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第98回 憲法学界の人権感覚の希薄さ
■空気のように刷り込まれた差別意識
 過日、東京近郊で行った“人権講演”の参加者からの感想文を、担当の方からいただいた。ヘイトスピーチをめぐる問題について、法的規制も含め話をしたのだが、感想文の多くは、自己の内面に刷り込まれた差別意識を自覚することの重要性を筆者が述べたことに対し、強い感心が寄せられていた。教育現場での「いじめ」や、なにげなく、ふとしたときに発せられる差別語や不快語にどう対処するのか苦慮している姿が、感想文から読みとれる。
 差別語や不快語が発せられるとき、発話者は、たとえ小学生であったとしても、すでに、その言葉の持つ社会的意味を、ある程度理解した上での発言であることはまちがいない。
 子どもたちが、どこで、どのようにして、そのような差別語や不快語を身につけたのかは判然としないのだろうが、家庭で、地域で、学校で、社会意識として刷り込まれたのであろうことは、想像に難くない。つねづね語ってきていることだが、差別観念や嫌悪感は、当人が意識しようがしまいが、空気を吸うように刷り込まれるのである。
 筆者が例としてあげたのは、屠場および屠場労働に関わる差別表現だ。戦死者が横たわる凄惨な戦場の光景を、「まるで屠殺場のようだ」(最近は、“屠殺場”は差別語だから、“屠畜場”としている例があるが、単なる言葉の言い替えで、表現の差別性には、なんの違いもない)とか、「まるで屠殺人のような目付きをしている」などと比喩する表現事例が多いのだが、そうした発言者、執筆者の誰一人として、実際の「屠畜場」を見たこともなければ、「屠場労働者」と話したこともないことが、屠場労組と一緒に抗議・糾弾したときに、判明している。
 では、なぜ見たこともないのに、比喩的表現として、「屠畜場」や「屠場労働者」をマイナスイメージのステレオタイプで話し、書くのであろうか。
 ここに、無意識に刷り込まれた、社会的な差別観念、嫌悪感を、見ないわけにはいかない。
 この点については、拙著『差別語・不快語』のなかで、次のように述べてきた。
〈差別意識をもたない人はいません。差別意識をもっていることよりも、差別意識をもっていることを“自覚”しないことの方が、より大きな問題です。〉
(『差別語・不快語』)
 つまり、自己の内なる社会的に刷り込まれた差別意識を自覚することの大切さを指摘したいのである。
 否定的なものの比喩的表現に使用される言葉の多くが、社会的マイノリティや社会的弱者であることは、論をまたない。なぜ、その比喩に思い至ったのかを自省するところから、内なる差別意識と向き合う必要がある。

■ドイツ人研究者から見た日本の現状
 先に述べた講演会参加者のなかには、一方で、「在特会」などの、ヘイトスピーチ活動の激化について、まったく知らない聴講者もいたし、テレビで見たことはあるが、その背景については、よく知らないという参加者もいたことに少し驚いた。この問題について、もっとさまざまなところで取り上げる必要性を感じたが、マスコミの果す役割の大きさを、改めて強調しておきたい。
 7月18日『朝日新聞』朝刊に「ドイツが心配するニッポン」と題した記事が載っている。そこには、こう書かれている。
 日本政治を追うクリス・ウィンクラー研究員は、在日韓国・朝鮮人らに「ぶっ殺せ」などとヘイトスピーチを浴びせるデモの広がりが気がかりでならない。
「多民族を侮辱し、その存在を否定するヘイトスピーチが、日本ではなぜ許されているのだろう」
 ドイツ刑法には「民衆煽動罪」という条項があり、左右両極の暴力的な政治運動や過激な表現を規制している。ユダヤ人を大量虐殺し、ドイツを破滅に追い込んだナチス独裁への反省からだ。
 法的規制がほとんどない日本の現状が、不思議でならないらしい。
(『朝日新聞』2013年7月18日)
 このドイツ人研究員の人権感覚は、フランスやイギリスを始めEU諸国に共通のものである。1948年に発せられた世界人権宣言の精神を具体化した欧州人権条約、国際人権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約、障害者の権利宣言など、あまたの人権条約が発効されている。(日本国憲法も、この国際的な人権条約の流れのなかで生まれたもので、たんに進駐軍のマッカーサーから押し付けられた「占領憲法」ではない。)

■ヘイトスピーチの法的規制
 さらにこの連載でくり返し述べてきた、日本の憲法学界の人権意識の希薄さについても、もう一度述べておきたい。その根源のひとつに、世界人権宣言に対する無視ないし軽視がある。この1948年12月10日に国際連合第三回総会で採択された世界人権宣言は、56加盟国(当時)のうち、48カ国が決議に賛成し、8カ国が棄権した。この棄権した8カ国とは、社会主義国6カ国(ソ連、白ロシア、ウクライナ、チェコスロバキア、ポーランド、ユーゴスラビア)と「サウジ家の国」であるサウジアラビア、アパルトヘイトを国是としていた南アフリカ連邦である。
 後者2国の棄権理由は、その是非は別にして、ある意味で理解できる。しかし、社会主義国が反対した理由は、あきらかにされていないが、「人権」という言葉に超階級的プチブルジョア概念を読み取ってのことと推察できる。
 戦後初期、日本の学術学界を席巻したマルクス主義イデオロギーは、人権宣言の採択を棄権した社会主義国と同様の思考で、この「世界人権宣言」を階級対立をあいまいにするブルジョア思想ととらえたとしても、不思議ではない。事実、日本共産党は、国際人権規約や人種差別撤廃条約の批准闘争に極めて消極的対応しかしてこなかった。
 戦後初期の憲法学界が、マルクス主義一色だったといっているわけではない。「人権」という言葉の持つ普遍的な概念を理解できなかったでのはないかと思っているのである。欧米先進国に比べ、日本の人権意識の遅れの原因のひとつとして、学界の人権意識の低さを問題にしているのである。
 前述のドイツ人研究者の言うとおり、「法的規制がほとんどない日本の現状」は、世界的に見て遅れているといわざるを得ない。「人権赤字国」と諸外国から言われているゆえんである。
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