加害者―被害者>というくくりで、両者の間に絶対和解不可能な一線を画し、もって「被害者」に一生のつぐないを求め、かつ「子孫」にまで、それを拡張していることだ。

 明確にしておかなければならないことは、昨年10月の『週刊朝日』部落差別記事事件は、直接的、個別具体的には、橋下徹氏とその家族に打撃を与えるものであった。しかし、それ以上に、記事の持つ差別性は、全国の被差別部落出身者、とりわけ「橋下」姓を持つ人々に向けられたものであったという点である。この視点がなければ、許されない社会的差別としての部落差別、という観点が出てこない。

 今回、橋下氏がツイッターの中で、抽象的、一般的な「人権侵害」という言葉を連呼しているのも、この視点の弱さゆえと思われる。

(次週につづく)
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