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第39回 橋下徹バッシング報道から再び部落差別を考える(8)

 一連の橋下徹報道について集中連載を行ってきたが、今回でいよいよ最終回になる。まとめとして、いま一度、差別表現を野放しにすることの問題点を指摘したい。

■被差別は免罪符にならない
 8回にわたって『週刊新潮』『週刊文春』両誌(11月3日号)の差別的記事内容を検証してきたが、事がこんなに大きくなる前の段階、つまり『新潮45』(11月号 「最も危険な政治家」橋下徹研究 「孤独なポピュリストの原点」)が出た段階で、上原善広の文書の差別性について、解放同盟なりがきちんとした批判を行っていなかったところに、大きな問題があると言える。

 また、出版社側も「大宅賞作家」でもあり、「被差別部落出身者」を公言している上原が書いた文章だから、少々差別的であっても大丈夫だろうと、たかをくくって誌面化したのだろう。

 上原は、かつて『ナックルズ』という雑誌に、「被差別部落を一般地域より近親相姦が多く、気味の悪い猟奇的地域」として描き、部落解放同盟の中央執行委員会で抗議と糾弾を行うことが決まったことがある。さらに、『噂の真相』(2004年3月号)では「最後のタブー『部落出身芸能人』」と題した暴露的差別記事を執筆している。

 過去にしっかりと糾弾を行っていなかったことが、結果として彼を増長させ、今回のような事件を引き起こすことになったと言える。

 上原はある本の中で、差別語や差別表現について、

<自主規制については理解できないこともないが、やはり行き過ぎの観は否めない。おしという言葉そのものは差別語でもなんでもなく、ただその状態について客観的に表現したものである。もしそこに差別が含まれているとしたら、それはその人が侮蔑をもって使ったときだけである。>
と書き、「つんぼ」「めくら」についても、同様の考えを披歴した上で、
<私は自分が「穢多の上原」「チョーリッポウの上原」と呼ばれることを諒としたい。なぜなら水平社宣言にある「エタである事を誇り得る時が来たのだ」という言葉を体現したいと思うからである。>

と、一知半解なことを臆面もなく述べている。

 「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。」は、その前の文にある「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、そのを祝福される時が来たのだ。」に対応しており、「エタであることを誇」ることと、「エタ(穢多)」という言葉の持つ忌まわしい差別性とは、全く別の事柄である。

 なぜ全国水平社創立大会が、その第一項において

『一、吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示した時は徹底的糾弾を為す。』

(全国水平社創立大会決議 第一項)

と決議したのか、彼には理解できていない。水平社宣言をもう一度じっくり読んでみよ。部落差別は、まず「言行」(言動)によって行われ、それに対する抗議から水平社の運動ははじまった。「エタであることを誇る」とは、歴史的に負のイメージを付与された「穢多」という呼称に対して、それを逆照射し、とらえかえそうとする被差別マイノリティーの矜持なのだ。

 同様のことは、500万部を超えるベストセラー『五体不満足』の著者・乙武洋匡氏についても言える。乙武氏は、<なぜ僕は自分を「カタワ」と呼ぶのか>と題した一文を、『週刊新潮』(2011年9月1日号)に寄稿している。

乙武氏は書いている。

<みんな障害がある人に対して差別意識を持っている以上、どんな言葉を使っても“差別語”と言われます。字面を変えても本質を変えなければ意味がない。そう訴えたくて、あえてカタワのような強い言葉を使うのです。>

 確かに「字面」(言葉)を言い換えても、差別的現状や差別意識が変わったことにならないのは当然だ。しかし、新しい積極的な言葉で差別的な現状を表現することは、差別の現実を逆照射し、変革の大きな契機になることを、乙武氏は歴史から学んでいない。言葉には力がある。

 「乞食」「ルンペン」を「路上生活者」「ホームレス」、「穢多」、「特殊部落」を「被圧迫部落」、「未解放部落」から「被差別部落」、「癩病」から「ハンセン病」と当事者自身の意思と力によって言い換えてきた歴史に意味がないとする彼の主張は、あまりにも幼過ぎる。「通信傍受法」の本質を「盗聴法」と見抜き、「中国残留孤児」を「中国置去り日本人孤児」と表現することは、決して意味のないことではない。

 それともう一つ、<僕は35年生きて、差別や偏見を感じたことが一度もありません>と乙武氏は述べている。それについては、良い環境・良い人々に恵まれた人生で良かったとしか言いようがないが、決して普遍化できる個人的体験ではない。

 被差別マイノリティーの当事者性を持って語ることには好感を覚えるが、普遍性を持たない主張に社会的支持は得られないだろう。上原と乙武氏の、恵まれた被差別マイノリティーの甘さが、それ故に差別社会と差別に無自覚なジャーナリズムに受け入れられているに過ぎない。第18回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」に『新潮45』に掲載された「『最も危険な政治家』橋下徹研究 孤独なポピュリストの原点」が選ばれたことも、その証左と言えるのではないだろうか。差別の現実に深く学ぶ必要がある。


■週刊誌ジャーナリズムの矜持
 最後に、今回の事件の中で際立った出来事は、『週刊誌』を他の『週刊誌』が厳しく批判したという前代未聞の事態である。出版・人権差別問題懇談会を20年以上継続してきたひとつの成果として素直に評価したい。

 被差別マイノリティーの団体から、抗議が行なわれるかどうかに関係なく、部落差別許すまじとする観点から、敢然と『週刊新潮』『週刊文春』の両誌を同じ週刊誌が批判したことは、言論の自由を守る週刊誌ジャーナリズムの健全さと、矜持を見た思いがする。

 運動団体の介入なしに、週刊誌ジャーナリズム同士が相互批判を行うことは、差別撤廃と人権確立への大きな力となるだろう。

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