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第50回 「他力本願」の意味と用い方をめぐる“論争”
■判決文の中の差別表現
 少し古い話だが、2007年3月8日付の東京新聞に〈「鮮人」…判決文に差別的表記 「裁判長交代を」原告側抗議〉との見出しで、「中国残留孤児」訴訟の判決文(2007年1月30日の東京地裁判決 裁判長は加藤謙一)にある差別語の使用を批判する記事が載っている。以下に引用する。
問題となった表現は、判決の日ソ開戦当時や終戦前後の残留日本人の避難状況などについての事実認定で、十カ所以上で使われた。
「土匪(どひ)」は、「殺人や略奪をする土着の盗賊団」の意味だが、判決文では「土匪(反日武装集団)のために全滅的な打撃を受け」などと記述された。弁護団は「そもそも現代では使わない不適切な表現の上、日本の支配に対抗して武装蜂起した農民らも合まれ、中国人を蔑視(べっし)する表現」と反発。
旧満州(中国東北部)からの日本人の避難状況について述べたくだりでも、日本人女性について「満人の妻になる者が多く、子どもを満人に託す者も」「満人、鮮人の協力が得られた」などの表現が続出した。
「中国人養父母に恩義を感じている原告も多く、差別的表現に傷ついている」と安原幸彦弁護士は話す。こうした表現は、国側が証拠として提出した1959年の厚生省(当時)の「満州・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況」と題された内部資料の記述と酷似しているという。

(『東京新聞』2007年3月8日付)
 この判決文を見て、日本アジア関係史研究者の田中宏龍谷大学教授(当時)は、次のようなコメントを東京新聞に寄せている

 当時の文書を引き写したのだろうが、今では公文書では決して使われない「鮮人」「満人」「土匪」という不適切な言葉が判決文には頻繁に使われている。引き写すこと自体問題だが、裁判官の歴史認識なり言語感覚の時代錯誤ぶりが露呈していて恥ずかしい限りだ。(『東京新聞』2007年3月8日付)

 このこともあってか、拙著『差別語・不快語』の購入者に裁判官の方が少なからずいる。

■「他力本願」の意味と用い方をめぐる“論争”
 前置きが長くなったが、『週刊金曜日』(2012年7月6日号)の「投書」欄に、寺西和史裁判官が、「他人の力を当てにするも『他力本願』の意味」と題して寄稿している。

 この記事は、『週刊金曜日』6月15日号の「投書」欄に載せられた投稿、真宗寺院住職による「ここで『他力本願』の語を使うべきではない」への反論として書かれている。

 作家でエッセイストの森まゆみさんが、他人の力を当てにするという意味で「他力本願」という言葉を使用していることについて、真宗寺院住職の青木敬介氏が、「本来の仏教用語が持つ意味を誤って用いている」と下記のように異議を申し立てた。
……文中「他力本願」という大乗仏教の根幹をなすことばをここで使われたのでは、読者に誤解を与えるものであり、ここで使用する必要はありません。
他力本願とは、「人間の愚かさと独善的な思いあがり、怒り貪欲を戒める、仏陀の真実から発せられた救済の力そのもの」という意味です。
 『大言海』でも「他の力を当てにする」などと誤記されていますが、きちっと本来の意味で使ってほしいもので、森さんの文意からすれば「他の巨大資本に頼る」または「ひとのフンドシで相撲をとる」と言えばすむことです。

(『週刊金曜日』6月15日号 “投書”欄より)
 それに対して、寺西氏は「『他力本願』原理主義」と厳しい言葉で反論し、さらに、次のように非難している。

 青木氏は、「他力本願」の語義について、「『大言海』でも『他の力を当てにする』などと誤記されています」などとおっしゃる。まるで、本来の意味ではなく、転用された意味で使用したら誤りであるかのような言い方だが、言葉が本来の意味を離れ、転用された意味で一般に通用するようになるのはよくあることである。
「本来の意味だけが正しく、転用された意味で使用するのは誤りである」などというのこそ、言葉の理解として、端的に誤りである。

(『週刊金曜日』7月6日号“投書”欄より)
 寺西氏は、「余りに唯我独尊的な態度であろう。」と記事をしめくくっている。

 さて、読者の皆さんはどう感じられただろうか。「他力本願」も「唯我独尊」も、本来の仏教用語の持つ意味とは、かけ離れて日常的に使用されていることは事実である。そして、多くの国語辞典が、元の意味とともに、世間に通用している意味も載せている。

 ここでの問題は、知識人が浄土真宗の教えの核心をなす教義を曲解したまま使用していいのか、というところにある。

 言い換えれば、言葉に責任を持つ職業上の倫理観を問うているとも言える。真宗寺住職の森まゆみ氏に対する指摘を批判している裁判官である寺西氏は、判決文に「他力本願」や「唯我独尊」という言葉を、世間が使用している誤った意味で書くのであろうか。聞きたいものである。

■世間が使用しているからよいのか
 最後に、拙著から引用して、私の意見を述べておきたい。
「他力本願」
①弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。
②転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。
(『広辞苑』第六版)

世間では、もっぱら②の意味で使用されていますが、公の場所やメディアで、このような「他人任せ」といった意味で発言した場合、浄土宗・浄土真宗の教団や門徒から厳しい批判がなされています。

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の教えの核心をなす「他力本願」の「他力」は、「阿弥陀仏の力」を意味しており、「本願」は、阿弥陀仏が衆生(すべての生きもの)を極楽浄土に往生させる誓願のこと。自己の修業によって悟りを開くのではなく、「他力本願」は、阿弥陀仏の本願の力によって成仏することを意味しています。つまり、自己の能力に依拠するのではなく、阿弥陀仏の願力による以外救済はありえないとし、阿弥陀仏の力を極大化し、人間の能力を極小化することによって、信心が絶対化されるとともに、人間の資質の平等が実現されるととらえます。ですから、「他力本願」を他人任せ、他人をあてにして怠ける態度や、無気力なことのたとえとして使用することは、本来の意味とは正反対であり、誤解を拡張する表現であり、公的な場での発言や公文書ではひかえるべきでしょう。

(『差別語・不快語』より引用)
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