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第72回『週刊朝日』差別記事事件―今年記憶に残る差別表現事件
 先週は、あまりの忙しさと、忘年会の飲み疲れでこの連載を休載してしまい、申し訳ありませんでした。

 書く予定でいたのは、『週刊朝日』問題のその後の動きについて、とくに執筆者の佐野眞一さんがいろいろな媒体で、弁解を含めた反省と見解を発表していたので、その内容についてふれる予定でした。

■『ちくま』(2013年1月号)「テレビ幻魔館」に見る佐野眞一氏の認識
 今回、<今年記憶に残る差別表現事件>としては、やはり『週刊朝日』差別記事事件をとりあげるのが、ふさわしいと思う。佐野氏がいろいろ弁明しているなかで、最新の小冊子『ちくま』に書いている「テレビ幻魔館 沖縄に“亡命”したい」について、論評したい。

 ここで、佐野氏は「ハシシタ 奴の本性」を書くにいたる動機を冒頭で語っているが、政治的に危険な人物として、橋下徹「日本維新の会」代表代行を批判することに、異存がある言論人はいない。

 そして、「公人中の公人橋下をきちんと批判しているメディアはほとんど見当たらない」と、意気軒昂に語っている。

 橋下氏の政治思想や政治手法については、多くの良識ある学者・文化人が批判を展開しているが、有効打を放っていないだけで、「きちんと批判」していないわけではない。むしろ、山口二郎北海道大教授が語っていたように、今回の『週刊朝日』の記事が、追いつめられていた橋下氏を、逆に助ける結果になったことへの認識が欠けている。

 橋下氏の論争の特徴は、それが、かなり洗練されたディベート術を武器に、相手を大衆受けするやり方で、内容抜きの形式論議で論破するという点で、小泉純一郎より一歩進化した、政治的直観力を持つところにある。

 佐野さんは、こうも書いている。

橋下は相手を攻撃するとき口汚く罵る。これは弁解めいた言い方になるが、それがわかりながら、ガラにもなくついアツくなって同じような手法で橋下を批判したことで、後味の悪い記事になってしまった。その点は大人げなかったと率直に反省している。だが、いまでも間違ったことは書かなかったと思っている。

■『週刊朝日』問題の核心
 しかし、今回の『週刊朝日』記事の問題点は、そんなところにあるのではない。問題は、この最後にある「だが、いまでも間違ったことは書かなかったと思っている」という行にある。

 つまり、下品な言葉で書いたことは反省するが、書いた内容は、事実にもとづいたもので、間違っていないと言いたいのだろう。佐野氏がまだ理解していないと思われるので、結論を先に言っておくと、何度もくり返し述べているように、この『週刊朝日』の記事は、事実かどうかが問われたのではなく、差別か否かの、社会的評価が問われたのである。

 佐野氏は続けて次のように書いて、反省した理由を述べている。
責任転嫁するつもりはないが、問題にされた「血脈」や「DNA」等の文言は宣伝文句として使われただけで、本文中にはなかった。ただし、「ハシシタ」というタイトルが被差別部落を示唆するケースがあると指摘されたときは、差別される側の気持ちに思いが至らなかったことに胸衝かれる思いがした。それが「見解とお詫び」を発表した理由である。しかし、それと橋下の危険な本質とは別である。
 佐野氏が未だ理解に至っていない点は、この「しかし、それと橋下の危険な本質とは別である」と書いているところである。もし「部落出身と橋下の危険な本質とは別」と考えていたなら、最初から橋下氏の「血脈」や「DNA」と無関係に、つまり、橋下氏が被差別部落に「出自」をもつこととは無関係に、彼の政治思想、あるいは政治手法を批判すればよいだけの話だ。だが、そういう企図でなかったことは、朝日新聞の第三者委員会の「経緯報告書」や「見解」が、すでにあきらかにしていることであって、問題の所在をすり替えてはならない。

 蛇足ながら、佐野氏は

明るい話題は嘉田由紀子滋賀県知事が、“卒原発”を公約に日本未来の党を旗揚げしたことくらいだが、小沢一郎がバックにいるとわかってうんざりした。鈴木宗男がまともな政治家に見えたのだから、いかに異常な選挙戦だったかわかる。

と書いているが、この程度の政治情況および政治家認識では、橋下氏の政治思想や政治手法を批判しない方が良いと思う。失地回復どころか、さらに墓穴を掘ることを心配する。

■問題は、差別的意図の有無ではない
 25年近く部落解放同盟中央本部で、部落差別にかかわる差別表現問題に取り組み、抗議、糾弾をおこなってきた体験から、特徴的なことを少し述べて、今年の連載「差別表現」のしめくくりとしたい。

 それは、差別表現、差別記述を抗議・批判されたときの、とくに学者・知識人・文化人の対応に共通して見られる事柄なのだが、「ついうっかり、何気なく書いたのであり、決して差別意識があったわけではない」という典型的な言い訳、言い逃れが、それである。言外に、私の社会的、文化的かつ学問的業績を見てもらえば、私に差別意識などみじんもないことは充分理解できるはずだ――と言いたいのだ。そこにはインテリ特有の理性的かつ知性的な、そして傲慢な態度が、ひかえめだが強い意志を持って主張されるのである。

 私より年上の、そして、著名な学者や作家の人と接していて、そう言われたり、そぶりをされたとき、私が答える言葉は、ひとつしかない。
「差別意識を持っていない人はいない。しかし、差別意識を持っているから差別者だということではない。重要なことは、差別的な社会意識が刷り込まれていること、つまり、人は差別意識を持たされているということを、自覚することではないですか」
 これに尽きる。

 屠場に対する差別発言、差別記述(大半は、殺人者や残酷で凶悪な人間、死屍累々たる戦場のありさまなどの比喩)に対し、屠場労組と一緒に幾度も抗議、糾弾をおこなったことがあるが、発言や記述した当人たちは、誰一人、実際の屠場に行ったこともなければ、見たこともなかった。しかし、なぜ差別的な比喩表現ができるのかといえば、そこに社会意識として、屠場および屠場労働者に対する差別意識が、空気を吸うように刷り込まれているからであることは疑いない。

 差別問題に取り組むとは、自己の内部に張り付いた鵺(ぬえ)のような差別意識(差別感情・憎悪感情)との絶え間ない闘いであり、差別意識の意識化、対象化の不断の過程のことである。
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