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ウエブ連載差別表現 第201回 ネットのヘイトスピーチ規制に「副作用の懸念」?

 

「どっちもどっち論」の傍観者たち

 

 朝日新聞が、2018年7月6日付朝刊で、「ネットの差別表現『通報』続々」という記事を載せている。記事の導入部は以下の通りだ。

 

ネット空間の差別的な表現にどう対処するか。…(中略)…利用者の「通報」をもとに、投稿動画を削除したり広告主が問題を指摘されたサイトへの広告を停止したりする動きが広がっている。差別表現がなくなると歓迎する声がある一方、対象の拡大には言論の自由の観点から慎重さを求める声がある。

 

記事の本音はヘイトスピーチの法的規制に反対

 

 記事の本文は、両論併記のつまらない内容だが、締めくくりの小見出しには「表現の規制に懸念も」とある。

 

 つまり、差別表現(ヘイトスピーチ)の動画やツイッターを削除することの「副作用」として表現の自由そのものが規制される恐れがあるとし、「言論の自由の観点から慎重さを求める声もある」と朝日新聞はいう。

 

 この主張は、ヘイトスピーチとそれに抗議するカウンターの激しい行動をとらえて、価値中立的な観点から、「どっちもどっち」論に傾き、結局のところヘイトスピーチを放置する傍観者的思考と通底している。

 

 日本の憲法学者の大半がヘイトスピーチの法的規制に否定的なことは、この連載で幾度も批判しているので繰り返さないが、憲法学者らと同程度に、大手メディアの腰も引けていることを指摘しておきたい。

 

 

なぜ「どっちもどっち」論になるのか?

 

 そうした「どっちもどっち」論の根本には、差別表現一般とヘイトスピーチ(差別的憎悪扇動)とのちがいを理解していないという問題がある。(*詳しくは拙著『部落解放同盟「糾弾」史』(ちくま新書)を参照していただきたい。)

 

 ここで、差別表現一般とヘイトスピーチとの質的ちがいについて、のべておこう。

 

 差別表現とヘイトスピーチに共通しているのは、どちらも社会的差別(出自、人種・民族、宗教、性、障害など)を受けている被差別マイノリティに対する、文書や言動による侮辱表現である点。

 

 差別表現については、それを行った、話者や執筆者に差別的意図が希薄で、「ついうっかり、何気なく、そうとは知らずに」、差別の実態に対する無知ゆえに、差別的な社会意識を無批判に受け入れ表現したという場合がほとんどである。

 

  つまり、差別表現で問われているのは、文書・言動に含まれる〈表現の差別性〉(侮辱の意思)であり、主観的な差別的意図の有無ではなく、表現の客観性と社会的性格なのである。

 

 それに対して、ヘイトスピーチとはなにか。

簡略化していえば、「朝鮮人を殺せ」など、差別表現の中で、目的意識的かつ確信的な差別言動をヘイトスピーチと呼ぶ。

 

 

差別表現は当事者同士の話し合いで解決

 

 差別表現にかんしては、過去、被差別マイノリティの抗議団体から、「差別表現を法的に取り締まれ」という声は一度たりとも起こっていない。

 

 差別表現を行った話者・執筆者と、それを公共圏に媒介したメディアの社会的責任に対する、被差別当事者による「申し入れ」「抗議」「糾弾」などを通じて、権力の介入を排し、当事者どうしで問題を解決してきたのである。

 

 

ヘイトスビーチは犯罪行為

 

 しかし、ヘイトスピーチは、被差別マイノリティに対する主観的憎悪にもとづく差別、つまり目的意識性と攻撃性を持った「言論による暴力」である。

 

“話者の品格”でも“対抗言論”で対処できる性質の「言論表現」ではない。

 

 ヘイトスピーチは“差別的憎悪扇動”という暴力なのである。しかも歴史が証明しているように、ヘイトスピーチはヘイトクライム〜ジェノサイドに至る大量虐殺の導火線と言ってよい。 

 

 にもかかわらず、今回の朝日新聞記事では、「差別表現」だとか「差別的な発言」とか、あいかわらずヘイトスピーチも「表現」であるかのような認識である。

 

 ヘイトスピーチがマイノリティにもたらす被害の現実に、正面からむきあおうとしない傍観者的態度がみえる。

 

 朝日新聞をはじめメディアのほとんどが、ヘイトスピーチを「差別表現」あるいは「憎悪表現」、またあるいは「差別憎悪表現」(朝日新聞)などとしているが、「表現」という認識そのものが、ヘイトスピーチの正確な概念規定ではない。

 

 ヘイトスピーチとは、社会的差別の存在を前提とし、マイノリティ集団を傷つけ、貶め、排除するための言論による暴力的扇動であり、犯罪行為である。 

 

日本語に訳すなら、ヘイトスピーチは「差別的憎悪扇動」であり、ヘイトクライム(差別的憎悪犯罪)の構成部分であるということが理解されていない。

 

 1994年のルワンダ内戦時のラジオでの、フツ人によるツチ人殺人扇動は、たんなる差別表現ではなく、紛れもないヘイトスピーチだった。 

 

 

「表現の自由」にかんする国際的合意

 

 今回、朝日新聞が取り上げた、差別表現規制と言論出版・表現の自由との問題は、今に始まったことではない。すでに過去半世紀、論じられ、一応の社会的合意はできているものと思っていた。 

 

 合意とは、まず、憲法第21条の「表現の自由」は、基本的人権の根幹をなす権利であること。

 

 しかし、「表現の自由」の名のもとに、公共圏での無秩序、無責任な言動は許されず、無制限ではない。

 

  つまり、「表現の自由」は、内在的に他者の人権を侵害し、傷つけることを容認していない、という国際的合意のもとにある

 

 日本も1979年に批准している、国際人権規約の「自由権」第19条(表現の自由)には、次のように書かれている。

 

1.すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。

2.すべての者は、表現の自由についての権利を有する。(略) 

3. 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただしその制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a)他の者の権利又は信用の尊重(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

 

 ちなみに、国際人権規約20条(戦争宣伝及び憎悪唱道の禁止)には、

 

1.戦争のためのいかなる宣伝も、法律で禁止する。

2.差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する

 

と、ヘイトスピーチについて明確に禁止している。

 

 

自由と平等の変質

 

 言論・表現の自由が、封建制度を打倒し成立した近代的市民(フランス革命の第三身分=ブルジョアジー)国家とともに獲得された市民的権利であり、近代国家で基本的人権といえば、何よりも「自由」の概念であり、その中心が言論・表現の自由の規定であった。 

 

 日本国憲法にも、身体の自由(第18条)、思想及び良心の自由(第19条)、信教の自由(第20条)、集会・結社の自由、表現の自由(第21条)、居住・移転、職業選択、移住及び国籍離脱の自由(第22条)、学問の自由(第23条)など、市民的自由権が幅広く規定されている。

 

  ここで見落としてはならないのは、封建制度を打倒した市民階級が掲げたスローガンは、「自由・平等・博愛」であった。その当時、自由と平等は分かちがたく結びついていた。 

 

 しかし、その後の歴史が明らかにしているように、「自由」は資本の自由であり、平等は国家の庇護のもとでの平等であり、「博愛」はナショナリズムとなった。その後フランスはアジア・アフリカなどに、帝国主義的侵略を行い、海外に多くの植民地を抱えた。

 

 フランス革命の人権宣言は、「人および市民の権利宣言」とあるが、普遍的な「ひと」ではなく実質的には「市民」(有資産者階級)の権利宣言であった。 そのため、女性と子どもの権利は「市民」から除外されている。

 

 

政治的自由から社会的平等をもとめるたたかい

 

 日本でも明治維新後の1871年(明治4年)に、今日の部落問題にかかわる、いわゆる「賤民解放令」(実質、賤称廃止令)が出され、四民平等と宣言したものの、社会的差別はなんら解決しなかった。(旧穢多身分などは政治的には平等とされたものの社会的身分としては解放されていない。)

 

 以降、部落解放運動など被差別マイノリティが求めたのは、変質する前の市民革命期における自由と平等の理念の徹底であり、その法制化であった。 つまり政治的自由から社会的平等(解放)への闘いであった。

 

 憲法第14条(法の下の平等、貴族の禁止、栄典)

「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」

 

は、社会的差別禁止規定としてある。

 

 

言論・表現の自由に

人間の存在(尊厳)を否定する

差別的な言論や表現は含まれない

 

 言いたいのは、政治的自由権は社会的平等権、つまり人間の存在そのものにかかわる社会的生存権の優位のもとに統一されているということ。 言論・表現の自由に、人間の存在(尊厳)を否定する差別的な言論や表現が含まれないのは、議論以前の当然の事柄である。 

 

 人権問題の核心には差別問題がある。

 

 1948年の世界人権宣言が、第一次、第二次世界大戦の痛烈な反省のもとに発せられたことはよく知られている。

 

 その根本にある思想は、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に代表されるジェノサイドを二度と起こさないという固い決意である。人種、民族、宗教、性、障害など、社会的属性にもとづくあらゆる差別を許さない思想が、人権問題の根幹にあるということを宣言している。

 

この世界人権宣言の具体化が、国連で採択された各人権条約に反映されている。

主な人権条約は次の通り。

 

・人種差別撤廃条約(1965年発効、日本1995年批准)

・国際人権規約(1966年発効、日本1979年批准)

・女性差別撤廃条約(1979年発効 日本1984年批准)

・子どもの権利条約(1990年発効 日本1994年批准)

・障害者の権利条約(2006年発効 日本2014年批准)

 

 ちなみに、ミャンマーのアウンサンスーチー氏は、ノーベル平和賞を受賞(1991年)した国際的な人権活動家として知られているが、政権を握った後、国内のイスラム教少数民族、ロヒンギャ迫害に対しては国際的に非難を受けながらも一貫してサボタージュしている。彼女の人権思想には差別認識が欠けている。エセ人権活動家と言ってよい。

 

 

ヘイトスピーチ対策法を実効性あるものにするたたかいを

 

 2016年6月に施行された「ヘイトスピーチ対策法」は、ヘイトスピーチが犯罪であることを明確に宣言している。しかし、それを無視して、いまだにヘイトデモが、減ったとはいえ行なわれている。

 

 いま喫緊に要請されているのは、人種差別撤廃条約の理念を国内法として初めて具体化した、「ヘイトスピーチ対策法」に罰則規定と救済規定など、実効性を高める条項を盛り込む闘いだ。それにより理念法としてのヘイトスピーチ対策法がより闘いの武器として磨き上げられるだろう。

 

メディアが、そのための議論に積極的に紙面を提供することを願う。

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