■「きちがいみたいな人ばかり」
ナチス・ヒトラーを肯定する発言で、日本国内にとどまらず国際的な批判を浴びているさなかに、麻生太郎副総理兼財務大臣が、またしても差別発言をおこなった。
〈麻生太郎副総理は2日、10月の衆院愛媛3区補選の応援で訪れた愛媛県西条市での講演で、祭りの参加者を「きちがいみたいな人ばかりだ」と述べ、精神障害者を差別する表現を使った。補選は祭りと時期が重なり、麻生氏は「ここのお祭り大変だ。そういった時に選挙なんてやれる。選挙を一生懸命やっている人はお祭りを一生懸命やっている人。俺のとこ(の選挙区の祭り)は7月14日だけど、この時になったら、ほとんどきちがいみたいな人ばっかりだ」と語った。
麻生氏は講演後、記者団から指摘され、「不適切でした」と述べた。〉(朝日新聞デジタル)
その後、発言を撤回したものの「俺の地元では昔から” 祭りきちがい”という言葉もある」と述べるなど、うわべだけの反省で、心底反省していないことがわかる。
■自覚なければ、反省もなし
麻生太郎は、第一次安倍内閣の外務大臣だった2007年にも「酒は『きちがい水』と発言し、批判された過去をもつ。10年経っても精神障害者に対する「キチガイ」という差別語と、その言葉に反映されている現実の差別的実態にはまったく無自覚である。
昨年4月から障害者差別解消法が施行され、国をあげて取り組んでいる最中の差別発言である。
■もっとも身近に使われている差別語
「キチガイ」という差別語を使った差別表現は、日々の日常会話の中で頻繁に使用されている最もポピュラーな差別語と言っていい。
ほとんどの場合、発言者あるいは執筆者本人は、精神障害者に対する差別意識をもって発言したり、執筆しているわけではない。(差別を肯定し、目的意識的に発言したとすれば、それはヘイトスピーチ[差別的憎悪煽動]である。)
ただ無自覚に、「キチガイ」という言葉に塗りこめられている精神障害者に対する差別の歴史と実態に無知であるがゆえの表現ではあるが、客観的には、精神障害者を傷つけ貶め、社会にある差別意識を助長拡散しているのであり、その社会的責任は、とくに公人の場合はより厳しく指弾されなければならない。
■テレビ生番組での塩川正十郎氏の「きちがい」発言
著名な政治家の例ではつぎのようなことがあった。
2005年、日本テレビ『真相報道バンキシャ!』に生出演していた、塩川正十郎氏が「騒音おばさん」の映像を見て、「こりゃね、やっぱり狂ってますよこの人は。…これきちがいの顔ですわ。」と発言。司会の福澤朗氏が、番組中に塩川氏に注意して、視聴者に謝罪した。
ただこのとき、福澤氏は「先ほど番組放送中に不適切な発言がありましたのでお詫びし、訂正します」と述べただけで、何がどう不適切な発言だったかについては、視聴者に向けて何も語っていない。
■具体的な差別語の提示にメディアが躊躇するのはなぜか?
実は、今回の麻生太郎の差別発言を最初に知ったのは、9月2日の日付が替わった深夜12時のNHKニュースだった。
この時NHKは、「麻生太郎副総理が愛媛の選挙応援中の講演で精神障害者に対する差別発言を行った」との報道内容で、「キチガイ」という具体的な差別語について放送することをためらっていた。
これでは先の日本テレビと50歩100歩の腰の引けた報道姿勢といわねばならない。
ではなぜメディアは、具体的な差別語を提示することに躊躇(ちゅうちょ)するのか?
実はここに、差別語と差別表現に対するメディアの無理解と誤解がある。
被差別マイリノリティ集団が一貫して抗議してきたのは〈表現の差別性〉に対してであって、〈差別語を使用したか否か〉ではない。
「キチガイに刃物」は差別語を使用した典型的な精神障害者差別表現だ。しかしそれを「統合失調症に刃物」と言い換えたとしても、〈表現の差別性〉に何の違いもない。ただ、差別語を使用していない差別表現というだけである。
一方で、「統合失調症で苦しんでいるのに『キチガイ』という心ない言葉を投げつけることはやめるべき」と言ったとしても、表現に差別性がないことは容易に理解できるだろう。これは、話者ないし筆者が当事者であるかないかは関係ない。
■差別語の使用=差別表現ではない
ところがメディアは、被差別者からの抗議に対し、差別語=差別表現という短絡的な思考の結果、差別語を禁句にしたり、言い替えて事足れりとしてきた歴史がある。
何度も強調しているが、「言葉狩り」を行ったのはメディアであり、被差別者の側ではない。(「放送禁止用語」「放送禁止歌」など)
禁句・言い替えはメディアの「思想的ぜい弱性」がもたらした悪しき対応であり、ただ単に差別語を禁句にし、差別を隠しただけであり、差別をなくすために役立つものではない。(*拙著『最新 差別語不快語』で詳細に説明している)
■国会での安倍首相の差別的比喩表現――『めくら判』
障害者差別表現では、今年6月5日の国会で安倍総理も「めくら判」という視覚障害者に対する差別的比喩表現をおこない、その場で批判されている。
加計学園の獣医学部新設をめぐる民進党の宮崎岳志議員の質疑への答弁に立った安倍首相は、民主党政権時代の構造改革特区を取り上げる。その際「みなさん(民主党政権)のときは構造改革特区というのは(政府に案が)上がってきたら『めくら判』ですか?」と発言。
この発言に宮崎議員が「え!?」と驚き、委員会は騒然とする。だが安倍首相は「違いますよね。上がってきたら『めくばらん』ではないんです」と言い間違いしながらも、さらにそのままに答弁を続けていた。(Livedoor News)
後ろに控えていた官僚から紙を渡されてから訂正したが、安倍首相自身は全く無自覚で、反省した気配はない。
総理が総理なら、副総理も副総理で、そろって障害者差別発言を平然と行い、しかも反省の色がまったく見えない。”差別そろい踏み政権”といっても過言ではない。
■精神障害者に対する差別意識が生みだしたことば
精神障害者に対する差別意識は、日本社会に、そしてまたわれわれの意識の底に、広く深く沈殿している。
昨年7月26日未明、相模原の津久井やまゆり園で起きた重複知的障害者19人を殺害した、戦後最悪のヘイトクライムは、このような障害者に対する差別意識の土壌の中から、その意を汲んで、植松聖が犯行に及んだのだ。(*この事件についてはウエブ連載第181回で詳述)
精神障害者に対する予断と偏見にもとづく差別意識は日本社会に深く広く根付いている。
精神障害があるとされた人々に対して、1874(明治7)年の「狂病者厳重監護の布達」以降、1900年の「精神病者監護法」をはじめ、精神病者を治安維持の管理対象(保安処分)とし、監置を是としてきた歴史がある。
「隔離収容」という、人間の尊厳をズタズタに切り裂いた処遇が、「キチガイ」という差別語に反映されてきた歴史を知るべきだ。
■財界重鎮も……
本稿を書き終えたときに、大企業の経営者による障害者差別発言の記事を見つけた。
中部経済連合会の豊田鐵郎会長(トヨタ自動織機会長)は4日の定例記者会見で、滑走路が1本の中部国際空港について「身体障害者みたいなものだ。1本がだめになるとどうしようもない」と話した。2本目の滑走路を国に求めている理由を問われ、発言した。
中経連の広報は会見後の朝日新聞の取材に「身体障害者に何か問題があるかのような不適切な表現だった。本人も反省しており、発言を撤回する」とした。豊田自動織機は、トヨタグループの源流企業。
(朝日新聞9月5日付朝刊)
日本の政界も財界も障害者問題には疎い。そういえば前NHK会長の籾井は、国会内で「つんぼ桟敷」発言を2度もくり返すという醜態をさらしても平然としていた。