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第61回 くり返されるムハンマド風刺画事件―「表現の自由」か、「宗教の冒涜」か
 イスラム教の預言者ムハンマドを冒涜(ぼうとく)した米国発の映像に続き、フランスの週刊誌『シャルリーエブド』が、同じくムハンマドの風刺画を掲載したことに対し、イスラム教徒の抗議行動が世界各地でくり広げられ、多くの死者と負傷者を出す深刻な事態を招いている。

 今回の事件と同様のことが、2005年9月にも起こっている。デンマークの新聞『ユランズ・ポステン』が、ムハンマドをモチーフにした風刺画を掲載したことに対して、全世界のイスラム教徒の怒りを買い、シリアやレバノンではデンマークの公館が放火されるまでに至った。

 それゆえ、今回の米国発のムハンマド冒涜映画は、極めて意図的な政治的挑発行為と言って、さしつかえない。

■宮崎哲弥氏の論評
 『週刊文春』(2012年10月4日号)の「時々砲弾」で、宮崎哲弥氏がこの問題を取り上げている。

 彼の主張は、米国発の映像は、「まずムハンマド役の男が画面に登場することが既に(イスラム教の)禁戒に抵触している。この段階で冒涜に当たるのだ。況んや内容においてをや、である。」と、映像を批判しつつ、しかし、「だが偶像崇拝の禁止はイスラム教の原則に過ぎない。ここで問われているのは、一宗教の禁戒を、他の信仰や他の価値観を生きる人々にまで適用することが果たして正義といえるのか、だ。」と述べ、イスラム教の原則を強要していることについては批判的である。

 さらに、表現の自由にも限界がある(つまり他宗教を冒涜する自由はない)という意見に対して、このように述べている。
表現の自由の限界など誰もが認めている。例えば猥褻(わいせつ)表現も、私人の名誉に関わる表現も適切に規制されるべきだし、そんなことに反対する者などいない。問題は宗教なのだ。表現の自由は宗教権力との闘争において形成された。自由社会の先覚者たちは、何よりも「神への冒涜」を断罪する勢力と戦ったのだ。だから、これは表現の自由の「限界」どころかまさに「本丸」なのである。

つまり表現の自由は、信教の自由の前提でもある。ここで安易に宗教側に譲歩すれば前近代の間に逆戻りしてしまいかねないという危機意識が西欧には息衝いている。その原理と真っ向から対立するのが、イスラムの「普遍主義」である。

つまり、西欧社会においては、教会からの自由(政教分離)によって近代の幕明けがもたらされたと述べたうえで、宮崎氏は、次のように結論づけている。

「世俗主義・自由主義の原則」と「イスラーム教の普遍性の理念」。究極的にどちらが正しいかを決することはできない。ただ、この紛争の背後には、実に根深い対立があることだけは知っておいた方がよい。
(引用はすべて『週刊文春』2012年10月4日号「時々砲弾」)
■ムハンマド映像・風刺は「表現の自由」=愚行権の範囲を超えている
  前回、2005年の事件について私は、『差別語・不快語』の中で、次のように「解説」している。

ムハンマド風刺画事件
デンマークの新聞ユランズ・ポステンが、2005年9月30日の紙面に12種類のムハンマドをモチーフにした諷刺画を掲載、イスラム教徒から抗議の声があげられた。それに対し「表現の自由」を掲げたフランスなどの新聞で、さらに風刺画が転載され、世界中に争乱が拡大した。「人間の法」としての憲法が保障する表現・言論の自由と、「神の法」であるイスラームの規範がぶつかりあった事件といわれる。西欧側は自分たちの「啓蒙主義(教会からの自由=政教分離)」という価値観を絶対化し、異なる文化・規範をもつ人々に対して、「イスラム教徒を啓蒙する」といった態度で、挑発的なムハンマドの描き方をおこなったため、イスラム教徒からの非常な反感を買った。
 宮崎氏と基本的な内容は同じだが、立ち位置に違いを感じる。

 宮崎氏の語る「凄惨な宗教戦争を経たヨーロッパの知恵」とは、30年戦争(宗教戦争)の終戦条約ウェストファーレン条約(1648年)のことだが、そこで対立を続けたカトリックとプロテスタントが相互に認めたのは、いわゆる“愚行権”である。

 つまり、カトリック教徒は、プロテスタントを信仰する“愚行”を認め、プロテスタント教徒は、カトリックを信仰する“愚行”を認めるということであった。

 “愚行権”とは、他人(他集団)に害を及ぼさない限りにおいて認められている権利である。(国家間においては、主権を認め、内政に干渉しないという原則)

 他者(他集団)の心を傷つける愚行は、当然それを批判する側からの反撃を受けるのはやむを得ないという覚悟の上で行なうべきだろう。

 今風に言えば、「ヘイトスピーチ」の問題である。「表現の自由は、信教の自由の前提でもある」ことと、他者(他集団)の宗教を冒涜し、侮辱する自由は、“表現の自由”にはハナから含まれていないことは、別に矛盾する事柄ではない。

 要するに、ムハンマドに対する映像と風刺は、“表現の自由”=愚行の範囲を超えているからこそ、激しい抗議の対象になったのであり、イスラム教の普遍主義に問題があるのではないということだ。

■天皇についての風刺はどうなのか
 もうひとつ言うなら、宮崎氏は、天皇についての風刺が日本で成り立つか、否かを考えてから、この問題について発言すべきだろう。片岡鶴太郎が息子の結婚式で、今上天皇のものまねをして、民権派の団体から抗議を受け、深刻な反省を示し、許しを乞うた行為を、どう論評するかだ。
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