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第15回 「女々しい奴は…」への投稿
 今週は前回連載への読者からの投稿を掲載します。

 前号で、連載筆者は、「女々しい…」表現をめぐって、佐賀県・古川知事が“お気に入り”登録していたツイッターの“つぶやき”と、溝口敦氏の著書『暴力団』中の文章を掲げ、二例を比較してどう思うかと読者に問うた。

 前者は、<そんな女々しい奴は豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ> との書き込みであり、筆者は女性差別表現であるとして批判している。確かに、いくら他者による差別表現であっても、公職にある人物が、それを「お気に入り」に登録すること自体、それを肯定していると見なされても仕方がない。

 一方、溝口氏は、<暴力団をよく知る人は彼らを「女々しい性格」と言います〉として、<これは女性に対して申し訳ない表現なのですが> と断わっている。続いて、〈人との関係を排他独占的に所有できると考え、私物視する人柄はおよそさばさばしていません。すっぱり竹を割ったような気性とは無縁です> と、暴力団員の性格を述べている(前号参照)。

 さて、この「女々しい」という言葉をめぐる溝口氏の用い方は、古川氏がお気に入り登録した差別表現と違いがあるか、という問いであった。私(投稿者)は、違いはある、しかし、引っかかると答えたい。溝口氏は、暴力団員は、男っぽい人たちという世間のイメージとは違い、実は狭量でネチネチした我欲の強い性格と評しており、そのことをよく知るある人は<「女々しい性格」であると言っている> と書く。

 結論から述べれば、この文章は差別表現ではない。なぜなら、「女々しい」を無自覚に使用(引用)していないからである。「女々しい」は、「お前は女のように価値のない男だ」の比喩であり差別表現であると連載筆者はいう。イエス。「女々しい」は相手の男を貶める場合に使われる。「女は一人前ではない」「女は勇気がない」との前提でこの言葉が用いられるからこそ、そう言われた男は自分が否定され、(女のように)低められたと感じる。

 つまりは、女性差別を引きずった言葉であることを溝口氏も理解しているからこそ、「女性には申し訳ない言葉」と断わっているのであり、無自覚に“お気に入り”に入れる古川知事の鈍感さと比較すると、溝口氏は自覚的にこの言葉を扱っている。その点では大きな違いがあるだろう。

 ところで、私が引っかかったのはこの後半である。溝口氏は「女々しい」という言葉を自身で使うのにはためらいを感じるものの、〈人との関係を排他独占的に所有できると考え、私物視する人柄はおよそさばさばしていません。すっぱり竹を割ったような気性とは無縁〉と評し、そんな彼らをある人は「女々しい」と言う――としている。誤解してほしくないのだが、私は「女々しい」という言葉を、いつ、どんな場合においても使ってはイカンというのではない。溝口氏が、「男っぽい」とはかけ離れた暴力団員の考え方を表現するのに、溝口氏自身が使わないにせよ、ある人が言った「女々しい」という表現を引いて、説明を重ねれば、「つまりは何々のようだ」と比喩するのとたいした違いはないと思うのである。

 権力者や卑怯な人間を批判するために、女をマイナス要素で使っているとしたら、やはり怒る人はいるだろう。私が「引っかかる」と感ずるのはここだ。

 ステレオタイプな男性像、女性像を想定した物言いは、「人の勝手」であり、それについては「ああ、そうですか」というよりない。しかし、それを差別表現問題の中で取り上げ、「一流の含意ある表現」(前号掲載)とする場合は別だ。ずいぶん、一面的に、男の目でしかものを見ておられないと感じるのは、私(投稿者)だけだろうか。
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