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第41回 比喩表現にあらわれる差別意識

 今回は、近々に読んだ本で気づいた差別表現事例について書く。

①星野仁彦著 『発達障害に気づかない大人たち』(祥伝社新書、2010年)
 20万部を越えるベストセラーであり、より多くの人に読まれるべき書物であるが、31ページに次のような比喩がある。

「群盲象を評す」という諺があります。同じ象であっても、足を触った盲人は「木」だと言い、鼻に触れた盲人は「蛇」だと言ったという故事から、「論ずる対象が同じであっても、その印象や評価は人それぞれ異なる」、あるいは「わずか一部分を取り上げたところで、その事象のすべてがわかるわけではない」という意味です。
 発達障害が複雑でわかりにくいのは、まさにこのたとえ通りで、幼稚園の教師と小中高校の教師、あるいは大学の教師では、同じ一人の発達障害者であっても、幼児期、学童期、思春期・青年期とまったく別の顔を持った生徒を相手にすることになるのです。

(『発達障害に気づかない大人たち』より引用)

 差別表現の大半が、比喩、たとえを用いて語られることが多いのは、『故事ことわざ辞典』の類を見れば、容易にわかることだ。しかし、かつて生瀬克己先生が監修した『新編 故事ことわざ事典』(創拓社)では、「群盲象を撫ず」として、以下のように解説している。

大勢の目の見えない人が象の体をなでまわして、自分の触った部分だけから象の全体像を想像し、いろいろ見当違いな意見を述べること。凡人というものは大人物や大事業の一部しか見ることができず、なかなか全体の理解は望めないということのたとえ。失明した人には全体はつかめないといった障害者観が背後に見える。「群盲、象を模す〈評す〉」とも。

(『新編 故事ことわざ事典』より引用)

 つまり、「群盲象を評す」ということわざ自身に、すでに視覚障害者に対する差別性が内包されているということだ。「発達障害」について、また、その差別すべかざることを説くこの書に、ふさわしい表現とは思えない。

②宮地健次郎訳『マッカーシズム』(岩波文庫、1984年)
 R.H.ロービアが1959年にアメリカで出版した本の翻訳版。「マッカーシズムとは煽動的政治家にすぎない」ことを徹底的に暴露した古典的名著。

 その一文(79〜80ページ)に次のような表現がある。

――、みんなが公聴会室から出て来たマッカーシーを避け、まるでレプラの患者が通るかのように(不潔、不潔!)通り路をあけたことにかれはとまどった。

 ここは、「Lepra」と原著にあった文をそのまま「レプラ」とカタカナ表記にしたのだろうが、「レプラ」はハンセン病患者・回復者に対する蔑称であり、極めて稚拙な翻訳といわねばならない。

 この場合、「Lepra」を「レプラ(ハンセン病患者に対する蔑称)」と表記した上で、「この表現は、ハンセン病患者に対する社会的偏見が色濃く残っていた当時の情況を背景に語られた、差別的な表現である」などの注釈をいれるべきだろう。

 すでに「世界ハンセン病患者・回復者」の集まりで、この「Lepra」、つまり「レプラ」「レプラシー」は、「不治の病」(日本では「業病」)というイメージをもって呼称されてきた歴史があり、正確な医学用語ではないと批判を受けており、使用する場合は、その意図と理由を明確にする必要がある。

③『古事記伝』(倉野憲司校注、岩波文庫、2007年改訂版発行)
 『古事記』が書かれて1300年ということで、近年、さまざまな解説本が出版されているが、この本は、その原書ともいうべきもの。

 その“中つ巻”の「垂仁天皇」項③「本牟智和気王(ホムチワケノミコ)」に、「跛盲(あしなへめしい)遇(あ)はむ」という言葉が原文に出てくる。この注釈を「イザリやメクラに逢って不吉である」としている
が、いかがなものかと思う。

 同じ箇所を講談社学術文庫(1980年初版)では、どのように書かれているかを見ると、次田真幸の解説で、「跛;足が不自由で、歩行の困難な人。不具者に出会うのは不吉なこととされた」とある。

 「不具者」は余分だが、岩波版よりはましだ。岩波書店は、古典の名著を数多く出版しているが、障害者差別に関わる表現があまりにも多すぎる。全面的な見直しをすべきだろう。

 今回取り上げたような古典的なことわざや比喩表現等は、その言葉が生まれた時代の障害者観をうかがい知ることができる。このような表現をいま使うときは、そうした背景にも思いが至るような注釈が必要だ。障害者が生きていくうえで出会う差別や偏見などは、障害をもつ個人に帰せられる問題ではなく、障害のない人にあわせてつくられた社会環境や社会制度に、言い換えるなら健常者中心に構成された社会の側にこそ、障害者差別の核心があるということを、いま一度考える必要があるだろう。

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