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第68回『週刊朝日』に対する橋下徹氏の抗議の意味(1)
 今回の『週刊朝日』、さらに昨年の『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』における橋下徹氏への差別キャンペーンを徹底批判して、『橋下徹現象と部落差別』と題する新刊を近日発売する。

 その最後に書いた文章を、今回は先行公開したい。

 今回の『週刊朝日』の記事は、昨年10月に発売された、『新潮45』、『週刊新潮』、『週刊文春』の、二番煎じにすぎないことは、すでに、幾度もふれている。違いは、執筆者がノンフィクションの大家・佐野眞一氏であり、舞台が朝日新聞社系の『週刊朝日』であったことだろう。

 それ故、記事の差別性追求の視点も、人を貶(おとし)める意図をもって、「DNA」=「血脈」=「被差別部落」=「奴の本性」を暴くという名のもとに、特定人物をいけにえに、被差別部落出身者を、その抗弁できない〝出自〟を根拠に侮辱した部落差別表現であるという、一点にある。

 10月16日発売と同時に、湧き起った社会的批判は、橋下徹氏の記者会見やツイッターでの抗議を基点に、ジャーナリズムをゆるがす大きな社会問題となった。朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」は、11月12日に、「経緯報告書」と「見解」を発表した。一読して、内容も優れており、迅速な対応に朝日新聞社と朝日新聞出版の今回の事件に対する、真摯な姿勢と内省がうかがえる。

 「見解」について、本稿で一点だけふれておきたい。

 「経緯報告書」は、「橋下氏の成育環境については、昨年秋に週刊誌や月刊誌で父親のことが報じられ、橋下氏が報道を激しく批判したことがあった」と、本対談のなかで、たびたび指摘されている昨秋の一連の橋下バッシング報道に言及している。

 しかし、「見解」のなかでは、「本件記事と同内容に近い記事が既に他の月刊誌・週刊誌等に複数掲載されている。編集部や記事をチェックした者たちは、それらについては橋下氏からの特段の抗議はなく、社会問題ともなっていないと即断し、こうしたことから本件記事も許されるものと考えたとしている」(傍点筆者)と記述し、「経緯報告書」の内容と食い違っている。

 ここで語られている「他の月刊誌・週刊誌等」が、昨年10月に発売された、『新潮45』、『週刊新潮』、『週刊文春』を指していることは疑いない。私の知るかぎり、昨秋から今秋の一年間に橋下徹氏に関して「本件記事と同内容に近い記事」は、前記三誌しかない。

 この食い違いは、しかし、黙過することのできない問題を孕んでいる。

 一つは、執筆者の佐野眞一氏は、昨秋の三誌の記事に対する、橋下氏の激越な批判や、部落解放同盟などからの抗議の内容と、その後の経過を、知っている。また、編集長以下担当現編集者が知らなかったというのも、僚誌『AERA』が、週刊誌二誌の記事を厳しく批判していることから考えて、到底納得できるものではない。三誌の差別的な記事は大きな社会問題になっていたにもかかわらず、一部のテレビがとりあげたのみで、少なくとも、新聞はまったく報じていなかった。

 私は、朝日新聞本紙の、紙面に責任をもつ立場の記者に、直接三誌の記事の差別性を強く訴えていたが、紙面でとりあげられることはなかった。つまり、今回の事件は、たんに『週刊朝日』だけの問題ではなく、朝日新聞社グループ全体の人権感覚の鈍化の問題でもあるということだ。しかも、「経緯報告書」も「見解」もふれていないが、差別的でセンセーショナルな『週刊朝日』の広告を、朝日新聞が載せたことの問題点もある。

 「緊急連載スタート」と銘打って、「救世主か衆愚の王か ハシシタ 橋下徹本人も知らない本性をあぶり出すため、血脈をたどった!」とのどぎつい見出しに対して、朝日新聞本社独自の広告掲載基準から判断して、どうだったのかという点も指摘しておきたい。

 加えて、天声人語(12年2月1日)に「戦争が終わると一億総懺悔。低俗テレビで一億総白痴化。」という表現が載り、読者から抗議を受けたにも関らず、対応はなにもなされていないこともあわせて指摘しておきたい。

 「経緯報告書」と「見解」は、全体的に短時間に、今回の事件の本質を明らかにし、今後の再発防止に向け具体的な指針を提起していると思う。

 しかし、ここで問題となった内容は、部落問題にかぎって起こる差別事象ではない。ここで多くは記さないが、たとえば、「渋谷で金属バットを振り回して、通行人に怪我を負わせた男がいる」、という記事や報道のあとに、いままではかならずといっていいほど、「彼には精神科への通院歴があった」、とつけ加えられていた。バットを振り回して、怪我を負わせたことと、精神科への通院歴があることの間に、なんの因果関係があるのか。なぜ病歴のなかで胃腸内科や耳鼻咽喉科ではなくて、精神科への通院歴のみがとりあげられるのか。これは精神障害者への、度しがたい社会的差別意識抜きには成立しない表現。精神科への通院歴が、事実かどうかではなく、そこに特別の意味を感じる表現者の、隠された、無自覚の差別意識が潜んでいることに気づく必要がある。重要なことは、意識するしないにかかわらず、人は、あまねく差別意識を持たされている、ということを自覚することだ。

 同様のことは、外国の被差別マイノリティに対しても起こっている。

『週刊文春』(12年8月30日号)は、今年8月ルーマニアの首都ブカレスト郊外で殺害された、日本人女子大生のことをグラビアでとりあげ、逮捕された犯人について現地に住む日本人の話として次のように書いている。

「ブラド[犯人]は『ロマ』と呼ばれる民族です。空港周辺では旅行者をカモに、詐欺まがいのことをする輩も多い……」(『週刊文春』8月30日号)

 本来なら「ジプシー」と表記したかったのだろうが、「ジプシー」は差別語だから、ロマ民族の自称である「ロマ」という言葉を選んだのであろう。しかし、この文脈上で「ロマ」と表記しようと「ジプシー」と表記しようと、表現における差別性にはなんの違いもない。

 問題は、なぜ殺人などの凶悪犯罪とロマ民族をわざわざ結びつけて表現するのかという点にある。犯人が、ドイツ人、フランス人、イギリス人だったら、決してこのような表現はしないだろう。

 犯罪をおこなう人間はどの民族にも存在する。なぜあえて、ロマ民族だけをわざわざとりあげて、記載するのか。

 これは、別に犯人がロマ民族であるという裏づけがとれているか、つまり事実かどうかの問題ではない。欧州で、とくにルーマニアにおいて、ロマ民族に対する極めて厳しい社会的差別の実態を知りながら、このような表現をおこなったとすれば、差別を助長するジャーナリズムの烙印を押されてもやむをえないだろう。

 今回の『週刊朝日』の記事に対して、当事者の橋下徹氏は、社会的マイノリティが永年の闘いのなかで克(か)ちとってきた、社会的糾弾権を行使したのだと、これまで私は強調してきた。

 部落解放同盟は「糾弾」を〝運動の生命線〟と叫び続けてきた。糾弾とは文字どおり、差別された者の抗議・告発の行為であり、怒りの表現である。

 1922年の全国水平社創立大会は「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す」と決議している。

 しかし、決議したからといって糾弾権なるものが社会的に認知されたわけではない。

 糾弾が虐げられた者の〝権利〟として社会的に容認されるには、権力の苛烈な弾圧、迫害の下、夥しい犠牲をその代價として払っている。

 糾弾は天皇制国家権力といえども躊躇はしない。

 その象徴的な出来事が、福岡連隊差別糾弾闘争(1926年)と高松結婚差別裁判糾弾闘争(1933年)であろう。

 前者は、福岡連隊内におけるたび重なる部落出身兵卒への差別に対して、全国水平社の総力を結集した軍隊糾弾闘争として解放運動の歴史にその名を刻んでいる。官憲のデッチあげた陰謀により松本治一郎全国水平社委員長をはじめ、多くの水平社同人が下獄した。

 後者は、香川県高松の被差別部落の青年が部落出身を告げずに結婚したことを理由として、結婚誘拐罪に問われた事件である。

 〝差別判決を取り消せ、さもなくば解放令を取り消せ〟のスローガンのもと、運動は燎原(りょうげん)の火のように全国に燃え広がり、水平社の組織的基盤を固めた司法権力糾弾闘争であった。

 今日の狭山差別裁判糾弾闘争の先駆(せんく)をなす闘いである。

 いうまでもなくこれらの闘いは、天皇制ファシズムという未曾有(みぞう)の人権抑圧体制下において、人間としての尊厳をかけた糾弾闘争であった。

 糾弾には、部落民衆の流した血涙と慟哭が、刻印されている。

『野中広務 差別と権力』(魚住昭著、講談社)という本がある。この本のエピローグに野中さんが政界を引退する前に、最後の自民党総務会で発言した内容が記されている。それは麻生元首相(発言当時は総務大臣)の「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」という発言に対する野中さんの激烈な批判である。この本のなかではふれられていないが、同じ総務会で野中さんは、山崎拓元首相補佐官が女性スキャンダルを追及する週刊誌記者たちに「あの女性は部落の人間だよ、君たち、それを記事にしたら大変な騒ぎになるぞ」と恫喝をかけたことについても指弾している。

 野中さんが最後の気力を振り絞って抗議・糾弾したこの二人の政治家に対し、部落解放同盟中央本部が抗議をおこなったということを寡聞にして知らない。

 糾弾に功罪はある。しかし、差別という社会悪に対し、糾弾することを躊躇する必要はない。
 先人の矜持(きょうじ)を貶(おとし)めてはならない。
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