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第185回『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』絶版・回収事件 その2

 

■高須克弥氏のツイート

 

 先週金曜日(6月8日)にアップした〈西原理恵子×高須克弥著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)絶版・回収事件〉に対する反響の大きさに驚いている。

 おそらく、いまだに絶版・回収の理由を一切明らかにしていない版元・小学館の姿勢とも関係しているのだろう。

 今回、〈その2〉を書くのは、この『ダーリン…』本の読者である人々が、著者の高須克弥氏に、この「ウェブ連載差別表現」のことを知らせ、高須さんがツイッター上で書いている内容について、誤解を解いておきたいと思ったからである。

 

 今週6月12日、高須克弥氏が次のようなツイートをしていることを教えられた。

 

(高須克弥@ katsuyatakasu 6月12日)

あらためて小林健二先生にご挨拶申し上げます。日本は言霊の国です。言葉狩りして差別用語を絶滅しても新たな差別用語がはっせいするにちがいありません。 差別用語に対する抗議糾弾は消滅しつつある差別用語を生きかえらほ(ママ)せる作業にみえます。

  

■「都市伝説」としての“運動団体の言葉狩り”

  

 名前の間違い(健二→健治)や、“先生”という呼称はさておき、この短いツイートでわかるのは、高須さんはまだ、筆者の「ウエブ連載差別表現」(第184)を読んでいないと思われることだ。

 

 184回ウェブ連載差別表現で、私が抗議し、問題にしているのは

 第一に、絶版・回収を決めた出版元の小学館に対してであること。

 第二に、はたしてほんとうに絶版・回収をしなければならなかったほど、ひどい差別的な内容だったのかどうかということだった。この2点は、前回の連載差別表現に書いているので、くり返さない。

 

 今回、〈その2〉をアップする意味は、“言葉狩り”を反差別運動団体が行っているという高須さんの誤解を解きたかったからである。

 この、「反差別運動団体が言葉狩りをしている」という噂と思い込みは、多くの学者・文化人そしてマスコミ関係者に共通しているが、言わば「都市伝説」に過ぎない。(いわゆる「放送禁止歌」も同じで、業界の自主規制に原因がある。詳しくは、森達也著『放送禁止歌』[知恵の森文庫]を参照のこと)

 初めに断っておくと、差別語はある、しかし、使ってはいけない差別語などないということだ。なぜなら、差別語も日本の言語文化のひとつであるから。

「穢多」「非人」「鮮人」「チャンコロ」「ロスケ」「ビッコ」「メクラ」「キチガイ」など、差別語は山のようにある。差別語には、時代の差別的実態が反映している。

  

■差別語は負の文化遺産

 

 差別語は、それを浴びせられる被差別当事者にとっては、耐え難い、屈辱的な言葉だ。しかし差別語は、日本の“負”の文化遺産でもある。

 その差別語を禁句にし、言い換えても、差別的実態を隠しただけで、差別をなくすことには何ら役立たない。むしろ、差別語に塗りこめられた賤視と侮蔑意識や忌避感情を、逆に、その差別的言葉を使うことによって、差別的実態の歴史と現実を逆照射し、その非人間性を告発し、差別を撤廃する闘いの武器となるのである。

「わしら部落民は、昔、“ドエッタ(穢多)”と言われて差別されてきた」と語る部落の古老の表現における“ドエッタ”には、被差別部落民の怨念も凝縮されているのである。

 使ってはいけない言葉など存在しない。どう使うかの問題であって、“言葉狩り”をしたのは、「ジャーナリズムの思想的脆弱性」(筒井康隆氏『断筆宣言』)のなせるわざなのである。

以下、8月上旬刊行予定の『最新 差別語・不快語』(仮題)に、新たに加えた“言葉狩り”問題についての【コラム】を載せて、この項を終わりたい。

  

  

【コラム “言葉狩り”をしたのは誰か?】

  

■『毎日フォーラム』掲載のコラム「『禁止用語』を考える」


 毎日新聞社発行の『毎日フォーラム』という月刊の政策情報誌。その2013年3月号に、牧太郎氏(毎日新聞記者・元『サンデー毎日』編集長)が自身のコラム「牧太郎の信じよう!復活ニッポン」で「『禁止用語』を考える」と題した一文を載せている。副題には、「故なき規制は『日本の文化』を失うおそれがある」とある。

 そこで牧氏は「百姓」が「差別にあたる可能性が強い」ので、「農民」に置き換えるべきだと校閲から注文され、抗(あらが)ったが直された例を挙げ「ともかくどこの誰かが勝手に決めた『差別用語』『放送禁止用語』が大手を振って歩いている」と憤懣(ふんまん)をぶつけている。

 その上で、いくつか具体例を出している。

「例えば、職業に関する差別用語。『魚屋』『八百屋』『肉屋』『米屋」『酒屋』……。全て『禁止用語」だ。『○○屋』という言い方は全て差別用語だ!というのだ。そのために『魚屋』は『鮮魚店』、『八百屋』は『青果店』、『肉屋』は『精肉店』、『米屋』は『精米店』、『酒屋』は『酒店』……『床屋』は『理髪店』と言わなければならない。

(『毎日フォーラム』2013年3月号より)

 

 そして牧氏は、つぎのようにしめくくっている。

 「実にばかげている。(あまり使いたくない言葉だが)『言葉狩り』である」と怒り、「ある言葉が『差別』を助長するかどうかの判断は『各々の主観』に基づく。あってはならないのは『差別の現実』である。『言葉』ではない」


■マイノリティの怒りに向き合えなかったメディア


 ひとこと言っておくが、上に挙げた例が「差別用語」だと、だれが決めたかと言えば、それはほかならぬ牧氏も属するマスコミ業界だということである。

 1960年代後半から80年代にかけて、部落解放同盟を中心に、障害者団体、在日韓国・朝鮮人団体、女性団体、先住民族アイヌ団体などの社会的マイノリティが、不快で他者を貶め、傷つける差別語と差別表現に対して、鋭い追求を行ってきたことはよく知られている。とくに抗議の矛先が、その与える社会的影響の大きい新聞、テレビ、出版などのマスメディアに向けられたことも、当然のことであった。

 しかし、多くのマスコミが、その抗議と怒りの声に対し、正面から向き合い、差別語と差別表現の問題を真摯に考えようとしなかったことは、各社が秘密裏に作成していた「禁句・言い換え集」などのマニュアル的な言葉の言い換え集を見れば、一目瞭然である。

 つまり、対処療法的かつ糊塗(こと)的に対応するのみで、差別語に塗りこめられた「差別の現実」を見ようともしなかった。また、その撤廃のためのメディアの社会的責任を果そうともせず、「差別語」と言われる言葉を消すこと、隠すことに専念してきた結果が、牧氏が怒る現在の状況を生み出しているのである。


■「侮辱の意志」の有無が表現の差別性を決定する


 差別語は存在する。しかし、使用してはいけない差別語(「禁止用語」)などというものはない。

 差別語の使用の有無ではなく、文脈における表現の差別性、つまり差別表現を問題にしているのである。

 一知半解なマスコミの対応の責任を、被差別マイノリティの抗議に負わせるのは、それこそ天に唾する行為と言わねばならない。

 

 牧さんは、校閲と断固闘って、「百姓」と明記すべきだった。完遂できなかった憤りを他者に向けるべきではない。妥協した自分自身の弱さを反省すべきであろう。

 

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