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第64回 橋下徹に関する『週刊朝日』10月26日号の記事について(3)
 前回は、主に『週刊朝日』の「おわびします」について、その問題点を指摘したが、今回はこの事件をめぐるジャーナリズムおよび“朝日新聞的文化・知識人”の見解などについて意見を述べたい。

 朝日新聞出版は、10月24日、今回の記事について、朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」に審理を要請している。

d この第三者機関が、内実ある客観的審理が可能な機関か否かはわからないが、朝日新聞出版は、一応の幕引きを終えたというだろう。

■記事の差別性はどこにあるのか
 最初に言っておかなければならないことは、今回の『週刊朝日』の記事の差別性が、たんに同和地区(被差別部落と必ずしも同一概念ではない)を特定したという事実だけに存在しているのではないということだ。

 そのことは、昨年の『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』の一連の記事も本質的に同じであって、それらと同様に、記事の差別表現が問題となっているのであって、地区名を伏せるとか、登場人物を匿名にしたり、地区名をイニシャルにしたとしても、表現の差別性(侮辱の意志)においては、なんら違いはないということを確認しておく必要がある。

 つまり、DNA=血脈=被差別部落と橋下氏の人物評価(性格および政治手法)を、差別的意図を持って結びつけて論じているところに、最大の問題点があるということだ。

 もし、この記事の中で、「大阪府八尾市内の部落」と抽象的に表現していたとしても、橋下氏の父親が、その部落の出身者であり、ゆえに橋下市長も被差別部落に出自を持つと断言できれば、橋下氏をおとしめる差別的意図は貫徹されたのであって、地区名の特定は二次的なものにすぎない。

 たとえ橋下氏が自分の出身地を、自らあきらかにしていても、それは当事者性をもって語られている事柄であり、他人がそれを口実に、出自の問題を話すのは、よけいなお世話であり、社会的批判回避の卑劣な言い訳にすぎない。

 くり返し言うが、今回の記事の差別性の原点は、特定の地区名を明記したことにあるのではなく、昨年の『新潮45』『週刊新潮』『週刊文春』と同じく、橋下徹氏をおとしめる意図を持って、「出自」=被差別部落出身者という個人のプライバシーを、雑誌を売らんがためのスキャンダルとして、センセーショナルに“暴露”したところに、重大な差別性が認められるということだ。これは、橋下氏の公人という社会的立場を考慮したとしても、確実に一線を越えている。

■上原善広の居直りと犯罪性
 今回の『週刊朝日』事件について、自称・被差別部落出身のライター上原善広が『東京新聞』(10月23日)や、光文社発行の『FLASH』(11月6日・13日号)、毎日新聞社の『サンデー毎日』(11月11日号)に、臆面もなく登場して、逆に部落差別を助長するようなコメントを載せている。三紙誌ともに、上原が書いた『新潮45』(2011年11月号)の差別記事「『最も危険な政治家 橋下徹研究』孤独なポピュリストの原点」の執筆者であることを知った上での起用であるところに、三紙誌の部落問題認識の底の浅さと、利用主義的報道姿勢がうかがえる。

 以下、上原の主張の問題点を細かく指摘していく。

●『東京新聞』10月23日について
 今回の『週刊朝日』の記事を評して「私たちの先行記事に乗っかった安易な企画」と上原は言うが、そもそも『新潮45』の記事じたいが、自称・部落出身者という肩書きを利用されただけの、以降の差別記事の先鞭をつけたにすぎず、諸悪の根源記事以外のなにものでもない。

 続けて「今回のような質の悪い記事でも、部落問題について書かれるのは非常に良いことだ。もし差別を助長することになっても、差別意識をあぶりだすことになる。裏に隠れて、差別されるよりは表立って議論される方がいい」と言っている。

 それでは聞くが、過去100年、水平社結成以前から、部落出身者に対する差別的言動などに対して、被差別部落出身者は怒りを持って抗議してきたが、それら被差別部落出身者に対し侮蔑の意図をもって投げかけられた差別表現事象がすべて、「差別意識をあぶりだす」ためには良いことだったと言うのか?

 この記述は、部落差別表現だけではなく、すべての被差別マイノリティの差別表現糾弾の闘いを否定し、その闘いを侮辱する発言と言ってさしつかえない。

 最後に「橋下氏のような権力者の人物研究をする際は、ルーツをたどることは欠かせない。そこに部落問題があれば書けばいい」と上原は言っている。

 ならば、野中広務氏が麻生太郎に「あんな奴は総理にはできんわな」と言われ、その“ルーツ(出自)”を理由に差別されたことも許すべきと言うつもりなのか。重要なことは、社会的必要性があり、合理的理由があれば、社会的差別が厳存しているということを配慮し、考慮して描くことであって、トップ屋的、興信所的感覚で描くことは、差別を助長する行為だということだ。

●『FLASH』(11月6・13日号)について
 ところが一転、『FLASH』では次のようにコメントしている。
この連載には愛情がない。同和の問題は愛情を持って書かないとダメ。フォローもちゃんとやらないと。同和問題に触れるならば、相当な覚悟と下準備をし、知識をきちんともたなくてはいけない。橋下さんの周辺を取材しただけで書くというのは確かにアンフェアだし、批判に応えられないのです」
 率直に言えば、なんという変わり身の早い無節操ぶりかと感じ、最初に批判されるような記事を書いたのはお前だろうと思うが、このコメントに対しては、「愛情」のあるなしは、差別表現か否かに一切関係ないとだけ言っておく。

●『サンデー毎日』(11月11日号)について
「(結婚差別を例にとって―筆者注)こうした不条理は、差別が悪であるという「善悪二元論」で論じていては解決しないことに私たちは気付くべきではないでしょうか。人間には元々、善悪両面の顔があり、善悪だけで語り切れない。差別とはあまりに複雑なものだ。善悪論で差別する側を糾弾したところで、差別が地下にもぐり込むだけです。

『週刊朝日』のような質の悪い記事でも、同和問題を報じる記事が出るのはいいことです。…(中略)…同和問題とは心の問題であり、精神の問題なのです。」  まるで、うだつの上がらない倫理・社会の先生のような口ぶりだが、「不条理」「善悪二元論」という言葉の意味を、理解もせずに使用するほど、おろかしいことはない。「同和問題とは心の問題であり、精神の問題なのです。」とは、あいた口がふさがらない。1965年に出された国の「同和対策審議会答申」以下の、無知そのものという他ない。
 さらに、部落解放運動の“生命線”である「糾弾」を否定するに至っては、もはやこれらの言説をもって、上原を徹底糾弾する以外に彼を救済する道はないだろう。
 
■「知ってもらうため」であれば、どんな差別的言説も許されるのか?
 以上、今回の一連の報道資料をもとに、上原の言説を見てきたが、断言しておかなければならないことの一つは、差別問題を「可視化」させるためには差別的言説も許されるという思考は、社会的差別の現実を前にしたとき、犯罪的行為だということだ。
 二つ目は、今回の件にしても、昨年の件にしても、橋下徹氏がツイッターなどで厳しく批判したからこそ、社会的に大きな議論がまき起こったのであり、“出自”を暴露するという行為を、差別の表面化=“可視化”などと評価するのは、自分の行なった差別記事に対する後付けの言い訳にすぎない、ということだ。

 こうした言説を彼が吐く心理的背景には、自分が『新潮45』(2011年11月号)に書いた「孤独なポピュリストの原点」に対する抗議・糾弾を免れようとする恐怖心がある。

 これら上原の言い分が通るとすれば、芸能界やプロスポーツ界、そして政治家などで活躍している著名人の“出自”=被差別部落という社会的属性を暴いても、それは社会的討論をまき起こし、差別をなくすためのやむを得ない、耐えるべき痛みであり、当事者および親族の怒りや心痛は、まったく顧慮しなくてもよいという暴論にいきつく。
 では聞くが、上原がつねづねその人との親密さを自慢してはばからない、大物芸人で政治家でもあった大阪の著名人について、なぜ彼は、その著名人が某県の被差別部落出身であることを晒(さら)し、その性格と政治政策と“血脈”との関連性を追求し、「表立って議論」するためにレポートしないのか。

 「知ってもらうためにはどんなことでも書いていい」という上原の理屈でいけば、大物芸人の当人に直接取材する必要もなく、当人の知らないところで、勝手にその“血脈”を人格と結びつけて暴いてもよいことになるが、どういうわけか、未だにそんな記事は見たことがない。部落差別の現実を明らかにして議論をまき起こすには、恰好の人物だと思うのだが……。
 ようするに、上原の論理はすでに破綻している。しかし、思想的に劣化しているマスメディアの一部が、彼を重宝し、かつ“表現の自由”を守るという浅慮と屁理屈を結びつけて、利用しているのである。

 また上原自身は、『新潮45』(2011年11月号)の差別記事や、昔、『実話ナックルズ』に書いた反吐が出るほどの差別記事を抗議・糾弾されることを恐れ、自己弁護的に放言しているに過ぎないのである。

■底の浅い“言論の自由”意識
 さらに上原の『新潮45』の差別記事を“編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞”の大賞に選んだ、若手編集者の質の低下にもふれておかなければならない。「孤独なポピュリストの原点」は、橋下氏をおとしめるために彼の“出自”をスキャンダラスに暴いたという点で、あきらかに差別記事である。こんな記事を大賞に選んだということは、選者である若手ジャーナリストの思想的劣化を物語る、恥の記念碑とも言える。
 そこには、今回の『週刊朝日』の記事を支持ないし擁護した、少なくない“朝日新聞的文化・知識人”の姿勢と共通した、底の浅い“言論の自由”意識を見るからである。

(以下次号)
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