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第65回/第66回 一挙掲載!!


第65回 橋下徹に関する『週刊朝日』10月26日号の記事について(4)



■“識者”の意見の典型例とその問題点
  今回の『週刊朝日』(10月26日号)の差別記事に対し、それを支持ないし擁護する有識者が結構いたことに驚いているが、改めてその支持ないし擁護する根拠を見ながら、見解を述べたい。

1)橋下徹氏が被差別部落に出自を持つのは“事実”であり、それを書くことがなぜ差別になるのかという意見
2)人物研究なのだから、その“血脈”をたどるのは当然であり、それは野中広務や松本治一郎の人物研究をするさいに不可欠の要素であり、なぜ、橋下徹氏の場合だけは差別になるのか

 これらに代表される有識者の意見の問題点について考えたい。

■“事実”ならば何を報道してもいいのか
 橋下徹氏が、被差別部落に出自を持つことは、当人も否定していない事実であるが、なぜ橋下氏についての情報の束のなかで、とくに“出自”が強調され、クローズアップされるのか、その背景を考える必要がある。

 ほかの情報、たとえば家庭環境や学歴、職歴、趣味、好き嫌い、運動能力、語学力、東京や大阪で育ったことなど、橋下氏についての無数の情報があるなかで、なぜその“出自”(しかも、社会的な差別の対象となっている)が、特別に強調される必要があるのか。“事実”だが描くな、と私は言っているのではない。社会的差別をともなう事柄と結びつけて描く場合、そこに、描くに値する社会的必要性と合理的理由、つまり客観的な必然性が存在するか否かが問われなければならない。

 いたずらに、“事実”と“出自”を書き記すことによる社会的影響を考慮することなしに書けば、責めを負うべきは執筆者と媒体であることは当然であろう。ここで強調している“事実”とは、当人の責任ではなく、当人の努力では如何ともしがたい事柄、つまり抗弁することができない“出自”などについて言っているのであって、なぜそうなのかと抗弁することができる犯罪や能力一般のことを言っているのではない。

 抗弁できる“事実”と抗弁できない“事実”を、どちらも同じように書くことは、フェアーな取材態度ではないし、興味本位かつスキャンダラスに描くに至っては、社会的指弾を受けることは避けられない。

■「黒人として生まれるか、白人として生まれるか」は自分で選べない
 先日のアメリカ大統領選の報道で、「オバマ(黒人系)対ロムニー(モルモン教)のマイノリティ対決」と言った解説者がいたが、それは違う。ロムニーの信仰する宗教・モルモン教は、宗教的マイノリティであることは事実だが、自分で選択した宗教であり、ロムニーは、いつでも当人の意思で他宗教に改宗できるが、一方、黒人として生を受けたオバマには、白人になる選択肢はない。抗弁できない“事実”とは、このような差別のことを言うのである。

■犯罪報道の中で語られるロマ民族
 同様のことは、他の社会的マイノリティに対しても起きている。この連載の第56回〈犯罪報道の中で語られるロマ民族〉と題して、以下のように書いた。

『週刊文春』(8月30日号)のグラビアで、先日ルーマニアの首都ブカレスト郊外で殺害された、日本人女子大生のことを取り上げている。逮捕された犯人について、記事は現地に住む日本人の話として次のように書いている。
「ブラド(犯人)は『ロマ』と呼ばれる民族です。空港周辺では旅行者をカモに詐欺まがいのことをする輩も多い」(『週刊文春』)
 本来なら「ジプシー」と表記したかったのだろうが、「ジプシー」は差別語だからロマ民族の自称である「ロマ」という言葉を選んだのであろう。しかし、何度も書いてきたように、この文脈上で「ロマ」と表記しようと「ジプシー」と表記しようと、表現における差別性にはなんの違いもない。

 つまり、差別語でない民族自称の「ロマ」を使った差別表現か、差別語である「ジプシー」を使った差別表現かの差があるだけである。
 問題は、なぜ殺人などの犯罪とロマ民族をわざわざ結びつけて表現するのかという点にある。犯人が、ドイツ人、フランス人、イギリス人だったら、決してこのように表現はしないだろう。

 犯罪を行なう人間はどの民族にも存在する。なぜあえて、ロマ民族だけをわざわざ取り上げて、記載するのか。

 これは、別に犯人がロマ民族であるという裏付けが取れているか、つまり事実かどうかの問題ではない。欧州で、とくにルーマニアにおいて、ロマ民族に対する極めて厳しい社会的差別の実態を知りながら、このような表現を行なったとすれば、差別を助長するジャーナリズムの烙印を押されてもやむを得ない。

■猟奇的事件と差別問題
 少し古いが、1997年に起こった「神戸連続児童殺傷事件」俗称「酒鬼薔薇事件」についての有識者の発言について、拙著『差別語・不快語』から引用する。

コラム 猟奇的事件と差別問題
 1997年、作家の鈴木光司氏が母校で記念講演をしたさいに、神戸の小学生殺害事件について「事件のあった地区は、被差別部落のあったところを造成して団地にしたところである」「容疑者の母親は被差別部落の出身者である」と発言したことに、解放同盟が抗議。動機が不可解で猟奇的性格を帯びている事件と被差別部落を、なんの根拠もなく、たんなる伝聞にもとづいて安易に結びつけ、なにかを悟ったかのように吹聴することの差別性を指摘しました。(ちなみにジャーナリストの嶌信彦氏は、同じ事件について、在日コリアン犯人説をテレビで主張)ところが、それに対してだされた“お詫び”の文章がさらに問題視されることになります。その“お詫び”には、おおむねつぎのように書かれていました。
〈事件のあった場所が同和地区であり、容疑者の母親が被差別部落の出身者というのは伝聞にもとづいたものであり、調査の結果、事実でなく誤った情報であったことが判明したので、「事実無根の情報流布は、誤解と偏見を招き、差別の再生産につながることである」とし、反省し、お詫びする〉
 この“お詫び”文書の第1の問題点は、はたして、事件が被差別部落の地域で起き、容疑者の母親が被差別部落出身者であれば、記してもいいのかという点にあります。極めて猟奇的な事件と、被差別部落およびその出身者を安易に結びつける思考そのものにひそむ差別性こそが問われているのであって、事実か否かの問題ではないということです。犯罪を被差別部落、在日韓国・朝鮮人、精神障害者など社会的マイノリティと安易に結びつける発想が、批判されているわけです。

 第2の問題点は、「調査の結果、事実でなく誤った情報であったことが判明した」としている部分です。鈴木氏は一体どのような手段を使って、そこが被差別部落かどうか、母親が被差別部落出身者か否かを調べたのでしょうか。興信所や探偵社に高い料金をはらって調査を依頼したのでしょうか。驚くのは、身元調査そのものが、違法性をもつ人権侵害であることに対する認識の希薄さです。

 このような、動機不明の不可解な猟奇的事件と被差別部落を結びつける傾向は、おもだった事件だけでも次のようにあげられる。

1983年 グリコ・森永事件 食肉関係者・部落への見こみ調査
1995年 オウム真理教事件 麻原(松本智津夫)部落出身者説
1998年 和歌山毒入りカレー事件 「犯人」部落出身者説
1999年 音羽“お受験” 殺人事件 「犯人」部落出身者説
1999年 京都伏見小学生殺人事件 「犯人」部落出身者説





第66回 橋下徹に関する『週刊朝日』10月26日号の記事について(5)


■月刊誌『選択』に書かれた批評の傲慢さ
 雑誌『選択』2012年11月号の最終章にある「マスコミ業界ばなし」が『週刊朝日』問題についてふれている。そこには、以下のように書かれている。
「橋下市長の出自をえぐり同和差別の機微に触れた記事の是非はともかく、親会社である朝日新聞社の介入に疑問が投げかけられている。『編集権の独立』という朝日の好きそうなお題目を無視してまで手を突っ込んだ勢いは凄まじかった。」(傍点筆者)
 まず、「同和差別」という聞いたこともない不快なニュアンスの言葉に違和感を持つ。なぜ部落差別、部落問題と表現しないのか。さらに問題なのは、「記事の是非はともかく」親会社朝日新聞社が、『週刊朝日』の「編集権の独立」を侵してまで、連載の中止とおわびを強制したことに、批判的な批評をしていることである。

 「連載中止」も「おわび」も「記事の是非」つまり、部落差別を助長する記事であるかどうかが、大前提だろう。

 それがどうでもよいという感覚は、差別問題に対する認識の浅さというだけにとどまらず、社会の根底を見据えていない、エリートジャーナリズムの傲慢な視点にすぎない。

 部落差別の存在を前提にし、かつそれを容認し、助長する差別記事だから連載中止になったというのが、この問題の本質であり、いわゆる「親方攻め」として『週刊朝日』の編集権を侵害したとしても、その内容抜きに形式的に語られるべきではない。もっとも言えば、「編集権の独立」というなら、『週刊朝日』編集部は職を賭(と)して闘えと言いたい。

 もともと佐野眞一さんを“弾除け”として利用する程度の度量で、気安く「編集権の侵害」などと言うべきでない。

■批判すべき点をはき違えてはいけない
 もう一度確認しておく。
 『週刊朝日』10月26日号の記事は、人をおとしめる意図を持って、特定の人物の「本性」を暴くという名の下に、特定人物を含む被差別部落出身者を、その抗うことのできない“出自”を根拠に侮辱した差別表現であるということ。
 文脈と意図に、被差別部落出身者に対する“侮辱の意志を表示した”(全国水平社創立大会決議第一項)表現の差別性に抗議しているのであって、実在する被差別部落の地区名を記載したことは、二次的問題である。
 ここまでは、橋下徹氏が行なっている批判と視点は同じだが、あえて一言つけ加えれば、水平社宣言にある“エタであることを誇りうる”立場からの批判か、“エタであること”に誇りを持てない立場からの批判かの、立ち位置の違いはあるが、今は、そのことにはふれない。ただ、根源的な批判は、“エタであること”を誇りうる立場に立ったときにのみ、行なえるとだけ言っておきたい。
 
■『サンデー毎日』(10月31日ネット配信)の「サンデー時評」について
 毎日新聞の、岩見隆夫氏が、『週刊朝日』問題について、「橋下市長は裁判をすべきだった」と、『サンデー毎日』(10月31日ネット配信)の「サンデー時評」に書いている。一知半解・ジャーナリストの典型的意見だ。橋下市長は、部落差別にもとづく人権侵害に対して、名誉毀損など、告訴という政治的手段ではなく、被差別マイノリティが獲得した、糾弾という社会的権利を行使したのだ。岩見氏にはそのことがまったくわかっていない。裁判所に訴えるなど、ブルジョワ(懐かしい)・御用ジャーナリストの考えそうなことだ。

 橋下市長は、自力救済の、社会的権利を実行したからこそ、“一人解放同盟”なのである。

 しかも、民主党の仙石由人が『週刊新潮』の〈黒い人脈〉と因縁があるなど記述した記事に抗議し、名誉毀損の損害賠償裁判を起こした例をあげ、プライバシー侵害で告訴することをすすめている。

 それにふさわしいのは、東国原英夫(そのまんま東)が、自己の女性スキャンダルで『週刊文春』を告訴したことであろう。政治的手段として裁判所に訴えることと、自力救済として、血のにじむ闘いの中で先達が獲得した、社会的権利としての被差別マイノリティの糾弾権との区別もつかない岩見氏に、この問題に口を挟(はさ)む資格はない。

■自力救済としての糾弾権
 ここで、読者諸子にはなじみのうすい“糾弾権”について、少しふれておきたい。

 部落解放同盟は「糾弾権」を“運動の生命線”と叫び続けてきた。

 糾弾とは文字通り、差別された者の抗議・告発の行為であり、怒りの表現である。

 1922年の全国水平社創立大会は「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す」と決議している。

 しかし、決議したからといって、糾弾権なるものが社会的に認知されたわけではない。
 糾弾が虐(しいた)げられた者の“権利”として社会的に容認されるには、権力の苛烈な弾圧、迫害の下、夥(おびただ)しい犠牲者をその代價(だいか)として払っている。

 糾弾は、天皇制国家権力といえども躊躇(ちゅうちょ)はしない。

 その象徴的な出来事が、福岡連隊差別糾弾闘争(1926年)と高松差別裁判糾弾闘争(1933年)であろう。

 前者は、福岡連隊内におけるたび重なる部落出身兵卒への差別に対して、全国水平社の総力を結集した軍隊糾弾闘争として、解放運動の歴史にその名を刻んでいる。

 官憲のデッチあげた陰謀により、松本治一郎全国水平社委員長を始め、多くの水平社同人が下獄した。

 後者は、香川県高松の被差別部落の青年が、部落出身を告げずに結婚したことを理由として、結婚誘拐罪に問われた事件である。
 “差別判決を取り消せ、さもなくば解放令を取り消せ”のスローガンの下、運動は燎原の火のように全国に燃え広がった。水平社の組織的基盤を固めた司法権力への糾弾闘争であった。
 今日の狭山差別裁判糾弾闘争の先駆をなす闘いである。

 言うまでもなく、これらの闘いは、天皇制ファシズムという未曾有(みぞう)の人権抑圧体制下において、人間としての誇りをかけた糾弾闘争であった。

 糾弾は、部落民衆の流した血涙の歴史である。

 判決も言う。
「差別糾弾は手段、方法が相当な程度を超えない限り、社会的に承認されて然るべき行動であり、(矢田教育差別事件・大阪地裁判決1975年6月3日)また法秩序に照らし、相当と認められ、程度を超えない手段、方法による限り、かなりの厳しさを有することも是認される(同事件・大阪高裁判決1981年3月10日)」
 “糾弾権”が、解放運動の生命線と言われる由縁である。

 差別事件を“名誉毀損”“プライバシーの侵害”などと、裁判所に訴える手段は、あくまで糾弾闘争の一部であって、社会的権利行使の部分を構成するにすぎないのである。

 今回の記事によって、橋下徹氏が人権擁護者で、『朝日新聞』および『週刊朝日』が人権侵害事件の当事者――と世間の目には映っている。

 “部落差別”と闘う橋下市長というイメージは、大阪市における人権政策を破壊している市長の政治手法とは結びつかない。それに対して、今回の『週刊朝日』差別記事のように「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の感情的レベルで相手を叩くことは、逆に相手の行為に社会的正当性を与えることにもなりかねないことを、肝に銘じるべきだ。
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