(写真は『広島の部落解放運動 県水平社創立一〇〇年』より)
〔前回までのふり返り〕
水平社青年たちの部落差別に対する抗議は、「差別をなくせ」というだけでなく、差別の責任を国家に求め、社会変革と「人間の解放」を訴えるものでした。
そのような水平社運動の思想とエネルギーを恐れ、国家体制の転覆につながりかねないとみた政府は、水平社運動に対抗する融和運動に着手しました。
融和運動は、差別の責任の所在を部落大衆側にもとめ、行政や警察と密接につながり、被差別部落を組織していこうとしました。
広島では、融和運動組織として「共鳴会」が設立され、広島県水平社の運動を抑えようとします。
◆今回までの目次は下記の通りです。
?はじめに
?水平社結成前史
1.近代と被差別部落
2.国家と被差別部落
3国家による包摂 (1)産業と被差別部落 (2)戸籍と被差別部落
4資本と被差別部落の再構築
5.近代被差別部落の構造変化と生活
6..米騒動
? 部落改善から融和運動へ
1.部落改善運動
2. 福島町一致協会の設立
? 水平社の時代へ
1.躍進青年団と水平社の結成
2. 広島県水平社結成へ
3. 広島県水平社の差別糾弾闘争
4. 広島県共鳴会による懐柔・融和主義
▼山本政夫と共鳴会
ここで、山本政夫と「広島県共鳴会」について述べておく必要があるでしょう。
米騒動の後、危機感を強めた政府は、同情融和策を展開します。
1919年、第一回同情融和大会を開催し、全国的な部落対策のテコ入れをおこないます。
その方針のもと、1921年、融和運動団体として共鳴会が結成されました。水平社運動に共感を抱いていた青年・山本政夫を広島県嘱託にとりこんで、共鳴会の日常活動に従事させました。
1898年、広島の島嶼部の被差別部落に生まれた山本は、大正・昭和の融和運動家です。同和行政にも多大な影響を与えています。
山本の実家は網元をいとなむ裕福な家で、政夫は大学に進学、その後、広島県嘱託として「共鳴会」にかかわるようになります。
優秀な人材と見込まれ、政府からヘッドハンティングされた山本は、1926年、有馬頼寧に招かれて上京、
山本政夫は、中央融和事業協会のキーパーソンとなっていきます。
中央融和事業協会は、従来からあった部落改善団体や融和運動を統合して、内務省が設立しました(1925年)。
会長は平沼騏一郎〔ひらぬま きいちろう〕。
融和事業協会は、満洲移民、戦争に被差別部落を動員しました。
先回りして言うと、山本の「被差別部落民としての内部自覚運動」はやがて翼賛会にいきつき、侵略と戦争の道を突き進んでいきます。
山本は「内部自覚運動」を提唱、「部落民は陛下の臣民としての自覚を一般以上に持たねばならない」とかんがえていました。
「自覚論」によって、陛下の臣民としての自覚を一般以上に持ち、国家への忠義をつくすよう求めた山本は、被差別部落コミュニティに強くはたらきかけ、部落大衆を戦地に送り出す戦争動員の役割をはたします。
被差別部落の各コミュニティを戦争に動員するオルガナイザーとして活動したのが、山本であり、私は、彼こそが、被差別部落大衆をファシズムに導いた重要人物のひとりだったと考えています。
融和事業協会を去った後も、山本政夫は大和報国運動などのオルガナイザーとして、被差別部落大衆を大政翼賛会へと先導しました。
山本は敗戦後も影響力をもち、政府の同和対策審議会委員になります。
▼共鳴会と部落改善団体のちがい
それまでの広島県における部落改善団体と共鳴会の異なる点は、共鳴会が全県を網羅する組織をめざしたこと、そして融和運動の全国的ネットワークに組み込まれたことでした。
1931年、広島共鳴会は、正式に官民合同機関となり、被差別部落大衆が「みずからの内部から自覚して」(山本の内部自覚運動)、戦地動員、部落改善を実現させる役割を担います。
そして、共鳴会もまた差別事件に関与し、水平社の差別に対する抗議闘争への対抗勢力として立ちはだかったことを指摘せざるをえません。
ただし、気をつけなければならないのは、このような運動しかない地域の被差別部落では、それでもそれらの融和団体に頼らざるをえないほど、部落差別の状況は厳しかったということです。
(以下次号 8月25日)
*中央融和事業協会 1925年、従来からあった部落改善運動や融和運動を統合して、内務省が設立。会長は平沼騏一郎。満洲移民、戦争に被差別部落民を動員した。広島県共鳴会は融和事業委員会として名称変更される。
*にんげん出版編集部より
この連載は『部落解放ひろしま 特集 広島県水平社100年を迎えて』への小早川明良氏の寄稿をダイジェストしてお送りしています。転載を快諾して下さった編集部と著者に厚く御礼を申し上げます。
*小早川明良(こばやかわ・あきら)
広島県在住。特定非営利法人社会理論・動態研究所理事。「ひろしま 部落解放研究」編集長。
著書に『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』
編著に『広島県地域の部落史・部落解放運動史年表草稿』など多数。
]]>
近代被差別部落と広島県水平社の100年 その 6
前回は、米騒動を体制を揺るがす危機とみた政府が、米騒動に10万の軍隊を差し向け、全国的に部落改善運動に着手したことを紹介しました。
1900年代初頭から1920年にかけての部落改善運動は、ひとことでいえば、社会主義思想の広まりや反政府運動を恐れた政府の部落対策でした。
「部落改善団体」の設立には警察や行政が多く関与しました。しかし、これらの部落改善団体の中からそのあり方に矛盾を抱き、水平社を創立し、部落差別と闘う青年たちを生みだしたことも事実でした。
前回紹介した福島町一致協会の青年たちは、やがて広島県水平社をうみだす核となっていきます。
◆今回までの目次は下記の通りです。
?はじめに
?水平社結成前史
1.近代と被差別部落
2.国家と被差別部落
3国家による包摂
(1)産業と被差別部落 (2)戸籍と被差別部落
4資本と被差別部落の再構築
5.近代被差別部落の構造変化と生活
6..米騒動
? 部落改善から融和運動へ
1.部落改善運動
2. 福島町一致協会の設立
? 水平社の時代へ
1.躍進青年団と水平社の結成
2. 広島県水平社結成へ
3. 広島県水平社の差別糾弾闘争
1.躍進青年団と水平社の結成
しかし、福島町一致協会はみずからを乗り越える青年たちを生みだしたという意味で、ひじょうに大きい意義をもつ組織です。
一致協会では青年会が結成され、地域改善運動や祭礼・スポーツ大会に取り組んでいました。この青年会の矛盾を見抜く階層が、青年会の中から出現します。
中心になった青年は、妙蓮寺住職4男・照山正巳をはじめ高橋貞雄・高原秀行・中野繁一・桝井寛一。
彼らのもとに集った被差別部落青年たちは、1921年、桝井寛一を団長に躍進青年団を結成しました。
自分たちがうける差別と町民の貧窮は、社会経済のしくみの結果であると考えたかれらの活動は、福島町の青年を全国水平社創立の運動へと向かわせます。
一般的に、躍進青年団が生まれ、行動した背景には、1917年のロシア革命とその影響をうけ高揚する労働運動・農民運動があったといわれています。
しかし私(小早川)は、彼ら自身の内発的な要因に、より注目すべきだと思います。
部落差別と社会の矛盾をみずからの目で確かめ、批判し、行動することを自分たちの生活の中からつかんだのです。
2. 広島県水平社結成へ
躍進青年団の青年たちが全国水平社の結成を知ったのは1922年12月、雑誌『前衛』によってでした。
高橋貞雄から聞いた照山は、全水本部を訪れ、委員長の南梅吉らと部落問題を議論します。
1923年3月、照山は全水第二回大会に参加、広島に帰った照山たちはただちに広島県水平社創立にむけて行動を起こします。
その様子を権力は監視していました。広島県地裁裁判所検事局に記録があります。
3. 広島県水平社の差別糾弾闘争
水平社運動の特徴は、差別糾弾闘争にあります。
それはみずからの価値を自覚して他者の力を頼まずに差別事件を解決するものです。
糾弾闘争の一部を紹介します。当時の糾弾闘争を理解できるでしょう。
1924年、豊田郡の村で盆踊りに加わろうとした部落大衆を漁民が妨害する差別事件が起きました。
村人側がかたくなに参加を認めないためについに乱闘となってしまいました。
村当局・郡事務所・共鳴会(★広島の融和運動団体/次回説明します)の調停で覚書を交換し、表面上はとりつくろったのでした。
これに対し県水平社は、桝井委員長みずから現地でそのことを批判し、根本的解決を訴えています。
▼被差別部落襲撃—―江田島で起きた事件(切串事件)
1927年には江田島で一般民衆400名が被差別部落を襲う事件が起きました。
たきぎ泥棒の犯人という濡れ衣を着せられた部落住民の一人が、差別者を厳しく糾弾、暴力をふるったことに腹を立てた一般民衆が被差別部落を襲撃した事件です。
この事件には背景がありました。1924年の盆踊りの中で起きた差別事件にたいし呉水平社が糾弾、謝罪広告を出させたことを根に持って、報復的に襲撃したのでした。
江田島で一般民衆400名が被差別部落を襲撃する大事件が起きたにもかかわらず、その一報が広島県水平社に届いたのは、事件発生から2か月後でした。
官憲が県水平社の介入を恐れて、通信機関をコントロールして情報を遮断しています。被害者の被差別部落を孤立させたのです。
江田島の被差別部落の人びとも島民からのさらなる報復を恐れて沈黙したのでした。
広島県水平社は、差別糾弾闘争を通じて県内各地に組織を確立していきました。
賀茂水平社、甘日市水平社をはじめ、佐伯郡水平社、安芸郡水平社、府中水平社、福山水平社などの組織名が記録されています。
これに対して官憲は県水平社の幹部を検挙して、厳しく弾圧しました。
広島県水平社を国家の根幹を揺るがす存在であると認識したからです。
もちろん、それに屈せず水平社は運動を拡大しようと努力をかさねます。
(次号に続く)
*にんげん出版編集部より
この連載は『部落解放ひろしま 特集 広島県水平社100年を迎えて』への小早川明良氏の寄稿をダイジェストしてお送りしています。転載を快諾して下さった編集部と著者に厚く御礼を申し上げます。
*小早川明良(こばやかわ・あきら)
広島県在住。特定非営利法人社会理論・動態研究所理事。「ひろしま 部落解放研究」編集長。
著書に『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』
編著に『広島県地域の部落史・部落解放運動史年表草稿』など多数。
]]>近代被差別部落と広島県水平社の100年 その5
◆前回までのふりかえり
急速に進められる日本の近代化のなかで、労働者の劣悪な労働条件と低賃金にともなう生活問題、農村の窮乏など、近代特有の諸問題が噴出していきます。
日清、日露戦争、植民地獲得競争にのりだした日本ですが、1900年から1920年代の国内は、財政破綻の危機に直面し、国民の困窮は深まっていました。
被差別部落では、貧困の解消や生活環境の改善を訴える動きが出てきました。
米騒動は、不満の顕著なあらわれであったといえます。
政府は、米騒動を鎮静化するため、被差別部落大衆を「主犯」とみなして部落からの米騒動決起者にはより重罪を科し、「部落は怖い」という言説を、メディアに流布させていきます。
体制の危機をつのらせた政府は、米騒動の翌年、内務省主催で、細民協議会第二回を開きます。(細民協議会・第一回は1902年)
1907年、三重県につくられた部落改善団体が最初で、その後、福島町一致協会(広島)、備作平民会(岡山)、柳原町進取会(京都)、大和同志会(奈良)などが設立されていきます。
◆今回までの目次は下記の通りです。
?はじめに
?水平社結成前史
1.近代と被差別部落
2.国家と被差別部落
3国家による包摂 (1)産業と被差別部落 (2)戸籍と被差別部落
4資本と被差別部落の再構築
5.近代被差別部落の構造変化と生活
6..米騒動
? 部落改善から融和運動へ
1.部落改善運動
2. 福島町一致協会の設立
?. 部落改善から融和運動へ
1900年から1920年代にかけて被差別部落に大きな変化があったことは、これまでみてきた通りです。
この時期、国内では財政破綻の危機に直面し、国民の困窮も深まっていました。被差別部落の惨状を体制の危機とみなした政府は、全国的に「部落改善運動」に着手します。
部落改善運動は、一言でいえば、社会主義思想の広まりや反政府運動をおそれた政府による部落対策
でした。
1907年、三重県につくられた部落改善団体が最初で、その後、福島町一致協会(広島)、備作平民会(岡山)、柳原町進取会(京都)、大和同志会(奈良)などが設立されていきます。
備作平民会(1902年岡山)は、三好伊平次が「鬱屈」した部落民の精神構造を改革し教育殖産の奨励によって自主自立をめざす運動でした。
奈良の松井庄五郎ら8人の有志が創立した大和同志会(1912年・奈良)は、全国水平社の核となりました。部落内では富裕層が明治天皇への報恩を広めようと運動し、部落外に対しては差別観念の払拭を訴える運動でした。
また明石民蔵らが起こした柳原銀行(1899年・京都)は、地元有志から資本をつのって自力で経済の立て直しをはかったという意味で一つの運動だと思います。
じつは部落改善団体は、警察や行政の主導で組織されたケースも少なくありませんでした。だから改善団体には意味がないというのではありません。体制を揺るがす危機感を政府が抱いた結果として組織されていった部落改善団体は、その中から水平社の運動を生み出したからです。
全国水平社の核となったのは大和同志会です。広島にあった福島町一致協会は、それに参加していた青年層の革命的なエネルギーを育み、広島県水平社の設立につながりました。
それらはまた部落内資本家との闘争でもあった側面に目をむけてほしいと思います。
話を戻しましょう。
部落改善運動は、一般農村対策を対象にスタートした地方改良運動(勤勉・忍耐・倹約貯金を奨励)とは別枠でおこなわれました。
両者には決定的なちがいがありました。
地方改良運動が、町村長や小学校長が責任者だったのに対して、部落改善運動は、その維持運営に警察が重要な役割をはたしたことです。
それは、部落改善運動の第一の目的が治安対策にあったことをしめしています。
部落改善運動を一般市民対策と別枠としたのは、運動をコミュニティごとに細分化するねらいです。
それが権力の統治技術です。
被差別部落民の「大衆的な圧力」を警戒し、パワーを巧みに吸収する手法に注目すべきだと思っています。
この傾向は、米騒動を制圧するさいにますます顕著となっていきました。警察署長が被差別部落代表と話し合う機会や、教育者・宗教者らと「部落改善」を協議する機会も増えていったのです。
部落改善団体には奨励金が出されます。
広島県では米騒動のあとに地方改善協議会を開催しました。帝国公道会の大江卓や大木達吉などが広島に来県し、広島県内の被差別部落の中心的な人物を集めて単一の融和団体を組織しようとしました。
この方針は実現しませんでしたが、警察は部落の有力者とつながり、警察による部落改善団体の組織化はさらに進んでいきます。
広島県では、県内472の被差別部落のうち、すくなくとも50の被差別部落で「改善運動」の組織がつくられています。
(*『広島県部落状況』1913年/1920年版参照)
広島県の水平社設立を考えるうえで無視できない運動体が、部落改善団体の福島町一致協会です。
「心を一つに取り纏めて」との意味を込めた命名でした。
福島町一致協会は『天鼓』という機関紙を発行していました。4号まで残っています。
この機関紙には差別や平等の一般論に言及してはいるものの、部落差別撤廃について論じた記事はほぼ皆無です。
一致協会は夜学校を建設し、授産所を設立するなど、教育にも熱心でした。
警察とともに「部落改善事業に着手」します。
それは「勤勉」「倹約貯蓄」「矯風(悪い習慣をあらためる)」「犯罪撲滅」といった通俗道徳をさかんに鼓吹して住民を〈訓育〉しようとするものでした。
被差別部落内では富裕層と労働者層に階層分化していました。
町内の富裕層は、おなじ町内に暮らす労働者層をどのように見ていたでしょうか。
町内の資産家・中野文助が『明治之光』に投稿した文章があります。
「福島町は細民の巣窟で殊に貧富の懸隔(格差)は伸々非道いのです。10名内外は豪商でありまして、4.5万のもとより数十万の財産をもって居りますが、貧民と来てはほとんど全部で、何とも仕方ありません。まずその日暮らしでしょう……」
これには、町内の労働者もだまっていませんでした。(次号につづく)
]]>近代被差別部落と広島県水平社の100年 その4
◆ふり返り〜現代社会に部落差別が存在する理由が解けないのはなぜ?
1922年、全国水平社が結成され、以降各地に水平社が結成されていきました。
広島県水平社は1923年に創立され、今年で100年にあたります。
明治以降、諸階層の人々が仕事をもとめて流入した旧賤民居住地は、人口数倍に膨張、面積も周辺に拡大し、近代被差別部落として成立していきます。
近代・現代の部落差別は、徳川時代の賤民身分に対する差別がたんに持続しているのではなく、残存しているのでもありません。まして中世賤民への卑賤視がつづいているのでもありません。
現代の部落差別は、徳川時代の賤民身分差別とダイレクトにつながっていません。
「近世の封建的身分差別が残っている」という人も、「中世の穢れ意識が賤民を生みだした」とする人も、明治以降の産業資本主義が進展する中で被差別部落が編制されたプロセスをみていません。
「近世だ」「いや中世だ」といった部落史論争のはてに、近世に起源をもつ部落(*近世に起源をもたず近代に形成された被差別部落もある)が、明治以降の産業社会のなかで組み替えられ、近現代の日本社会で新たな機能をはたすようになったプロセスが置き忘れ去られ、議論されないままです。
それが、現代の日本社会に部落差別が存在する意味が解けない理由です。
前回、近世初期の革田(かわた)集団の拠点が中国地方最大の近代被差別部落となった広島県A町をみました。
明治期に、広島近郊の農村や漁村、小さな町などから、まず貧しい人たちが広島に入ってきました。
その一部がA町に入りました。人口が膨脹していき、いろんな下層の仕事が現われ、それらの仕事にA町の人たちが就いていきました。
以下は今回までの目次です。
?はじめに
?水平社結成前史
1.近代と被差別部落
2.国家と被差別部落
3国家による包摂 (1)産業と被差別部落 (2)戸籍と被差別部落
4資本と被差別部落の再構築
5.近代被差別部落の生活と階級分化
6.米騒動
5. 近代被差別部落の生活と構造変化
▼都市被差別部落の特徴ーー広島県A町
明治期から昭和にかけての都市部の被差別部落のようすを広島県A町でみることにしましょう。
前回も述べましたが、中国地方最大といわれるA町の人口は、明治初め1871年で889人から戦争期の1933年には9,000人と10倍に膨れ上がっています。
原爆が落とされる直前の1945年には6037人となっています。つまりA町の人口は、明治初期から昭和の前半期のあいだに、6〜7倍も膨れ上がったということです。
これは近代の都市部落の、全国的にみられる特徴のひとつです。大都市の大阪では、万を超す人口を抱える被差別部落があります。
近代の都市被差別部落のもうひとつの特徴は、祖父母より上の世代の出身地を知らない人が多くいることです。さまざまなデータからみて、A町の半数以上(3分の2とする見方も可能)が外部から流入してきた人びとであるといえます。
(1) 軍都広島で必要とされた大量の労働力
明治半ばに陸軍第5師団がおかれ、大本営も移された広島では、市内の4割を軍が接収しました。ですから広島の都市計画は、軍部主導で行なわれていきます。その結果、とくに上下水道、電気、道路、線路、港湾(宇品港開発)などのインフラ整備は、日本の都市でも早い時期に工事が着手され、完成されています。(都市計画の決定は当然軍部でした。)
A町に集まってきた人びとも、軍都広島を形成するなかで生み出された土方の仕事をはじめ、いろんな職業に就いてなりわいを立てていました。これは広島だけでなく、日本の近代都市の形成そのものが、このような労働力によって根幹を支えられてきたということです。そしてまた、被差別部落がその重要な一角を担ってきたということに注意してほしいと思います。
(2)屠畜とA町
「屠畜・皮革・靴のまち」としてイメージされることの多いA町ですが、実態は大きく異なっていました。
A町の屠畜場は広島県の政策で設置されました。他の屠畜場を統合するかたちです(1903年)。
広島市内にはもう一つ大きな屠畜場があり、それは陸軍が消費するための工場でした。
そこで生産された食肉のほとんどは、市内の缶詰工場120社で牛肉缶詰となりました。
牛肉缶詰は兵士の食糧でした。
「屠畜や皮革は被差別部落のシンボリックな仕事」とみる向きは少なくありませんが、食肉や皮革にかかわる仕事を「部落産業」と呼んでいいのかどうか。牛肉缶詰にしても、軍靴や軍装用の皮革製品にしても、軍需に依存するところが大きかったのです。
ちなみに製靴は、敗戦後1960年代になると大資本の靴メーカーによって急速に系列化・吸収され、A 町には靴職人はたくさんいたのですが、2001年には最後の職人が廃業されました。
話を大正・昭和期のA町に戻します。
軍需との関係で、食肉や皮革の仕事が繁盛し、そのなかでA町に財を築く人が現われていきます。被差別部落の中に階層分化が生じていきます。
A町の屠畜精肉業事業主の場合、2社は豪商、ほか30社は不安定な事業主、そして大量の低賃金労働者で構成されています。
屠畜の副産物には骨・油脂・血液がありますが、それらは化成製品の原料(生産手段)で、被差別部落にはそれを生産する業者がいました。血液は、A町の融和団体(あとの項で説明します)に助成金代わりに供与され、牛骨は歯ブラシやボタン工場で利用されました。工場で働くのは近隣の農村女性でした。
(3)A町で暮らす人々の職業構成
A町の人たちは、当時の労働力市場の下層部分を担う一大勢力をなしていました。
A町の人びとのじっさいの職業構成はどうなっていたか。
商業で多いのは行商、工業では屠畜・精肉・製靴もありますが、もっとも多いのは土木作業員と港湾荷役。つぎに多いのは、雑業といわれる人力車夫、廃品回収、子守や家政婦などでした。
屠場の仕事や製靴の仕事は厳しい労働でしたが、常雇いであれば、一定の収入が確保されました。つまりプロレタリアートです。子守を雇うことができる人々は共働きします。
ここで問題にしたいのは、その子守を仕事としなければならない貧困層の人びと(下層プロレタリアート)の生活です。
(4)最底辺の生活状況
より低位で不確実な社会関係のネットワークの中で生きていた彼ら彼女らの労働、生活の「みじめ」をあらわす非常に重要な証言が、A町にあります。
それは軍隊から放出される残飯(手をつけられないまま釜に残った飯類を業者が引き取り安価で売っていた)をたべる「残飯摂食」です。
その記憶を語る人は多くいます。
「母親は内職でちびりちびり金をもろうて、それで軍隊の残飯を買うて、ようやっと食べよりました。あの時軍隊の残飯がなけりゃ飢え死にしとったでしょうて」
その境遇へのささやかで悲しい反発もありました。
ある人の8歳の頃の回想です。
「母が行商の帰りにご飯をもらってきたところ『これは豚のエサだろう。なんぼうなんでも、乞食をしてもよう食べん』といって拒否しました。母親は『そういうだろうと思った。じゃあこれからはもらうまいね』とうなだれて言うしかありませんでした。」
(5)人力車夫
A町の人々の労働で大きなウエイトを占めていたのは、人力車夫でした。証言も比較的多く残っています。しかし、車夫の仕事は1906年をピークに激減します。人力車に代わり自転車や自動車が登場したためです。
▼地方農村の被差別部落
仕事をもとめて人が流入し、爆発的に人口が増えた都市の被差別部落。その増え方だけをみても、あきらかに近代都市部落へと変化したことがわかります。
いっぽう、地方農村の被差別部落のようすはどうだったでしょうか。
戊辰戦争や西南戦争の戦費調達に大量の紙幣を刷ったことで、日本経済は極度のインフレに見舞われました。
1881年、インフレを抑制するため大蔵大臣・松方正義はデフレ政策をとります。
貨幣価値が下がり、コメなどの農作物価格が下落、松方デフレの影響で没落する農民が増加しました。かれらは持っていた農地を手放して小作人となり、広範な土地が資本家や富裕農民のもとに集まりました。
また、この時期に製糸・紡績業などの産業が発達し、軽工業部門での産業革命が進行します。
産業革命の影響は、農村の被差別部落にも及んでいきます。没落した農家の子女は低賃金労働者として工場などに雇われることになります。
(*ただし、日本の農村のばあい、没落した農家の子女や二男三男(跡取りの長男以外は農地を継げない)など年間20〜30万人ほどが都市に出ていったものの、羊毛生産のため土地を柵で囲い込んだイギリスのように、農民すべてを追い出して工場で働く賃金労働者をつくりだす必要はありませんでした。)
▼疲弊する農村、富裕地主の出現
この産業革命による経済力を背景に、日本は日清戦争(1894-5年)、日露戦争(1904-5年)へと突入します。
日露戦争後は深刻な不況に陥り、労働者の困窮はもとより、農村の疲弊がいっそう深刻になりました。軍事大国にはなったものの国民の大多数は貧しく、まさしく「貧国強兵」といった状態でした。
日露戦争後の広島県地域の被差別部落には、あらたな構造的な変化がみられます。
1915年のある被差別部落では土地を所有する人びとが増えており、地主として富を蓄えた人が出現します(その人たちも差別から逃れ、よりよい生活を求めて流出します)。
また逆に消息が分からなくなった人がいます。
資本主義の進行は、被差別部落の階層分化をもたらしたといえます。
この状況は、つぎに待つ悲惨の入り口でした。
6. 米騒動〜「部落は怖い」という感情の流布
日本は、1918年に勃発した第一次世界大戦による好況期に入ります。
1917年、ロシア革命に干渉するためにシベリア出兵が強行されると、米の買い占めが始まりました。
1918年春には一升27銭だったコメの値段が、7月末には1升50銭になります。
その苦痛に、富山県の漁村の主婦が立ち上がったのをきっかけに、いわゆる米騒動が全国に拡がりました。
従来、米騒動には被差別部落大衆が多く参加し、主導的に行動したといわれてきました。
参加したこと自体は事実ですが、政府は、あたかも部落大衆だけが引き起こしたかのような言説をメディアに流布させ、沈静をはかったのです。被差別部落民に対しての世間の差別感を利用しました。
「部落は怖い」という感情が、人々に浸透し、強まりました。
次回は、米騒動をきっかけに被差別部落大衆の存在を危機とみなした政府が着手した部落改善運動についてお話します。
*にんげん出版編集部より
この連載は『部落解放ひろしま 特集 広島県水平社100年を迎えて』への小早川明良氏の寄稿をダイジェストしてお送りしています。転載を快諾して下さった編集部と著者に厚く御礼を申し上げます。
*小早川明良(こばやかわ・あきら)
広島県在住。特定非営利法人社会理論・動態研究所理事。「ひろしま 部落解放研究」編集長。
著書に『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』
編著に『広島県地域の部落史・部落解放運動史年表草稿』など多数。
]]>にんげん出版編集部より
1922年、全国水平社が結成され、以降、各地に水平社が結成されていきました。
広島県水平社は1923年に創立され、今年でちょうど100年。
『部落解放ひろしま 特集 広島県水平社100年を迎えて』への小早川明良氏の寄稿をダイジェストしてお送りしています。転載を快諾して下さった編集部と著者に厚く御礼を申し上げます。
*小早川明良(こばやかわ・あきら)広島県在住。
特定非営利法人社会理論・動態研究所理事。「部落解放研究」編集長。
著書に『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』
編著に『広島県地域の部落史・部落解放運動史年表草稿』など多数。
◆はじめに
全国には、近世に歴史的起源をもつといわれる被差別部落も相当数存在します。
とはいえ、今日それらは幕藩体制下で存在したままに続いているのではありません。
明治期以降の日本社会で、どのように組み替えられ、新たな機能をもって存続していったのでしょうか。
今回からは、広島県A町を中心に、近代に改編されていく様子をみていきます。
前回までの流れを振り返ります。
◆前回までの流れ
幕藩体制の下の近世賤民は、地域ごとに異なる呼称と職業(役)をもっていました。
明治政府「賤称廃止令」は、封建身分を廃止して「これまでは身分で仕事を決めていたが、以後、職業選択は自由である」という意味をもっていました。
生活の糧を失った旧被差別民だけでなく、俸禄を失い困窮する元武士も例外ではありませんでした。
維新の混乱の中で発生した困窮民は、都市へと流れていきます。
殖産興業政策によって建てられた近代工場ではたらく労働者に身を転じていく人も多くいました。
東京・大阪や地方都市には長屋・木賃宿が建てられ、労働者が集住するスラムになっていきます。
近代東京や大阪は、スラムと旧賤民集住地が交差しながら、都市社会が形成されていきます。(その意味でもスラムと被差別部落は異なります。)
◆近代産業進展と被差別部落
被差別部落の人びとはどんな仕事で生計を立て、生き延びていったでしょうか。
よく聞くのは〈食肉や皮革、製靴は被差別部落が担っており、部落の経済を支える産業である〉という、いわゆる「部落産業」です。
ところが被差別部落の就業実態を見ていくとそれは合致しません。都市部落の一部では食肉に携わっている人はいますが、全国の被差別部落でいちばん多いのは農業です。製靴にしても大手靴メーカーの隙間に小規模の靴職人の存在があり仕事がありますが、それで食べていけるかといえば難しい。「部落産業」という言葉は、「被差別部落は肉と皮にかかわる仕事に従事する人々」というステレオタイプにつながってしまいがちです。
◆戸籍と部落差別
近代国民国家をスタートするにあたって、最初にしなければならないことは何かといえば、「国民」の登録です。
戸籍編製にあたり、封建制のもとに存在した多様な被差別民(40以上の呼称と固有の役割)を「穢多・非人」と統一、つぎに「穢多・非人」を「国民」に組み入れます。
その時点で、【近代の被差別部落民は近世の穢多である】という認識が生まれていきました。
封建制のもとに存在した多様な被差別民の存在は、明治政権のもとで「穢多・非人」と統一され、あらたに考えだされた「新平民」という呼称により、【「新平民」=旧穢多・非人】という定式が固定化されました。その後、「特種(特殊)部落」「貧民部落」の呼称がつくりだされます。
今回までの目次は下記の通りです。
?はじめに
?水平社結成前史
1.近代と被差別部落
2.国家と被差別部落
3.国家による包摂 (1)産業と被差別部落 (2)戸籍と被差別部落
4.近代被差別部落の再構築
4. 近代被差別部落の再構築
▼明治維新後の日本――軍備増強・植民地拡大へ
明治初期から大正・昭和にかけて、被差別部落はどのように変化していったか、その背景をみておきましょう。
ふりかえれば、日本の明治維新期は、欧米列強が海外進出や植民地拡大を図り、帝国主義へと急速に舵を切っていく時代にありました。つまり、日本は帝国主義時代の真っただ中で資本主義を成立させていったことになります。
日本の産業化が急速に達成されたのは、欧米から先進的な機械や技術を導入できたからです。
軽工業(紡績業)を中心に産業革命がおこり、1890年代の末(日清戦争後)、日本の資本主義は本格的に成立しました。
ところが、国家の矛盾はかぎりなく進行します。
1894年、朝鮮半島の支配権をめぐって、日清戦争が勃発します。軍事的に優位に立った日本は、遼東半島と台湾を領土にし、賠償金を得ます。
しかし、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって遼東半島を返還、この干渉で日露の関係は悪化、日本は軍事力増強に傾斜していきます。
1904年、日露戦争が勃発。戦闘じたいは日本が勝利しますが、経済的な疲弊は深刻でした。兵力も物資も不足して戦争を続けるのが困難になるなか、ポーツマス条約によって戦闘は終結しました(1905年)。
ところが、戦争に勝利したものの、期待した賠償金はとれず、18億円もの戦費(当時の国の会計予算は3億円)を外国債で調達していたわけですから、借金返済に苦しむのは当然のなりゆき。
財政は破綻寸前。日本は海外に植民地を作る帝国主義的政策をとって生き残りをはかります。
日本国内の巨大企業は海外に市場をもとめ、国家はそれをアシストする形で植民地を拡大していきます。
日本の場合、食料の確保もその目的にありました(牛肉輸入など)。
1910年、日本は朝鮮総督府を設置して韓国の主権を奪い、併合します。
わたしが注目するのは、このころ被差別部落に構造的な変化が起きていることです。
▼被差別部落に構造的な変化
べつの言い方をすると、近世の賤民集落が今日の被差別部落にダイレクトにつながっているのではなく、明治以降、旧賤民居住地は改編・再編成されていったのです。
またそれは、日本の資本主義が成立するプロセスと、なんらかの関係があるのではないかということです。
まず、明治初めから1910年代、そして戦争期1930年代の被差別部落の変化をみましょう。
変化はとくに都市部の被差別部落において顕著になります。
広島県の被差別部落のケースをみます。
(1)被差別部落の人口変化
中国地方最大の被差別部落といわれる広島県A町は、のちの広島県水平社創立と大きくかかわります。
江戸時代の広島に、革田(かわた)と呼ばれる人々の居住地が二つありました。
A町は、当時の街道筋の広島城下への西の入り口に位置づいています。おそらく軍事拠点として築かれたと思われ、古い史料をみても、革田が武装し、日頃から軍事訓練を行っていた記録も残されています。
そのA町は、明治初めの1871年でも889人というかなり大きな部落でした。それが1933年には9,000人と、人口が10倍に膨れ上がっています。
明治期以降、大正、昭和、そして一九四五年に原爆が落ちる直前に至るあいだに、A町の人口がどんどん増大していったという事実は、なにを意味しているのでしょうか。
広島は軍都でした。陸軍第五師団がおかれ、日清戦争時には大本営が東京から広島に移されました。軍都広島が近代都市として形成され、膨張していく過程で、広島市近郊からたくさんの人たちが流入してきたという事情と対応しています。
その中心部にほど近いA町にも、軍関係の仕事をもとめて、多くの人が流入してきました。
《A町の人口変化》
1871年 889人
1911年 3500人
1933年 9000人(1450世帯)
(2)拡張・縮小する被差別部落
人口の膨張は、近代の都市部落で全国的にみられる特徴です。
広島県A町を中心とする被差別部落は、周辺の村々に越境して拡がっていきました。1933年の記録では、3地域が被差別部落とみなされるようになっています。
(3)新しく形成された被差別部落
その一方、明治以降、封建時代の賤民居住地とはかかわりのない地に、被差別部落が形成されていきます。
そこに着目すると、近代被差別部落形成のメカニズムがよくわかります。
広島のケースをあげてみましょう。
1889年、呉(くれ)に海軍鎮守府(ちんじゅふ)がつくられます。鎮守府建設工事の過程で人口一千人を超す新たな被差別部落が生まれています。
周辺の農山村の被差別部落の人たちが当該地域に移動してきたからではありません。
もとは被差別部落民ではなかった人びとが、なんらかの事情によって移ってきたと考えられます。周辺の農村被差別部落の人口データをみても、これだけの人口規模が流出した地域はなく、また実際にそのような行動をとった人びとを確認できないからです。
(4)彼ら彼女らはなぜ移動するのか?
被差別部落住民が外部に転出し、あらたに外部から転入してくる現象は、都市部だけで起きているわけではありません。(『被差別部落の真実2』33頁表参照)。
1912年に開催された細民部落改善協議会では、京都のY地区も五千人以上が増加していることが報告されています。ちなみに「細民」は「赤貧洗うがごとし」の状態の人びとのこと。
全国のどのような被差別部落をみても、人口・面積ともに拡大縮小しています。(ただし被差別部落と非被差別部落の境界はぼやけたわけではなく、境界それじたいが、まるで呼吸するかのように拡がったり縮んだりする。)
被差別部落から外部への流出、また外部からの流入をかんがえてみれば、彼ら彼女らは、なぜ移動するのでしょうか?
生活が豊かになって移動したのではありません。
もちろん事業を起こして成功し、被差別部落を脱出した人もいます(事業を起ち上げる資金をもっていなくてはなりませんが)。
またその逆で、苦しい生活から脱したいばかりに、住み慣れた地域を出て行った人もいます。
被差別部落に流入する人びとも同じです。
つまり貧困のスパイラルから抜け出せなかったことがわかります。
]]>◆近代被差別部落と広島県水平社の100年その2
?. 水平社結成前史
◆はじめに
1922年、全国水平社が結成され、以降、各地に水平社が結成されていきました。
広島県水平社は1923年に創立され、今年でちょうど100年にあたります。
『部落解放ひろしま 特集広島県水平社100年を迎えて』への小早川明良氏の寄稿をダイジェストしてお送りしています。転載を快諾して下さった編集部と著者に厚く御礼を申し上げます。
小早川氏の論考を駆け足でめぐりながら、部落差別とはなにかをかんがえていきたい。
*** *** ***
前回ウエブ連載差別表現・第232回を振り返ります。
〇近代に入り、産業資本主義が進展する中で被差別部落が編制されていく。
〇封建身分制を解体した明治政府は「日本国民」を束ねるため天皇を最高位とする新たなヒエラルキーを設定。
今回は、近代産業進展のなか、被差別部落の人びとは、どのような仕事で生計を立てていたか。
明治政府が編制着手した戸籍は、部落差別とどう関連していくのか。
前回から今回までの目次はつぎのとおりです。
?はじめに
?水平社結成前史
1.近代と被差別部落
2.国家と被差別部落
3国家による包摂 (1)産業と被差別部落 (2)戸籍と被差別部落
3. 国家による包摂
(1)産業と被差別部落
▼部落産業とは
「部落産業」という言葉を聞かれたことがあると思います。
一言でいえば〈食肉や皮革は被差別部落が担っており、部落の経済を支える産業である〉というもの。
そして食肉・靴・皮革などの仕事は「部落産業」と呼ばれてきました。
ですが、その呼び方には留保が必要です。
理由のひとつは、被差別部落(とくに都市部落)の人々が就いている仕事の実態(じっさいの職業構成)とは合致しないことです。
都市被差別部落の多くは都市下層民の一般とおなじく土木・建築・運送・サービス・小商いなど「雑業」と呼ばれる多様な仕事で生活をしのいできました。
いっぽう農村部落では圧倒的に農業が多く、ついで土木建築関係になります。その実態からみて、食肉・靴・皮革などの仕事は被差別部落を代表する仕事とはいえないのです。
二つめに、被差別部落の中で屠畜業や靴、皮革の仕事をしている人はいます。
ただし、多くのばあい小規模であることです。事業化された場合の多くは豊富な資本金をもつ一般の人々により経営されました。
現在の製靴大手メーカーといえば、リーガル(日本製靴)・千代田製靴・スタンダード、そして大塚製靴(日本最初の靴製造会社)などがあげられます。
かれらは戦後ドイツ・米国から大量生産用の機械を導入、オートメーション化をはかってきました。
一般の経営者による製靴メーカーと部落企業の資本力の差はますます開いていきました。
全国的にみると1960 年代に靴関係の会社が大資本によって急速に系列化ないし吸収されていきます。
大手メーカーは、製造工程の機械化や販売過程の吸収・統合をはかり、合理化と資本集中を進めていきます。
▼広島県A町の靴職人は
広島県の被差別部落A町の靴職人は、それまでは仕事場や作業場でコツコツと靴を作っていたのが、1960年頃から、関西方面からなめした革が送られてきて、その革を裁断したり、送られてきた靴の半製品を完成品にし、関西方面に送り返して、職人はその工賃を受け取るということになっていきます。
やがて、その仕事さえ減っていきます。あるいは工賃が低落していきます。
このような靴産業の変容というか衰退のなかで、靴の仕事ではとても食えないし、将来の見込みもないということで、靴職人だった人たちが転職をよぎなくされていきます。様々な苦労がありました。
被差別部落内にあった食肉・靴・皮革の地元経営者の多くは、資本力をもつ外部の一般経営者に吸収されていきました。部落内に残ったのは零細な靴づくり、あるいは靴修理や内職でした。
ちなみに国内皮革生産数も減少しています。
1900年代の初めに比べ1938年には大きく減少、その後も減少の一途をたどっています。
皮革の多くを輸入に頼るようになったからです。
屠畜や皮革産業、その関連産業(製靴・化成など)が「部落産業」といわれ、被差別部落に固有の職業産業であるといわれますが、それは大資本の屠畜や皮革生産の隙間にのみ存在しえました。(『被差別部落の真実2』111頁参照)
(2)戸籍と被差別部落
▼戸籍制度―壬申戸籍
明治政権は西欧の先進国から機械や技術を導入し、近代産業立国をめざしました。
もう一つ、近代国家にとって重要なのは「国民」を把握すること。
領土内にいったい何人の国民がいるのか。そこに誰が住んでいるのか。
それがわからないと課税=徴税もできませんし、軍隊への召集=徴兵もできません。
近代国家は、非定住者(流浪する民)を嫌います。国民は定住していなければなりません。
その意味で、全国民を定住化させて登録する装置が、戸籍です。
明治政府が最初に作ったのが、よく知られている壬申戸籍(じんしんこせき・1873年)。
壬申戸籍には「元穢多」「新平民」など賤称が記載されたケースがあり、朱点が打たれるなどの戸籍簿も確認されています。
だれもが閲覧可能であったことが問題視され、1968年閲覧禁止、1970年永久封印となりました。
しかし、部落差別身元調査に利用されるという意味でいえば、壬申戸籍のみが問題なのではありません。
あとで説明しますが、その後に編製された戸籍では、それ以上の「効果」が得られるようになっている実態があります。
▼明治以後、近世の多様な被差別民が「穢多」に統一される
さて、明治政府が最初に作った「壬申戸籍」によってはじめて、封建社会にあったすべての身分(天皇をのぞく)が、天皇の治める領土に帰属する「臣民」「日本人」として記録されました。
旧被差別民も、多数派の国民とともにもれなく国家に登録されました。
注目すべきポイントは、40以上あった近世被差別身分の呼称は、戸籍編製の過程でいったん「穢多」に統一されていったことです。
封建制度のもとには多様な被差別民が存在していました。かれらは地域(藩)によって異なる呼称(40種以上)をもっていましたし、たんに呼称が違うだけでなく、その社会的性格(はたしていた役割)もそれぞれ異なっていました。
明治以後、それらはすべて「穢多」とひとくくりにされ、その過程で旧被差別民の多様性は喪失していきました。
1880年の時点で、〈近代の被差別部落民はすべて近世の穢多である〉という認識に統一され、やがてあらたに考えだされた「新平民」「特殊部落民」「特種部落民」と呼称が変化していきます。
「部落」という用語と認識は、その中で発生し、定着していったのです。
▼戸籍と家制度
話を戸籍にもどします。
壬申戸籍は無制限に閲覧可能だったことが問題視され、閲覧禁止、永久封印となりました。
しかし、以降に成立した戸籍には、壬申戸籍以上に差別を助長する「しくみ」がありました。
そもそも壬申戸籍はまちがいや不合理なところが多く、代わって1886年、明治19年式戸籍が成立しました。この戸籍から「除籍簿」のしくみが導入されています。
これは遺産相続のときに、遺産を相続する権利をもつ縁者を確定します。私有財産制のルールのもとでは個人資産の正確な継承が必須。つまり除籍簿は、私的所有の権利と深くかかわっているわけです。
どうじに除籍簿は、現在では150年前まで人々の系譜を遡り、その人の法的身分と社会的身分の証明を可能にする。つまり被差別部落民調査や他の身元調査にとっても必須の制度であるといえます。
さらに、1898年に作られた明治31年戸籍は、父系を軸とする同一の血統集団(養子も含む)を中心に、連綿と系譜が続く「家」を想定してつくられました。
家の統括者は「戸主」と呼ばれ、男系によって継がれます。男性がいない場合は養子を迎えます。
養子を迎えてその「家」を継承させるケースはじっさい多かったのです。
つまり、血の継承ではなく「家」を継承し、維持させるということ。血脈的に断絶しても残るものが「家」で、今日なおそれは、家父長制で維持されている傾向が強いのです。
家の統括者である戸主は、だれを「家」の一員にするか、婚姻・離婚・相続など家族の身分にかんするすべての権限をもち、何事にも戸主の承認を必要とするルールが確立しました。
こうして19世紀末までに、身分差別と家制度が有機的に結びついたのです。(以下、6月30日 第234号に続く)
(にんげん出版編集部註)
*本稿は小早川明良氏による論稿をダイジェスト版に編集し数回に分けてお送りしています。
*全文は『部落解放ひろしま105号』(2023年1月発行)に掲載されています。ぜひお読みください。
*小早川明良(こばやかわ・あきら)広島県在住。特定非営利法人社会理論・動態研究所理事。「広島解放研究紀要」編集長。
著書に『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』、編著に『広島県地域の部落史・部落解放運動史年表草稿』など。
]]>
はじめに
1922年、全国水平社が結成され、以降、各地に水平社が結成されていきました。
広島県水平社は1923年に創立され、今年でちょうど100年にあたります。
『部落解放ひろしま』105号では「広島県水平社100年を迎えて」として、近代以降、広島県水平社が結成されるまでの広島県地域、水平社結成に至る状況とその闘い、原爆被災をはさんで戦後の闘いを、特集しています。
今回、ウエブ連載では、その特集「 広島県水平社100年を迎えて」への小早川明良氏の寄稿「近代被差別部落と広島県水平社の100年」をダイジェストさせていただき、数回に分けて掲載させていただくこととしました。
水平社結成に至るまでの被差別部落の実態はどうであったか。
そして敗戦後、人びとは部落差別とどのように闘ったか。
小早川氏の論考を駆け足でめぐりながら、部落差別とはなにかをかんがえていきたい。
今回、転載を快諾して下さった編集部と著者に厚く御礼を申し上げます。
*全文は『部落解放ひろしま105号』(2023年1月発行)に掲載されています。ぜひお読みください。
*小早川明良(こばやかわ・あきら)広島県在住。特定非営利法人社会理論・動態研究所理事。「広島解放研究」編集長。
著書に『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』、編著に『広島県地域の部落史・部落解放運動史年表草稿』など。
?. 水平社結成前史
▼江戸時代の身分差別が残ったのではないーー朝田善之助さんがのべたこと
被差別部落の成り立ちを考える場合、しばしば、江戸時代の賤民制(穢多・非人など)の延長線上で議論する傾向が残っていますが、それは有益な方法ではありません。
たしかに被差別部落によっては、十手など捕り方の道具が残っている場合があります(犯罪探索の‘役’を被差別民が担っていた)。
個別にはそのような前史をもつ被差別部落はあるかもしれませんが、その議論にはあまり意味がないと考えます。
京都市内の被差別部落に生まれ、のちに解放同盟全国委員長となった朝田善之助〈1902-1983〉という人がいます。朝田さんの『差別と闘い続けて』という本の中に、次の一文があります。
「部落問題とは封建的身分制度の遺制、つまり、前時代的制度がそのまま典型的にではなく、今の時代に改組・再編されて存在している問題のことである」
朝田さんがのべていることは、以下のように説明できるでしょう。
部落差別について「江戸時代の穢多、非人身分に対する差別が現代に残っている」という人がいます。
しかし、今日の部落差別というのは近代被差別部落民にたいする差別です。
その近代被差別部落民は、旧賤民ではなかった人も含めて、明治以降あらたに組み替えられ、再編成されています。
部落問題というと、まず江戸時代の封建制の下にあった被差別身分から説明されることが多いため、〈封建差別のなごり〉のようにみえているのですが、部落差別は、今日の社会であらたな機能をもって存在しています。
明治以降の産業資本主義をすすめる過程で、底辺労働者をプールしておく場所として旧賤民居住地が再編成され、仕事をもとめる人びとが、吹き寄せられるように集まったのです。
▼部落問題の三命題
朝田さんは〈部落問題の三命題〉(*)という部落問題認識をしめした人で、上に紹介した一文は、その三命題の説明のあとにのべたものです。
朝田さんが提唱した〈三命題〉を「理論的に古い」という人がいますが、わたしは近代から今日までの部落問題を考えるうえで、今なお重要だと思っています。
「理論的に古い」とされたのは「マルクス主義はもう古い」という見方からいわれていると思いますが、資本主義(資本の運動)を分析したマルクスの『資本論』は、現代社会をとらえる必読文献として、再び脚光を浴びています。
ここではくわしくのべませんが、部落差別は資本主義の階級的搾取であると喝破し、国家が持ち込んだ差別意識を社会が再生産するメカニズムをとらえた〈部落問題の三命題〉を、今日の被差別部落の状況に即して展開すべきだと思っています。
*小早川註 「部落差別の三つの命題」部落解放同盟第12回大会(1971年)で朝田善之助が提唱。
(1).部落差別の本質は、部落民は差別によって主要な生産関係から除外されていることにある。
(2).部落差別の社会的存在意義(部落差別が今日社会にどのように機能しているか)は、部落民に労働市場の底辺を支えさせ、一般労働者、勤労人民の低賃金、低生活のしずめとしての役割、部落民と労働者・勤労人民と対立させる分断支配の役割にある。
(3).社会意識としての部落差別観念は、自己が意識する・しないにかかわらず、客観的には空気を吸うように労働者・勤労人民の意識に入り込んでいる。
なお、これには以下の前提項があり、それ自体も議論を呼び起こした。
1.ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない。
2.日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である。
▼西欧からの輸入ーー軍事・警察制度・戸籍制度
さて、徳川幕藩体制を打倒した明治政権は、西欧列強に伍する近代国家を始動するプロジェクトをかかげます。
そのキャッチフレーズが「富国強兵・殖産興業」です。
近代産業はヨーロッパからの生産手段の導入とともに始まりました。
明治維新から20数年で綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を始めることができたのは、ヨーロッパから織機を輸入し、鉄道や電話、郵便といったインフラ技術を輸入して整備することができたからです。
生産手段の輸入は機械や技術だけではありません。
軍隊・警察・行政制度といった統治システムを取り入れることも意味しました。
軍事制度はドイツに範をとり、警察制度はフランスに倣ったといわれます。官庁などの制度もドイツといわれています。また戸籍制度は、その底流をナポレオン法典に拠っています。
▼国民を束ねる日本民族神話、そして天皇
もうひとつ、近代国家を維持運営するためには、国家と国民が一つにまとまっていなければなりません。
それまで300余りの藩領地で藩主のもとに暮らしていた人々を、「日本国民」として統合するためには、国民を束ね思想やイデオロギーが必要です。
しかし、日本には欧米のようにキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教など強力な宗教もなく、国民を束ねる思想やイデオロギーをもっていませんでした。
近代国家としてのまとまりを急いで作り上げねばならなかった明治政権にとっては、「国民」を創出し、国民を束ねるイデオロギーないし精神的支柱を構築する必要がありました。
そのために京都の片隅にいた天皇を、国家の中でもっとも貴い存在として連れ出したのです。
〈日本人は万世一系の天皇を父として、大昔から一つの家族のように生きてきた。日本民族は上古から連綿と続いてきた〉という「国民の神話」をつくりだし、天皇を現人神とする国家神道を創造しました。(維新直後の1868 年、政府は神仏分離令をだし、廃仏毀釈を行いました。仏教(的要素)を排除することで、天皇を頂点とする国家神道の国教化をめざしたのです。)
▼「華族・士族・平民」――天皇を最高位とする新秩序
最高位と位置づけられる人が存在するためには、何が必要でしょうか。
その下につらなる人々なくして、最高位は存在できません。
華族制度や士族制度はそのために設けられました。
明治政府は、封建身分制を解体して、「華族・士族・平民」というあらたな近代身分をつくります。
それは天皇を最高位とする新秩序でした。
1870年に設けられた「華族・士族・平民」は、皇族(天皇の家族)、華族、士族(禄をとり華族に加えられなかった者)、そして平民はそれ以外のすべて。
明治政府が作った華族制度は、貴族といわずに「華族」としています。それは、元公家だけでなく、元藩主、明治政府に勲功があった者、僧籍から還俗した者など矛盾する立場の者をひとまとめにしたからです。
近代につくりだされたヒエラルキー(近代身分)の最下位が被差別部落民でした。
このヒエラルキーと経済的格差が日本的自由の真の姿でした。
その矛盾をおおい隠すために、「天皇の赤子」「八紘一宇」というイデオロギーが鼓吹されたのです。
ちなみに「身分」という言葉から封建制度をイメージする人が多いかもしれません。しかし現代のイギリスを見ても、2023年5月に戴冠式を行った英国国王チャールズ3世とその家族、親族(王族)で構成される「英国王室」があります。最高位の英国王と王族、その下につらなるヒエラルキーとして、伯爵・侯爵といった英国貴族がいます。
身分制は、封建制度の専売特許ではありません。
▼賤称廃止令
ここで皆さんは、疑問に思われるかもしれません。
明治政府は賤称廃止令によって旧賤民身分を解放したはずじゃないか、と。
1871年、いわゆる差別の解消を命じた賤称廃止令がだされます。
この太政官布告に道をひらいた官僚に加藤弘之(*)という人がいます。
かれはもともと西洋的啓蒙主義者でした。天賦人権論を日本にひろめ、「非人えた廃止」の意見書を出すなど、明治期の人権論とかかわるキーパーソンでした。
そうしたことから私たちは、「ヨーロッパの学問にまなび、ヨーロッパの政治社会にあこがれた明治政府の官僚たちが身分制の廃止にうごいた」として、明治政権は開明的だったとイメージしがちです。
徳川政権の支配層の思想は儒教でした。政権末期にはそれを打ち破る思想が誕生し、徳川幕府のもとで西欧思想を研究した人々の中から、近代的理念をもつ知識人があらわれたことは事実です。
賤称廃止令は、一時期「解放令」と呼ばれました。
それはじっさいに、被差別部落民の解放をもたらしたものだったでしょうか。
もう一度法令をみましょう。
「穢多非人の称、廃され候条、自今、身分職業共平民同様たるべき事」(明治四年八月 太政官)
この法令には、旧賤民を解放するとは、ひとことも書いていません。
職業選択の自由をのべているだけです。
封建時代には、身分によって職業が分けられていました。つまり職業と身分は一体でした。
それに対して近代国家となった明治政府は、「これからは身分に関係なく自由に職業を選べる」として、賤称廃止令をだしたわけです。
誰にとっての「自由」か。その点が重要です。
明治維新後には、どんな商売を始めようとも自由になりました。
近代は、資本をもち、それを投資できる人にとっての自由があることに特徴があります。
「殖産興業」をキャッチフレーズに、すべての産業は、国家の介入(官営工場払下げなど)によって資本家のもとに集中しました。(6月23日のウエブ連載に続く)
*加藤弘之 1836-1916年。ルソーの啓蒙思想に共鳴して天賦人権論を日本にひろめたが、のちに撤回。1882年『人権新説』を発表、「優勝劣敗」「貧小民は知的水準が欠乏」として帝国主義政策を賛美するようになる、1890年(明治15年)東京帝国大学総長に就任。政治学者・丸山眞男は「開明的」とされた加藤の変質を通して日本近代と部落問題を論じた。(『被差別部落の真実』参照)
]]>「生産性」言説とマイノリティ排除の論理
(今回のブログはにんげん出版編集部による執筆です)
▼「老害になる前に集団自決」
「高齢者の集団自決」発言で批判を浴び、SNS炎上中の成田悠輔氏が、4月に始まる深夜バラエティ番組(テレビ朝日)のMCに起用されるという。
成田悠輔は、イェール大学助教、新進の経済学者として、日本のメディアに登場(38歳)。インターネット番組や地上波のテレビに出演してきた。
賃金は上がらず税金は上がる一方、高齢者の介護・医療など社会保障費が若者の重荷になっているという主張に、一部の若者の支持を得ている。
少子高齢化がすすむ日本で高齢者はお荷物として「集団自決」発言を繰り返す成田に、以前から批判の声は上がっていたものの、メディアはかれを起用し続けてきた。
▼『Abemaプライム』での発言
ニューヨークタイムズ紙(2023年2月12日付/以下NYT)も、成田の発言をとりあげた。
NYTが問題視したのは、少子高齢化がすすむ日本の未来の「解決策」を問われた『Abemaプライム』での発言。
「僕はもう(少子高齢社会に対する)唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものではないかなと。やっぱり人間って引き際が重要だと思うんですよ。別に物理的な切腹だけじゃなくてもよくて、社会的な切腹でもよくて。過去の功績を使って居座り続ける人が、いろいろなレイヤーで多すぎる」
(2021年12月17日配信『Abemaプライム』)
▼集団自決はメタファーと弁明
発言意図はあきらかだろう。
〈働けない高齢者は社会のお荷物。そんな年寄りの年金・医療・介護費のために、若者は税負担にますます苦しむことになる。高齢者に死んでもらうことが唯一の解決策だ〉
いっぽう成田は、NYT記事の中で、「集団自決」は「世代交代を表すメタファーだった」と弁明しているが、78年前の沖縄では、「集団自決」として旧日本軍が沖縄住民に自死を強制、実際には集団虐殺にひとしい惨状がくり広げられたのである。
メタファー(暗喩)としての「集団自決」が意味するものは、世代交代ではなく、人間集団の抹殺にほかならない。
NYT紙につづき、独シュピーゲル紙も問題として取り上げた。
成田の発言は、かつてナチスドイツ時代に行われた、ナチス党の「障害者安楽死計画」における障害者抹殺と発想は同じである。
ナチ党宣伝ポスター
「遺伝性疾患のこの患者は、生涯にわたって、国に6万マルク(現在の日本円で5千万円)の負担をかけることになる。よく考えよ、ドイツ国民よ、これは皆さんが払う税金なのだ」
▼少子高齢化問題と高齢者ヘイト
少子高齢化問題は、〈口にしてはいけないこと〉ではない。
現状は、若者が多くの高齢者をささえなければならない構造になっている。
誰もがよりよく生きていけるインクルーシブ社会をどう構築していくのか、経済学者であるならば、現状分析と政策課題の提言が急務であることはいうまでもない。
※超高齢社会といわれる日本の人口の3割、およそ3人に1人が65 歳以上の高齢者である。また2025年は「団塊の世代」が75 歳以上となり、総人口の18%を75 歳以上が占めると予測されている。
▼「高齢者を自動的に死なせるシステム」
NYTの記事をきっかけに、過去の成田の発言が再び注目を浴びた。
かれの持論に賛同する小学生が、「高齢者を自動的にいなくなるシステムを作るには?」と、成田に問うていたのだ。
「日経テレ東大学」(※)のYouTube番組「Re;hack」が2022年5月15日に公開された。
ひろゆきこと西村博之と成田悠輔、20人の小中高校生が会場でトーク。
男子生徒
「成田さんはよく『Re:Hack』内で『老人は自害しろ』とか言っているじゃないですか。老人は実際に退散した方がいいと思います。で、そういう時に、老人が自動でいなくなるシステムを作るとしたら、法律とかでもいいんですけど、どうやって作りますか?」
成田悠輔
「どういう風にやるかっていうと、結構ありえる未来社会像なんじゃないかと思っていて。そういう社会を描いたSF映画(『Theタイム』)があるんです。みんな生まれた時に腕にタイマーが埋め込まれていて、何十年か経つとタイマーが作動して自動的に亡くなるようになっている。みんな等しく、寿命の上限が与えられていて、その時間になったら亡くなるっていうのが埋め込まれている社会が一個」
「もう一個それっぽい社会を描いた映画があって。サマーなんとかっていう映画(『ミッドサマー』)、謎の架空の集落を描いた映画なんですよ。その集落では一定の年齢になると、その人が崖の上に上がっていって、飛び降りるのが風習になっている架空の村を描いたもの」
「こういう架空の村みたいなものっていうのは、歴史上だと存在していたらしいんですよね。そんな感じの社会を考えることはできるんじゃないですか。それが良いのかどうかっていうと難しい問題ですよね。もし良いと思うのなら、そういう社会を作るために頑張ってみるのも手なんじゃないかな」
▼NewsWeek誌の批判
藤崎剛人氏はNewsWeek誌に寄稿し、つぎのように批判する。
「〈老人が自動でいなくなるシステム〉という少年が発した表現は、まさに20世紀以降の大量虐殺の本質をついている。だからこそ、この言葉は即座に否定されなければならなかった。ナチスのユダヤ人虐殺は、その虐殺という言葉の禍々しさとは裏腹に、工学的に洗練され効率的に人を殺すことができるシステムによって実行されていた。」
(2月22日)
成田発言について沈黙を続けたまま、『日経テレ東大学』は終了。
いっぽう、Web上で成田は弁明を続けている(Webサイト「みんなの介護〜言ってはいけないことをいう理由」2月28日)。
▼新自由主義時代にあらわれた生産性言説による排除
経済のグローバル化(グローバリゼーション)は、民営化と規制緩和の新自由主義をうながした。
それは、ごく少数の「勝ち組」と多数の「負け組」を生みだした。
ごく少数の「勝ち組」意識を代表しているのが、成田悠輔の言説だ。
新自由主義が吹き荒れるなか、ことあるごとに出されるキーワードが、「自己責任」と「生産性」である。
「LGBTの人びとは子どもを作らない、生産性がないのです」(杉田水脈)
「自業自得の人工透析患者なんて全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」(長谷川豊)
杉田水脈が寄稿した『新潮45』は廃刊、人工透析患者をターゲットに「殺せ」と吐いた元フジテレビアナウンサー長谷川豊は番組を降板。
両発言は、ヘイトスピーチとして糾弾された。
▼「障害者は死んだ方がいい」――相模原障害者殺傷事件・植松死刑囚の発言
「生産性」という物差しで人間の価値を測り、「人間の命より生産性の追求を優先」する。
人間の尊厳や生存の意味そのものを否定する「生産性」言説が、肉体の殲滅に至らしめる。
戦後最大のヘイトクライムが、2016年に起きた相模原重複障害者殺傷事件だった。
植松死刑囚は、犯行をおこす以前から、「障害者は死んだ方がいい」と、くり返し語っていた。
犯行の動機についてかれは、「重複障害者がいなくなれば国家の経済的負担が軽くなる」「障
害者は『生産性』がなく、不幸をつくることしかできない」とのべた。
植松死刑囚の犯行は、「生産性」という物差しで人間の価値を測り、人間の尊厳や生存の意味そのものを否定する社会が背景にあるのだが、その解明がなされないまま、いまに至っている。(※ウエブ連載第187回 相模原障害者殺傷事件はヘイトクライム参照)
最後にもう一つの事件を振り返って、この項を終わりたい。
▼渋谷ホームレス女性殺害事件
2020年11月、渋谷区幡ヶ谷バス停付近で野宿する60代の女性が、46歳の男性に撲殺された。
不安定な派遣の仕事についていた女性は、コロナ禍に仕事と収入を失っていた。いっぽう、女性を謀殺した男は、犯行の動機に「野宿者がいなくなることが社会のため」と述べたという。(※)
相模原障害者殺傷事件を起こした植松死刑囚も、渋谷ホームレス殺人の容疑者も、その犯行を正当化する主張は共通している。
すなわち、経済的価値を生まない人間の命は軽い。むしろ(存在を)廃棄することが、「社会のため」だという。
成田悠輔の「高齢者の集団自決」発言も、同じ発想に根ざしている。
成田の「集団自決」発言を垂れ流したメディアは、謝罪なく、沈黙している。
「総合的な判断により成田氏を起用」するテレビ局は、「老人が自動でいなくなるシステムが必要だ」と叫んで、高齢者を殺傷するヘイトクライムが起きたときには、社会的責任を負うことになろう。
※「老人が自動でいなくなるシステム」という少年が発した表現は、まさに20世紀以降の大量虐殺の本質をついている。だからこそ、この言葉は即座に否定されなければならなかった。ナチスのユダヤ人虐殺は、その虐殺という言葉の禍々しさとは裏腹に、工学的に洗練され効率的に人を殺すことができるシステムによって実行されていた。そのシステムを設計したのは、優秀な科学者やエンジニアであった。アウシュヴィッツ収容所は人間の理性や文明化過程の一つの帰結に他ならないと、ドイツの哲学者アドルノは述べた。(ニューズウィーク・藤崎剛人/2月22日)
※2021年7月メンタリストDaiGo氏もYouTubeでほぼ同じ発言をして謝罪。「ホームレスの命はどうでもいい」「いないほうがよくない?」「邪魔だしさ、プラスになんないしさ」といった発言を自身のYouTubeチャンネル(登録者数246万人)で繰り返したメンタリストDaiGo氏が、インターネット上で「許されない」との批判の声に、一連の発言が差別的な暴言だったと認め、謝罪。テレビ出演休止。
]]>
▼ドキュメンタリー「54色のいろ鉛筆」のはなしから
これまで感想をのべてきた『私のはなし 部落のはなし』。三回目も多井が担当する。
本題に入る前にNHKドキュメンタリー「54色のいろ鉛筆 大正中学校の挑戦」(2021年4月放送)にふれておきたい。
奈良県御所市の大正中学校では支援が必要な自閉症スペクトラムの子も知的障害の子も同じクラスで共に学ぶインクルーシブ教育が行われている。
コミュニケーションをとるのが苦手な子、落ち着いて行動できない子、家庭の事情で毎日家事をする子どもーーそれぞれの悩みを抱えながら子ども同士ぶつかりあい、助け合い、共に生きていくことの意味をつかみとって成長していく姿をみつめる。
▼ギターをかき鳴らし歌う校長先生
カメラは同中学の向本(むかいもと)校長にフォーカスする。
ギターをかき鳴らし、〈ウディ・ガスリーに捧げる歌〉なんかを歌っている。
子どもたちは何やかやと言っては校長室に出入りし、校長にまとわりつき、質問攻めにする。
戦後から今日まで70年以上にわたり、大正中学校では同和教育が取り組まれてきた。
「ガラが悪い」「学力が低い」「荒れた学校」とネガティブなレッテルを貼られてきた背景には、被差別部落の厳しい生活現実という差別の実態があった。
就職差別も厳しかった時代、進路が決まらず、展望がもてない生徒が学校に不満をもつのは当たり前だろう。「非行」が吹き荒れ、1983年には10日間の休校措置もとられた。
向本が新採教員として大正中学に赴任したのはその翌年。以来38年、先輩教員や保護者・地域の人たちに叱咤激励され、しんどい家庭の子どもを守り、支えるために、必死に走り回ってきた。
子どもたちがどんな家庭生活を送っているのか。保護者の状況と思い。そこを見ずして、子どもがぶつかっている課題はわからない。
同和教育は「差別の現実から学ぶ」ことを第一にかかげ、部落の子どもや 親の願いや思いに立ち、学校を反差別の教育の場に変革する教員たちの取り組みだった。
やがてその理念は、すべての子どもの教育権を守る取り組みへと拡がった。
在日韓国・朝鮮人、在日外国人の子ども、障がいのある子どもたちすべての教育補償として位置づいていった。
カメラは、子どもと保護者に徹底して寄り添う大正中学教員の姿をおう。
「部落差別の現実にまなぶ」「一人の子どもも取り残さない」という決意、保護者・地域とともに苦闘した積み重ねが、そのベースにある。
子どもはそれを直感的に理解している。だから校長室に入り浸っては、甘えたり、親に言えないない悩みを言ったりする。
甘えるのは、学校という社会を信じているからである。
やがて、クラス54人の子どもたちが卒業を迎え、それぞれの進路を選択して旅立つときが来る。
向本校長は歌う(「悲しい思いをしなければいいが、それでも未来に立ち向かってほしい」という気持ちを込めて)。
『どうして旅に出なかったんだ坊や あんなに行きたがっていたじゃないか
行っても行かなくてもおんなじだと思ったのかい……』(作詞作曲 友部正人)
番組では部落差別とか同和教育という言葉は使われない。しかしカメラは、向本をはじめとする教員の表情から、かれらの情熱の核心をとらえていた。
この秀作ドキュメントの撮影監督は、満若勇咲である。
▼筆者が出会った教師たち
「同和教育なんて意味ないだろ」という人のために、筆者の体験を紹介しておく。
筆者は1970年代、奈良県内の中学・高校に通った。
同和教育がないどころか部落出身生徒に対する教師の差別言動が横行する大阪市内の小学校(当時)から奈良の学校に来た筆者にとっては、驚きだった。
差別事件があったとき、授業は即クラス討論に切り替える。「差別は心の問題」と発言した生徒は周りから「それはちゃうわー」と批判された。
音楽の授業では、御所中学(大正中学?)から転任してきた音楽教師が、こんなことを言った。
「ピアノもヴァイオリンもサックスも、皆ええ音色なんやけど、やっぱり最高なんは人間の歌声やな。僕は御所の学校からここに来たんやけど、ヤンチャする子も結構おったよ。そやけどな。かれらに歌をうたわせたら、肚の底からええ声だしよんねん。練習も真剣に取り組みよる。ほんま人間の声は素晴らしいなと思ったね。」
高校のホームルームで部落問題が話し合われたとき、「八鹿高校では解放同盟が暴力をふるっている」と言った生徒がいて、ひとしきりもめた。
クラスには少なくない部落出身生徒がいたし、部落民宣言もあった。
ただ八鹿高校事件(*)に関して、当時は「暴力をふるった解放同盟が悪い」という意見が強かった。
クラス担任は、東京教育大(筑波大)からきた数学しか頭にないような男性教師。
何を考えているのかわからない。
生徒が担任に怒鳴った。
生徒「先生はどう考えてんねん !」
教師「部落出身生徒が抗議したのは当然と思ってます。私は解放同盟を支持します」
このとき、教室にいた生徒全員が「オオーーッ」という声にならない息を吐いたのを記憶している。
訥々としゃべるこの教師の言明に、クラスメート全員が驚いていたと思う。
筆者も「へえー、この先生言うやん」と思った。
*1974年兵庫県八鹿高校で、部落解放研究会設立の動きがなされたが認められず、解放研生徒が抗議のハンスト。同和教育をめぐる教職員と解放同盟の衝突事件が起き、後に裁判となった。
映画『私のはなし 部落のはなし』に話を戻そう。
前回ウエブ連載(229回)で筆者が問うたのは、被差別部落の所在や個人名をネット上にさらした差別犯罪者・宮部龍彦の登場シーン。
「部落差別は存在しない」というデタラメを宮部にしゃべらせながら、明確な反論をだれにも語らせなかった。
差別言説をそのままたれ流すのは、なぜなのか?
差別者だって自由にモノを言うべきだから?
観客が自分の頭で考えるべきだから?
「部落差別はない」と言いながら「部落探訪」する、その映像をアップし続ける差別犯罪者・宮部の矛盾を、映画はどう衝くのか?
宮部をインパクトのある素材と思ったからかもしれないが、いくらなんでもこのまま終わるはずはないだろう……そう思いながら、やがて3時間25分の映画は終盤に差し掛かっていた。
▼次世代の青年たちは
ラスト近く、K地区の青年3人が語り合うシーン。
青年のひとりTさんは、太鼓グループのリーダー。エイサーと和太鼓打ち手のプロをめざし国内外で演奏してきた。部落出身者として自己認識するかれは、「市民との協働のまちづくり」をめざしK地区で活動する。
Tさんと仲のいい友達2人は、子どものころK地区に移り住んだ。
同じ学校に通い、ともに成長した3人が同窓会を開くにあたって交わす会話。
同窓会を人権センターでやろうと提案したところ、「人権センターでやるのはこわい」といった同窓生がいたという。
部落差別は人間に貼り付けられた差別である。
「こわい」人間が集団でいる被差別部落のコミュニティや関連施設が、恐怖の感覚を引き起こさせる空間としてイメージされているのだ。
「こわい」と同窓生が反応したことについて、Tさん以外の2人は否定することもない。
「相手を変えることは大事だけど、それよりも自分が変わったほうが楽」
「何か言われてもスルーできるような体力をつけておくことは大事」
2人に対し、Tさんは言う。
「(差別発言を)流すんじゃなくて、(部落差別の問題を)相手に理解してほしいし、そのために闘いたい」
▼青年の会話に顕れた非対象性
友人のリアクションには、監督も驚いたのか、「少し第三者目線という印象を感じるけど、実際に部落問題にはどう関わっていくの?」とかれらに声をかけている。
K地区でともに成長した次世代の若者たちは、部落差別とどうかかわっていくのか?
Tさんの友人は語った。
「じぶんにできることはTくんに協力していきたい。」
つまり部落差別は「他人事(ひとごと)のはなし」であった。
K地区に引っ越してきたが自分は一般民である、という意識をもち、Tさんを「他者」として認識していた。
(そのことは「K地区に住んだことがあるから僕もそう思われるんかな」と〈不安〉を口にすることでわかる。)
あまりにもちがう意識の構造に慄然とする。
▼被差別部落はスペクトラム
『被差別部落の真実2 だれが部落民になったのか』で小早川明良氏は「被差別部落(民)はスペクトラムである」と語る。
〈被差別部落と一般民は、元来スペクトラム(連続体)の状態にある。部落差別は、それを必要とする者が、部 落と一般の境界線を引くことにこそ目的がある。「正常と異常」「日本人と日本人のような人、日本人ではない人」との間に境界を作るのと同じように。〉(『被差別部落の真実2』32頁)
〈スペクトルである被差別部落(民)という存在に線を引き、空間を設定し、標本のようにピン止めし、管理統 治するのが差別者の行為である。統治は国家権力による統治だけではなく、権力を主体化する自己の統治として作用する。〉(小早川明良[どのようにマイノリティは存在しているか]より)
〈差別する・される〉関係が社会の構造としてあり、部落と一般の境界線を引くのはマジョリティの側である。
3人の青年の会話から、青年2人は一般民(非被差別部落民)として部落民との境界線を引いていることがわかる。満若監督みずから「ちょっと第三者的じゃない?」と声をかけるけれども、かれらの態度は明確である。
一見、和気あいあいと語りあっているように見えるシーン。
観客がみたのは「互いに承認しあう対等な3人」の関係ではなく、「部落差別をする側・される側」という権力関係が、かれらの間に発生している情景である。(*1)
▼矛盾
はっきり言おう。
映画後半に登場した宮部は、圧倒的な差別者の声を味方にして「はなし」をした。
差別者はいまだ反省せず、部落探訪をつづける。
「啓発映画ではないので…自分でかんがえてください」と監督は観客になげた。
しかし、社会のヘゲモニーを握っているのは差別する側なのだ。これが現実だ。
それに対抗する批判や思想がなければ、「宮部にも共感する」というメッセージを観客が受け取るのは当然で、ラストシーンもそれにそって流れるのは必然だろう。
「(差別発言を)流すんじゃなくて、部落問題を相手に理解してほしいし、そのために闘いたい」
そう語るTさんは、「差別する・される」関係を厳然させている社会の構造を変革するために闘うと言っていると、筆者は理解する。
対して友人は、Tさんに「(友人として)協力する」と答えた。
それは、被差別部落民が背負ってきた、またこれからも背負わねばならない生活世界を、共に背負うことはしない(『被差別部落の真実2』192頁)、という意味である。
にもかかわらず、シーンの終わりで3人はブルーハーツの『青空』を唱和する。
「生まれたところや皮膚や目の色で いったい何がわかるというのだろう」
「こんなはずじゃなかったろ 歴史が僕を問い詰める」
ここに登場した青年たちも大好きな歌なのだろう。ウクレレも用意されていた。
しかし、「そっち側じゃない」と境界線を引いておきながら差別へのプロテストソングを歌うシーンには、違和感しか感じない。
思わず、ふざけんなと言いたくなるこのシーンは、宮部がとうとうと詭弁を語る映像とダブる。
冒頭で紹介したドキュメンタリー『54色のいろ鉛筆』でも子どもを未来に送り出す思いを唄うシーンがあった。
しかし、同じ監督の撮影なのに、まったく位相がちがう。
それはなぜなのだろう?
だが、本作品のレビューには「『青空』を歌うシーンに感動した」と寄せている人が少なくない。
差別は、マジョリティを感動させる道具ではない。
インタビューで「観た人にモヤモヤして帰ってほしい」「揺らぎを感じて」と監督は語っている。
観客が「モヤモヤする」のは、この映画で自己の差別意識を確認し、そこに安住している自分を許せたから。そのときちょっとした罪悪感(のようなもの)を感じたからではないだろうか。(了)
*1 小早川明良氏は、「被差別部落民という(人間の一部の)アイデンデンティティは、他者との関係において形成される。それは見做されるという関係性論ではなく、またヘーゲルの言うような『互いに承認しあう対等な2人』の関係ではなく、いわば権力のミクロな磁場においてである。」と述べる。
*追記 差別が張り巡らされ、むき出しになっている社会状況を、差別事件の主戦場は主にネットの中にあるとの提起が本映画でなされているように見受けられる。それについては別の機会に譲りたい。
*追記 広島部落解放研究所ホームぺージには、『私のはなし部落のはなし』をめぐって、『被差別部落の真実』https://onl.tw/s1eyMsJの著者・小早川明良氏が寄稿している。厳しい文章には、「部落差別とはなにか」を考えるに重要な論点が含まれている。全文はhttps://buraku-study.org/essay.phpを参照いただきたい。
]]>
被差別当事者が思いを語る声。近隣住民たちが差別感情を吐露する声。それらが輻輳する『私のはなし 部落のはなし』(満若勇咲監督)。
映画後半に登場するのは、鳥取ループ(ブロガーのニックネーム)を名乗る宮部龍彦(以下、宮部)である。
前回に引き続き、本連載は筆者(多井)が担当する。
▼差別をビジネスにする男
宮部が『全国部落調査・復刻版』をネットで販売告知したのは2016年(*1)。
「アマゾンで全国部落調査の予約を開始。熱烈な予約注文をお願いします」
「全国5360余の部落の当時の地名に加え、現在地名もできる限り掲載」との煽り文句で売り出そうとした「本」は、一冊926円。
明確に差別図書「部落地名総鑑」(*2)を意識して、全国の被差別部落の所在地を晒すという差別行為を、目的意識的に行おうとした。
「こんな差別本を売ること自体が犯罪行為!」との教育関係者たちの速攻抗議により、アマゾン、紀伊國屋、宮脇書店グループは取扱い中止。つづいて参議院法務委員会で、有田芳生議員がネット上の部落地名リスト発行を中止させるべく緊急追及。
販売を封じられた宮部は「そこまでされるならこうするしかありません」とコメントに書き込み、「全国部落調査」のデータをネット上にさらした(*1)。
その経過は「ウエブ連載178回『全国部落調査』なる差別犯罪本」に書いた。
(http://rensai.ningenshuppan.com/?eid=197)
宮部に対する訴訟の地裁判決は2021年9月。復刻版の出版差止めとネット上のデータ配布禁止や二次利用禁止、原告235名うち219人に合計488万6500円の損害賠償を認めた。判決を不服として原告・被告とも控訴。
▼「差別はない」といいながら「部落探訪」する男
宮部は「部落探訪」と称して、全国200〜300地区の被差別部落を撮影、「ここが部落」と動画サイトにアップしてきた。
とくに解放運動が組織されていない地区、抗議の声をあげにくい地域を狙う点に、その犯罪性と差別的心性が象徴されている。
アップした動画の再生回数は多いもので200万回、広告収入で差別をビジネスにする男だ。
宮部は「部落の現在地名」「近くのバス停や公共施設名」「その地域に多い苗字」をマップ上にピン止め、さらに被差別部落の関係者の情報を掲載するページをつくり、住所・氏名・電話番号を書き込んだ。
(活動家はカミングアウトしているのだからいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。だがその個人がさらされた地域には友人や親族が暮らしている。)
*くわしくは下記のブログ参照。
(*2)第181回 部落地名総鑑糾弾闘争
http://rensai.ningenshuppan.com/?eid=199
『私のはなし 部落のはなし』では「部落探訪」に出かける宮部の車に監督が同乗してカメラをむける。
許せないという批判があるのは当然のことだろう。ただドキュメンタリー作品には、どう見ても共感できない困った人物が多く登場するのは事実であるし、宮部の差別犯罪をとりあげることじたいはいいと筆者は思う。
しかし、映画は宮部の妄説を垂れ流しただけであった。
▼凶器を売る男
1975年に発覚した差別犯罪本・部落地名総鑑は、「本」の体裁をとっているものの、内容は凶器なのだ。2016年、宮部がネット上に拡散した部落地名リストも部落出身者の命を奪う凶器である。スマホさえあれば誰でもアクセスできる。
『私のはなし 部落のはなし』で聞かされた宮部の独白は、47年前と変わらない部落地名総鑑を作った興信所・探偵業者とまったく同じである。
〇宮部 「部落地名リストを公表した僕が悪いのではなく、それを使う人が悪い」(2022年)
〇探偵業者「情報作用とは真実を探求し、真実を伝達する作用である。部落差別は存在しており未解放地区はあるのだから、その真実を報道することがなぜ悪いか」(1975年)
度し難い差別者の屁理屈は昔から変わらない。(*3)
「部落差別というのはないんです、デマ」「隠すことが差別を助長し、差別の原因になっている」というかれの虚言には、何ひとつ科学的な根拠も正当性も論理整合性もない。
だが、映画『私のはなし 部落のはなし』では、宮部の虚言に対する明確な反論を、誰にも語らせていない。
(*3)第182回 引き続き差別犯罪本「全国部落調査」について
http://rensai.ningenshuppan.com/?month=201603
▼差別を愉しむ男
「探訪」から場所を変え、くいあらためない差別者はベンチに座り、妄説(詭弁とウソ)をしゃべり続ける。
観客はそのうち、宮部の言っていることにも一理あるんじゃないかと思うようになる。
配給会社が紹介したレビューにつぎのような投稿がある。
〈映画で、ある人物は、「この名簿で結婚が破談になる人物が出たら、あなたその責任が取れるんですか?」と宮部龍彦に問いかけたそうだが、『それは差別した本人が悪いのであって、情報を載せた私が悪いわけではない』と開き直ったと憤慨していた。映画の後半、宮部龍彦本人が登場。実際に彼が喋っている話を聞くと、「決して賛同はできないが、話が通じない人間ではない」と感じた。〉
ほかにも「(宮部の行動を)理解できなくもない」といった投稿がみられた。
差別の凶器『全国部落調査』をばらまく行為は、被差別部落に対する予断と偏見(人種・民族がちがう、穢れ意識など)にもとづく差別意識が確固として存在しているという厳粛な事実=社会環境のもとで、部落出身者を苦しめ、命を奪う。
映画公開前後の監督らによるインタビューは、解放運動を描くものではないと前置きして、「部落差別と向き合った」と語っている。
その物言いが本当に嫌だ。
そもそも不平等で非対称な関係性を無視して「むきあう」ことなどできるわけがない。
しかも、マジョリティの差別言説(歪曲とデマ)をとうとうと流しながら、それに対する反論を語らせなかった。
運動を描くのが目的ではない、「正しさ」を描こうとしたのではないというのは、苦しまぎれの言い訳に過ぎない。
▼映画『ゲッペルスと私』(2018年 オーストリア)
話は少し横道にそれる。
たとえばナチスの加害者がえんえんと自分の行為を語る映画はあるのだろうか?
映画にくわしい作家・編集者の佐藤眞さんに尋ねてみた。
〈ナチスのホロコーストに加担した当事者が語るという歴史研究的なスタンスがあります。
戦後70年も経って反省していない人がいる、それ自体が批判の対象となっているということです。〉
佐藤さんがその例としてあげた『ゲッペルスと私』。これは筆者も観た記憶がある。
ナチス政権ナンバー2のゲッペルス(1945年自殺)の元秘書が、69年前の記憶を独白するドキュメンタリー。
大衆をナチス支持に煽動したゲッペルスの姿を、100歳を超える彼女が記憶から鮮やかに取り出してみせる。
秘書として重要文書もタイプした彼女が〈ホロコーストを私は最後まで知らなかった〉というのは、はたして真実か?
(映画『ゲッペルスと私』より)
彼女へのインタビューは30時間を超えたという。
監督は「インタビューの中で彼女に論評を加えたりしないという約束で撮った」という。
ただし、彼女の言い分をそのまま流すことにならないよう、アーカイブ映像を対比させた。
彼女の独白の合間に当時のゲットーや収容所の未公開映像が織り込まれる。
監督は語る。「映画の冒頭、観客は彼女を好ましく思うだろう。中盤、ちょっと確信が持てなくなる。最後には、彼女に対する自分なりの答えを見出さなければならないと感じるだろう」。
映画には彼女を追及するシーンはない。
「悪の凡庸さ」(命じられた仕事を実行したと語るアイヒマンを評したハンナ・アーレントの言葉)を、「悪」の側の独白から考えさせることが、監督の意図だからだ。
元秘書の独白とアーカイブ映像との対比によって映画は進んでいく。
やがて、彼女が話す〈記憶〉は事実とつじつまがあわず、自分に都合よい〈記憶〉を選びとって語っていることが明らかになる。
観る側は、「人間はどんな言い訳をしながら差別に加担していくか」を追体験させられ、その結果、600万人もの犠牲者を生んだ事実を痛感する。
そして、「自分ならどう行動するか」を考えさせられる。
▼ある未公開映像
『私のはなし部落のはなし』に話を戻す。
映画の後半は、監督自身が宮部の〈妄説〉に呑みこまれてすすんでいくようだ。
映像は強烈だ。
裁判で有罪となった宮部がとくとくと「自説」を語り、「部落探訪」する現実をみせつけられる。
「おそるべし、宮部」と胸中つぶやいたところで、「いや待てよ、そういえば」と思い起こしたのが、もう一つの宮部のドキュメンタリー映像である。
2016年、宮部の自宅を訪れ、その行為について直接本人に問いただした未公開映像が存在する。
筆者は一度見ただけであるが、そのとき、筆者がメモ書きした感想を残している。
<鳥取ループ・宮部龍彦突撃取材>と勝手に題して、その一部を紹介する。
〈2016年4月。日曜日の朝9時。宮部の自宅マンションを訪れた男がいた。施錠された1階ホールから部屋番号をピンポンする。
「どちらですか」(宮部)
「〇〇〇の方から来ました、高橋と申します」
ロック開錠。宮部の部屋の玄関にあらわれた男は名乗り、宮部は驚く。
「えーっ? 〇〇〇から来たと言ったんじゃ…」(宮部)
「〇〇〇の方から来たと僕は言ったんですが」
呆然とする宮部の表情が、どアップに映し出される。
いっぽう、男は表情をまったく変えずに続ける。
「あなたは被差別部落の地名をネットでばらまいているよね。何でそんなことするのか聞きたいんだ。僕らはヘイトスピーチ、差別と排外主義を、絶対に許せないと思っている」
*** ***
部落差別(部落民)は昔から「インビジュアル、ビジュアルマイノリティ」といわれてきた。
部落差別とほかの差別の違いは、肌の色や国籍、性別、障害の有無といった違いがないこと。つまり<差異>がないから、一般社会に入れば、その人が部落出身であるかどうかはわからない。
部落差別は、封建的身分制のもとでの賤民居住地(土地)を手掛かりに、近代・明治期以降、権力が意識的にそれを組み替え、作り上げた。法制度上、差別を許さないタテマエの現代社会では、差別されるメルクマール<差異>がインビジュアルになっている。
だからこそ、部落出身かどうかを特定するために、身元調査が“必要”なのであり、それを許さない取り組みも、明治から今日まで続けられている。
*** ***
「あんた(宮部)がやってる地名暴きは部落差別なんだ。」
問い詰められた宮部は、蒼白になり、目は泳いでいる。
問い詰めたのは、反差別カウンター「男組」リーダー(故・高橋直輝。沖縄高江ヘリパット基地建設に反対して逮捕。半年拘留され仮釈放の後、2018年病気療養中に死す)であった。
そのつづきは省略する。
ラストは、「あんた、最低のクズだな」との高橋直輝の一言で衝撃をうけたのか、真っ青になった宮部のアップで、映像は終了。〉
新宿でのヘイトスピーチデモに抗議する高橋直輝(写真・島崎ろでぃ)
▼観る側がどんなメッセージを受け取ったか
思わず長くなってしまった。
「差別者の弁明など被差別当事者に聞かせられない。大事なのは差別行為を止めさせること。超圧力・非暴力でね」と語っていた高橋さんの笑顔が、筆者には忘れられない。
次回は、映画『私のはなし部落のはなし』のラストシーンを通して、筆者がこの作品からどんなメッセージを受け取ったかをのべることにしたい。(以下、次号)
]]>
(監督・満若勇咲)
若者から「オールロマンス闘争」を経験した京都のおばあちゃんまで、性別年代を問わずインタビューを重ねた。
被差別部落出身者の「私のはなし」。一般側(非被差別部落)が語る「私のはなし(差別感情)」。
それらを「まるごと」並べて、部落差別の現在をうつしだそうという試み。
本作品にはすでに多くのレビューが寄せられているし、監督のインタビューも読むことができる。
広島部落解放研究所ホームぺージには、『被差別部落の真実』(https://onl.tw/s1eyMsJ)の著者・小早川明良氏が寄稿している。
厳しい文章には、「部落差別はどのように現れているか」を考えるに、重要な論点が含まれている。
全文は下記URLを参照していただきたい。
https://buraku-study.org/essay.php
筆者(多井)は本作品を6月中旬にみた。今号より数回にわたって、筆者が感じたことを述べていきたい。
【大都市部落 京都S地区】
▼変貌する大都市部落
この映画に登場するのはおもに、三重県M地区、京都府S地区、大阪府K地区の人びと、そして地区外の近隣住民である。
京都府S地区は近世賤民集落に由来をもつ。江戸時代に「役人村」と呼ばれたこの地には刑吏や警固の「役」(今でいう警察官の仕事)をつとめる人々のコミュニティがあった。
「役」は封建身分に付随する夫役・労役のこと。武士は軍役。百姓は年貢を米で納める。
江戸時代には40もの呼称と職掌をもつ被差別民がいたが、徳川幕府を打倒した明治政府はいわゆる「賤称廃止令」(1871年)により、「以後、職業は自由」との布告を発する。
かんたんにいえば、「これから資本主義でやっていくので身分の枠を外します。自由な労働者になって働いてください」ということ。
刑吏や警固、準軍事役を担い、報酬をうけていた旧被差別民の多くは、苦境に陥った。
▼京都S地区
日本有数の大都市京都。
交通至便な立地にあるS地区は、明治以降、仕事をもとめてやってきた諸階層の人びとを巻き込んで、人口は大幅に増加し、近代都市型部落としてS地区は変貌していった。
S地区は人口1万人を超え、周辺の村や町に拡がり、面積は25万平方メートルに拡大した。
甲子園球場が6個以上入るといわれる地域は、大型の近代都市型部落へと変貌する。
産業勃興のなかで、経営者として成功する人があらわれる一方、零細工場の低賃金労働者、あるいは日雇い人足、人力車夫などに従事する人がうまれる。
1890年ごろのS地区は、富裕層と貧困層に二極分解し、仕事の七割以上を「雑業」が占める町になっていたという。
▼オール・ロマンス事件
S地区の男性と結婚し、長く暮らしてきた高橋さん。
彼女はオール・ロマンス事件をきっかけに高揚した部落解放運動にまい進してきた。
オール・ロマンス事件は、1951年に発表された雑誌「オール・ロマンス」に掲載された小説「特殊部落」に端を発した。
部落解放全国委員会(水平社の後継)はこの小説を差別小説として糾弾。この小説の作者が京都市職員であったことから、京都市当局の差別行政を糾弾する運動に発展した(実際は小説の舞台は在日朝鮮人が多く暮らす地区であったがここではおく)。
部落差別は観念ではなく、部落の劣悪な生活実態の反映である。
それを放置しているのは行政差別であり、改善は行政の責任である。
オール・ロマンス糾弾闘争は、そのことをみとめさせた画期的な闘いだった。
この闘いは、差別行政糾弾闘争として、全国の被差別部落に広がっていった。
映画『私のはなし 部落のはなし』に登場する高橋さんも、毎晩集会に出かけては仲間と議論し差別行政と闘ってきた。
いっぽう、高橋さんの夫は、妻が運動とかかわることをいやがり「しょっちゅう喧嘩した」という。
きつい仕事に就き、理不尽な差別をうけてきた夫が「部落(差別)なんかない」という。
部落差別の苛烈さを物語る言葉である。
▼S地区が抱える問題――押し寄せるバブルと高齢化の波
高橋さんが暮らすS地区の団地は交通アクセスがよい立地にある。
バブルの絶頂期には「再開発」の名目でS地区の地上げをねらう組織があらわれた。
「部落の土地は安い」。だから安く買いあげた後に「地区(部落)指定」をはずし、高層マンションや商業施設を建て、儲けようともくろんだのである。(「地区指定」を外して地上げが行われた所がある。)
映画に登場する山内政夫さんは、地上げ・再開発に対抗して、住民側からの街づくりをしていこうとするメンバーの一人だ。
1899年に部落の有力者、明石民蔵(あかし たみぞう)らが設立した柳原銀行の建物を保存し、地区の歴史を残そうと柳原銀行記念資料館としてオープンした。
明石民蔵は、この地区に展開された自主的改善運動のリーダーの一人だが、ただし、明石がこの地区に流入する困窮者層を「怠惰」「自助努力が足りない」と見ていたことも、付け加えておかねばならない。
かれには、被差別部落に「吹き寄せられるように」流入した人々が「雑業」で日々の糧(かて)を得る現実が、資本主義のメカニズムによって構造的に生みだされていることが見えなかった。
▼被差別部落の「再開発」 ジェントリフィケーション
S地区は、2023年に京都市立芸術大学が移転・開校することになり、S地区の改良住宅は解体がすすんだ。
京都市に限らず、世界各地のあらゆる都市にジェントリフィケーションの大波が打ち寄せている。
行政主導のもと、貧困層が多く住むエリアが「再開発」の名の下で売却され、商業施設や裕福な層が住まうタワーマンションに様変わりしていく。
元の住民は、アパート解体撤去で立ち退かされ、あるいは家賃の高騰で出ていかざるを得ない。自宅をもつ人も固定資産税が跳ね上がるため「自発的に」立ち退く。
ジェントリフィケーションは、低階層の人々の住まいのみならず、西成あいりん総合センター閉鎖をはじめ、差別撤廃運動の中心となってきた本拠地施設つぶしにも利用されている。
京都だけでなく、大阪府内の解放会館も、のきなみ「一掃」されつつある。
「老朽化」「耐震性がない」「衛生環境の悪化」が表向きの理由だが、再開発の名のもとで被差別部落住民や低所得者層を生活拠点から放逐し、運動拠点や隣保館などを閉鎖している。
それが、現在進行中の被差別部落に対する政策なのである。
高橋さんが、慣れ親しんだ住まいから引っ越さねばならないのは、このジェントリフィケーションが背景にある。
(映画監督は「部落問題の解決を求めようとして制作したのではない」というが、〈部落差別の今をまるごとみつめる〉ならば、S地区にいま起きていることの背景を、つかんでみせてほしかった。)
▼住民が引っ越し明かりの消えた市営住宅
(「改良住宅」の暮らし・京都S地区の記憶と記録・龍谷大学プロジェクト2020年要旨より)
▼引っ越しの朝 なぜ愛する居住地を出ていかねばならないのか
映画『私のはなし 部落のはなし』の1シーン。
引っ越しの朝。眠っていた高橋さんは起こされる。
支援員(行政職員だろうか)が、暮らしてきた彼女の部屋から次々に荷物を運び出していく。
呆然とみつめる高橋さんの表情に、胸を衝かれる。
映画は3時間25分。昔からの仲間との語らいも含め、高橋さんの撮影時間は相当長いのだが、「高橋さんの暮らす部落に今起きていること」の本質は、描かれない。
それゆえ観客には、高橋さんの哀しみの意味がわからない。
冒頭に紹介した小早川明良氏のエッセイにはこう書かれている。
「S地区の住民は、なぜ、愛する居住地を離れ、移転しなければならないのか。慣れ親しんだ地域を失う彼女の悲しみはなにゆえなのか。問題の本質が一切描かれない。」(小早川明良)
筆者が映画館に行ったその日、映画終了後の観客の微妙な空気。
「見終わった後、もやもやしてほしいんです」と監督はインタビュー(『出版人・広告人』)で語っていたが、
観客が「もやもや」を感じたとすれば、それは何か。
この映画のラストシーンと直結するその話は、次回に譲りたい。
(この項つづく)
]]>
■〈部落史論争〉のなかで曖昧になったこと
被差別部落とはなにか?
部落差別が今日もきびしく存在しているのはなぜなのか?
この問いの答えは今日に至るまで明らかにされていないと、『被差別部落の真実2』の著者・小早川明良さんはいう。
部落問題研究が混迷する理由のひとつとして、近現代の被差別部落を長年調査研究してきた社会学者・青木秀男さん(社会理論・動態研究所所長)は、つぎのように語った。(ウェブ連載225回で書いたが再度かかげておく。)
「1990年代に入って、部落差別の起源をどうとらえるかをめぐる論争が、さかんに繰り広げられるようになりました。しかし、論争の大きな傾向として、学者および解放運動関係の方たちの議論は、 今日の被差別部落の本当の起源というものを、どちらかといえばあいまいにするような方向に進んでいるような気がしてならない」 (青木秀男・広島県同和教育研究協議会研究大会講演 2001年)
■中世賤民史と部落差別中世起源説
被差別部落と部落差別の起源をどうとらえるかをめぐっての論争がくり広げられるようになった1990年代。
近世政治起源説(徳川幕府が賤民身分を制度化し、それが今日の被差別部落の起源となったとする)に対しても、いろいろな批判がだされた。
徳川幕府が賤民制を制度化したとする近世政治起源説にかわって主張されるようになったのが、「中世起源説」である。
「中世起源説」では、貴族や民衆のあいだに穢れ忌避観念がひろまった中世に、ケガレのキヨメを専業とする社会集団が卑賤視されるようになったとする。
ケガレのキヨメにかかわる様々な社会集団(河原者、散所、坂の者など)が10世紀ごろに登場していることは、中世賤民史研究の中で、明らかにされている。
中世は、支配層の浄穢観念が肥大化する中で、河原者、坂ノ者、夙(宿ノ者)をはじめ、様々な呼称と職掌をもつ被差別民衆(中世非人と総称される)が登場。
ある者は宗教者として寺社や荘園とむすび、ある者は山民、またある者は海民として日本列島のみならず、遠く中国・朝鮮・東南アジアの海域でも交易活動した。
ただし、中世社会の賤民は、徳川幕藩体制が設定した近世被差別身分とは、ダイレクトにはつながらない。
つまり、かれらは「身分」として設定されていたのではない。
※網野善彦(あみの・よしひこ)氏をはじめとする中世史研究のなかで、中世社会に存在した多様な賤民の姿が活写された。ただし、網野氏は中世史に限定してのべており、近代以降の部落問題について言及しているわけではない。
■「現代社会が部落差別を生みだしている構造」が置きざりに
「近世政治起源説にかわり、中世起源説が主張されるようになった……、被差別部落のほんとうの起源があいまいになった」と社会学者の青木さんがのべたのは、どういう意味だろうか?
私なりに受け止めていることを補足したい。
〇これまでの歴史で、社会の底辺に位置づけられ、差別されるコミュニティや集団が存在したことは事実。だが、時代社会のあり方によって、被差別集団の置かれている意味がちがう。
〇中世賤民史、近世賤民史に光をあてる研究は大切だが、そこから現代社会に部落差別がきびしく存在する理由は解けない。
〇なぜなら、現代の部落差別は、徳川時代の賤民身分に対する差別がたんに持続しているのではなく、残存しているのでもない。まして中世賤民への卑賤視が続いているのでもない。
〇「近世封建身分差別が残った」という人も、「中世の穢れ意識が賤民をうみだした」とする人も、明治以降、産業資本主義が進展するなかで被差別部落が編制されたプロセスをみていない。
〇けっきょく、「近世だ」「いや中世だ」といった部落史論争のはてに、近世に起源をもつ部落が、明治以降の産業社会のなかで組み替えられ、近代社会で新たな機能をはたすようになったプロセスが、置き忘れられ、議論されないままである。
近代の被差別部落と資本制の関係についての考察が欠落しているのである。
それが、今日に至るまで、日本社会に部落差別が存在する意味が解けない理由であると思う。
(「賤民史と現代の部落問題は別物」というのはそういう意味である。)
被差別部落の人びとに対する世間の認識は、さまざまである。
「何かしら違う」「異民族」「こわい」「皮と肉などケガレ処理にかかわる仕事」など、どんなデマでも差別したい理由となる。
そうしたデマは差別行為に用いられ、部落差別を生みだす社会構造(正確にいうと生産関係)をさらに強固にする。
次回は、幕藩体制国家が賤民制を設定した目的、近世賤民コミュニティが近代に入ってどのように変化していったかをかんがえてみたい。
参考文献 小早川明良『被差別部落像の構築 作為の陥穽』『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』
(2週間ぶりに更新となりましたことをお詫びします。この項つづく/多井みゆき)
]]>
■維新・石井章参議院議員の部落差別発言
前回の冒頭トピックでのべた、封建時代の身分差別と近代社会の部落差別の関係については、次週につづけたい。
今回のトピックは、15日に飛び込んできた維新・石井章参議院議員(国会議員団両院議員総会長)の演説における部落差別発言について。
20日発売の『週刊ポスト』で発言詳細が掲載されるとのことだが、石井議員は、維新元代表の橋下徹氏について、「差別をうける地区」の出身と言及。
被差別の出自をもち、家庭や学習環境の苦しい中で努力して弁護士になり、立身出世を遂げた……と褒めたつもりであろう。
10年前の『週刊朝日』差別記事で、執筆者の佐野眞一氏が書いている。
「恵まれない環境で育ったがゆえにそれを逆バネとした自負心からくるエリート実力主義」
つまり、家が貧乏だったことや部落出身という出自が、橋下氏の<ゆがんだ性格>をもたらしたと結論づけた。
本人のみならず、すべての被差別部落出身者に対する蔑視と嫌悪がむきだしの文章だった。
■「褒めているからいい」のではない
石井章は、厳しい境遇から這い上がり、「立身出世した」と褒めたからいいと思っているようだが、「努力して立身出世したからえらい」という裏には、「努力しない部落民は差別されて当然」という意識が前提にある。
こうした言説の差別性と社会的意味について、筆者は、このウエブ連載上で、2011年から12年にかけて、30回以上とりあげて批判してきた(バックナンバー参照)。
「出自」と人格を結びつけて攻撃した『週刊朝日』の差別キャンペーンの問題性について、作家の宮崎学さんと対談し、書籍にまとめた。
そのなかで、宮崎学さんはつぎのように語っていた。
自分がどういうところに、どういう親の下に生まれたかというようなことは、その本人にとってはどうしようもないことなんだ。
「お前はあそこの生まれだから悪い」、「あんな親から生まれたからダメなんだ」といわれては、どうしようもない。
それが被差別部落にかかわるような場合には、同じく抗弁できないすべての部落出身者を貶めることになる。
(『橋下徹現象と部落差別』 宮崎学・小林健治より)
今日、被差別部落に対する差別が厳存するもとで、地名や個人名をあげて貶める(もちあげることも同じく差別)ことの愚かさ、部落差別を利用した卑劣なキャンペーンは、絶対に許せるものではない。
さて、本題【メディアの差別表現の現況と課題】に戻ろう。
テレビ番組が公然とヘイトスピーチを流すようになった問題をとりあげる。
東京MXテレビ放送・DHCテレビ制作「ニュース女子」である。
【テレビ番組でのヘイトスピーチ】
2017年1月、東京MXテレビ「ニュース女子」が、「沖縄基地反対派はいま」と題し、ヘリパット基地建設反対運動をろくに取材もせず、悪意をもって取りあげた。
「反対派は職業的で日当をもらっている」
「韓国人がなぜ反対運動に参加するのか」
聞くに堪えない嘘とデマ、差別と偏見に満ちたこの番組は、名指しで中傷をうけた「のりこえネット」の辛淑玉さんの訴えなどもあり、BPO審議対象となった。
このような一線を越えた醜悪な番組を、公然と公共電波にのせたことの犯罪性と差別性は、徹底的に糾弾されてしかるべきだ。
2022年6月3日、「ニュース女子」で名誉を傷つけられたとして「のりこえねっと」の辛淑玉共同代表が損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は、一審判決を支持し、DHCテレビに550万円の支払いと、謝罪広告の掲載を命じた。
判決では「在日朝鮮人である辛氏の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない」と指摘、ヘイトスピーチを誘導する危険性があったと認めた。
番組司会者・長谷川幸洋氏への損害賠償請求は認められず、長谷川氏の辛さんに対する請求も認められなかった。
番組制作のDHCテレビ、番組司会者の長谷川幸洋ともども居直っている。
※番組「ニュース女子」は、化粧品大手のDHCの子会社DHCシアターが制作する「ニューストーク番組」。このDHCシアターと親会社のDHCの両方で会長を務めている吉田嘉明は、同社のホームページで在日コリアンに対する差別意識むき出しのデマと差別煽動を行っていることで知られる。そしてDHCは、東京MXテレビの最大のスポンサーでもある。
現下、沖縄にたいする構造的差別のおもな内容が、押し付けられた膨大な米軍基地の存在であり、おもな特徴は、「土人」「シナ人」発言に象徴される差別表現であることは、いうまでもない。
この沖縄にたいする差別は、日本における在日韓国・朝鮮人差別、障害者差別、アイヌ民族差別、部落差別など、あらゆる差別と地続きである。
]]>■被差別部落の本当の起源
新自由主義が吹き荒れる昨今の政治的・社会的な状況のなかで、残念ながら部落差別も、根強く進行している。
社会学者・青木秀男さん(社会理論・動態研究所所長)は、近現代の部落問題を長年研究し、フィールドワークを行ってきた。
厳しい差別の現実を考えるとき、明治期以降の近代の部落差別をめぐる経緯がどうであったかを学ぶことは、今日的に大きな意味がある、と青木さんはいう。
今回は、部落問題をめぐって青木さんが講演で語ったことを紹介させてもらいつつ、それを考える糸口としたい。
被差別部落および部落差別の起源をどうとらえるかをめぐる論争が、さかんに繰り広げられるようになったのは、1990年代に入ってからである。
論争の中心は、「被差別部落の起源がいつだったか」ということをめぐって行われた。
近世政治起源説(徳川幕府が賤民身分を制度化し、それが今日の被差別部落の起源となったとする)に対しても、いろいろな批判が出された。
青木氏は、「論争の大きな傾向として、学者および解放運動関係の方たちの議論は、 今日の被差別部落の本当の起源というものを、どちらかといえばあいまいにするような方向に進んでいるような気がしてならない」と感想をのべている。
(広島県同和教育研究協議会研究大会での講演 2001年9月)
■封建時代の<部落差別>と近代社会の部落差別の関係
「(感想の内容を)1点だけのべるとすれば」として、青木氏はつぎのように話す。
「わたしは、被差別部落の歴史的な起源というのは、江戸時代つまり幕藩体制期の初期に求められるというふうには考えております。しかし、江戸期を通じて存続し、強化された、いわば〈部落差別〉と、明治期以降の近代社会における部落差別を、どのような関係において理解すればいいのか。つまり、前近代の差別が、近代にどのように残存し、組み替えられ、新たな機能をもって近代の差別として持続していったのか。そのことについての議論があまりみられません。わたしは、前近代の差別と近代の差別を、たんに『残存』というように直結してとらえることはできない、そういうふうに思っております。」
近世に起源をもつ部落が、明治以降に組み替えられ、近代日本の社会で新たな機能をはたすようになった。
現代の部落差別は、徳川時代の賤民身分に対する差別が単に持続しているのではなく、残存しているのでもない。
その点があまり議論されてこなかったと青木氏はいう。
■職業と移動の自由がもたらした被差別部落の変化
徳川時代から明治になり、職業と移動が自由になった。(身分・職業・居住地の一体化の崩壊)
1871年、明治政府がだしたいわゆる〈解放令〉は、賤民身分制の廃止を法的に宣言した。
と同時に〈解放令〉は、旧時代の被差別民が担っていた「役」(役の務めに対する俸給があった)をなくし、「これからは勝手にしろ」というものでもあった(*くわしくは小早川明良『被差別部落の真実2』参照)。
人は仕事をもとめて移動する。
この点がポイントである。
明治維新の後、大量の人が職をもとめて移動する。
旧賤民集落は、仕事を求めてやってきた生活困難層を巻き込んで拡大し、変貌していく。
青木さんは、封建時代の被差別部落(正確にいえば旧賤民コミュニティ)が、明治に入ってどう変化したかを、とくに人口と仕事に注目している。
どういうことだろうか。
ひとつの事例としてあげられているのは、広島市内の被差別部落A町の明治期から戦後期つまり近代から現代にかけての変化である。
現在の被差別部落A町は、近世にさかのぼると革田(かわた)身分の集落であった。
藩の命をうけ、刑吏・警固・犯罪探索をつとめていたとされる。
(広島県における明治初期の被差別部落は約680にのぼるとされる。)
江戸時代初期の広島には、1599年に築城された広島城を東西に貫く西国街道があり、街道の東西の入り口にそれぞれ被差別部落が位置していた。
西に位置づいた部落は、現在のA町と重なっている。
その意味でいうと、A町は近世につくられた被差別部落ということになる。
明治以降、A町の人口は、大きく膨らみ、周辺の町に被差別部落が拡大していく。
A町は1871年889人から1933年には5700人、原爆が落ちる直前の1945年には6037人と、6、7倍に人口が増えている。
A町の人口増加は、軍需にかかわる仕事を求めて、流入してきたのである。
周辺の農村・漁村などから、困窮した人たちが都市・広島に入り、その一部がA町に住まうようになる。
いっぽう、広島には、近世に起源をもたず、あきらかに近代に形成された被差別部落がある。
(『被差別部落の真実2』で小早川明良さんがそのプロセスを検証している。)
A町の人々の人口や仕事をみると、いまのべた近代に新しく形成された都市部落と、ほとんど同じ経緯をたどっている。
つまり、A町の起源は近世にあるけれども、実質的には、そのような近代部落と同じく、近世に再編成されたのである。
■近代都市部落の特徴
世間はA町を、「江戸時代の被差別身分の系譜をひく人たちが代々住んでいる部落だ」というまなざしで見ている。(とくに戦前は、露骨な賤称語をもちいての差別は日常茶飯事。)
ところが、明治・大正・昭和期のA町の実態をみると、軍事都市を築くため大量の労働力を必要とする広島に、仕事を求めてやってきた人々の一部が、「吹き寄せられてきたかのように」集まり、下層労働力のプールを形成していることがわかる。
(青木論文『近代と都市部落』、『被差別部落像の構築』小早川明良を参照。)
もちろん、A町住民すべてが貧困世帯でもないし、不安定な仕事であるわけでもない。
なりわいが成功し、経済的に豊かな層や中間層もあらわれる。
「広島が近代都市として成長していくにともなって、食肉習慣の広まりや軍関係の皮革需要が増えていくなかで、 食肉や皮革の仕事が繁盛し、そのなかで財を築く人が現われていきます。つまり、A町の人たちのなかに階層分化が生じていきます。この点も、A町の人たちの就労と生計をみるとき、欠くことのできない一面であります。」(青木秀男、同掲)
近代以降、資本主義の進展とともに成長していくなかで形成された都市部落。
その全国的にみられる特徴の1つは、まず人口の増大である。
もう1つの特徴は、そこに住んでいる人たちの出自、つまり家系の四代いや三代前でさえよく分からない、先祖がどこから来た人であるかも、かならずしも定かでないという人が多い、もしくは少なくないということである。
たとえば大阪には、近世には役人村とよばれ、諸国からの皮革集積地として繁栄していた賤民コミュニティがあった。大正時代の1920年には、面積は旧村の5.6倍に拡がり、人口は1万6千にふえた。
これが都市型近代部落の1つのあり様である。
■近代の部落差別がうみだされていく構造をさぐる
被差別部落とはなにか。
封建時代の賤民集落と、近代以降の被差別部落は、どのような関係にあるのだろうか。
それは次回にゆずるが、近代の都市部落のなかでも、広島の部落問題を考えるうえで、忘れてはならないこと。
それは、広島が軍事都市として形成されていったという点であり、A町のような近世由来の被差別部落、そして新たに形成された部落の人たちは、軍事都市建設のなかでうみだされた仕事――土木工事、軍隊用の食肉缶詰〈屠畜〉、軍靴や軍隊用皮革製品のほか、ありとあらゆる仕事で生計を立てていたということである。
そして原爆投下。
戦後広島の都市計画、大型公共工事の拡大などの歴史的転換の中で、労働市場の変容とともに多くの不安定就労の人たちが生み出されていく。
なりわいが成功した富裕層の多くはA町を出ていく一方で、貧困のサイクルから抜け出せない人々が、A町に滞留する構造がうまれる。
これは現在も進行中の話である。(次号につづく)
参考:青木秀男の研究室 https://windpoet.jimdofree.com/
さて、冒頭が長くなってしまったが、本論に入ろう。
今回は、マスメディアとヘイトスピーチについて。
【マスメディアとヘイトスピーチ】
メディアと差別表現をめぐる現状と課題の最後に、マスメディアにおける、ヘイトスピーチについて述べておこう。
私的空間と公的空間の垣根(境)を取っ払ったネット上で、匿名性に隠れて公然とヘイトスピーチが行われるようになった。
ヘイトスピーチはおもにインターネット上で2000年の前から行われていたが、第一次安倍政権成立(2006年)のころから激しくなり、そして、第二次安倍政権成立(2012年)と軌を一にして、ヘイトスピーチがネット上だけでなく、路上に出てきて、集会やデモの形で、公然と差別・排外主義を煽る事態となった。
剝き出しのヘイトスピーチ(差別的憎悪煽動)が常態化している。
差別表現一般とヘイトスピーチの違いについて確認しておきたい。
■ヘイトスピーチとは
2016年6月に施行されたヘイトスピーチ対策法。
罰則規定も救済規定もない理念法だが、日本で初めての人種差別撤廃条約(日本は1995年批准)に対応した差別対策法として成立した。
一方で、この法律を憲法21条の“表現の自由”を侵すものとして反対する憲法学者が少なからずいた。
しかし、過去様々な被差別団体による抗議行動の中で、ただの一度も、差別表現を法律で規制しろとの声が上がったことはない。
差別表現は、抗議する被差別団体とメディア・表現者との話し合いを通じて、社会的に解決されてきた。
ではヘイトスピーチは、これまでの差別表現と何が違うのか。
まず初めにヘイトスピーチを多くのマスメディアが、「差別表現」「憎悪表現」などと翻訳している。
この点からして間違っている。
ヘイトスピーチは、人種差別撤廃条約や国際人権規約に記されている、「人種的優越主義に基づく差別・憎悪宣伝・扇動」に当たる。それゆえ、「差別的憎悪扇動」と訳すべき。
「朝鮮人・韓国人を殺せ」「エタは人間ではない」などの戦慄すべき言動を「表現」行為として理解すべきではない。
1994年にルワンダで起こった多数派フツによる少数派ツチ80万人を超える大虐殺が、フツによる雑誌やラジオを使った差別的憎悪煽動による行為だったことはよく知られている。
ヘイトスピーチと差別表現一般とは、社会的差別を受けているマイノリティに対する差別言動という点は同じだが、決定的な違いは、主観的、確信的差別煽動行為、つまり悪意をもった攻撃性と目的意識性にある。
それゆえヘイトスピーチは、ヘイトクライム(差別的憎悪犯罪)の一形態であり構成部分と理解すべき。国際人権法はそう規定している。
「‥‥、憎悪を広め、煽り、促進し、もしくは正当化するすべての形態の表現」(ヨーロッパ人権裁判所)
「人種的優越または憎悪に基づく思想の流布‥‥、全ての暴力行為またはその行動の煽動」(人種差別撤廃条約第4条)
この言論の暴走を〈表現の自由〉の名のもとに規制せず放置すれば、必ず肉体の抹殺に至ることは歴史が証明している。
ナチス・ドイツによるユダヤ人(600万人)、ロマ(60万人、日本では「ジプシー」と差別的に呼ばれている)、そして精神障害者と同性愛者(20万人)のホロコースト、関東大震災時の朝鮮人虐殺(6千人)など、このような残虐な行為の導火線としてヘイトスピーチがあったこと忘れてはならない。
■京都朝鮮初級学校襲撃事件で「ヘイトスピーチは人種差別」判決
2009年12月4日、京都朝鮮第一初級学校校門前でのレイシスト集団「在特会」らの差別排外主義の街宣行為に対し、京都地裁は、「著しく侮辱的な発言を伴ない、人種差別撤廃条約が禁ずる人種差別に該当する」との判決を下す。(同時に、ヘイトスピーチを「表現の自由」と主張した在特会の訴えを一蹴している)
2014年7月、大阪高裁が在特会側の控訴を棄却して同地裁判決を維持。
2014年12月9日、最高裁は「ヘイトスピーチは人種差別」と認定する。
■国際人権法学者のヘイトスピーチ認識
2012年11月、慶應三田キャンパスで、国際人権法学会の研究大会が開かれ、「差別表現・憎悪表現の禁止に関する」シンポジウムが開かれた。
その場で主催者の一人、憲法学者の慶応大学・駒村圭吾教授は臆面もなく次のように述べた。
「まだ日本の憲法学界では、差別表現(ヘイトスピーチ)の問題は、学問の対象ではない…、話者の品格の問題である。…論議するなら思想の自由市場で行えばよい」。
ヘイトスピーチと差別表現一般との区別も分かっておらず、差別の現実を全く見ていない机上の発言である。
このような認識からは、包括的な差別禁止法の必要性など論外であろう。
事実、人種差別撤廃条約の第4条「人種的優越主義に基づく差別および煽動の禁止」の⒜項⒝項を、日本政府は批准せず留保したままだが、差別表現問題を学問的に研究する中央大学の内野正幸教授は、この日本政府の処置を歓迎している。
「差別的表現に対する法的規制といえば、なによりも人種差別撤廃条約第4条のことが思い起こされよう。それは、人種差別主義的な表現活動に対する刑罰的規制などにつき定めるものであり、いきすぎた厳しい規制を内容とする点で、表現の自由を手厚く保障する日本国憲法21条に適合しない、とみるべきであろう。実際、1995年、日本政府は、アメリカの場合と同様、問題条文である4条を留保した上で条約を批准したが、これは賢明な態度であったと評価すべきであろう」。(『表現・教育・宗教と人権』2010年 弘文堂)
被差別運動団体が、?差別表現“に対して法的規制を求めたことは一度もない。
法的規制を求めているのは、?ヘイトクライム”(差別的憎悪犯罪)と地続きの?ヘイトスピーチ“(差別的憎悪煽動)に対してである。
憲法21条が謳う、「表現の自由」は基本的人権の根幹をなす権利である。しかし、「表現の自由」は内在的に他者の人権を侵害し、傷つける行為を許容していない。ヘイトスピーチが表現の自由の範疇でないことは言うまでもない。 このような日本の国際人権法学者の差別問題認識と姿勢が、今もヘイトスピーチをゆるしている要因の一つといってよい。
差別表現問題にきちんと向き合い、マスコミに対する働きかけを行うことは、ヘイトスピーチに対する防波堤を築くことになる。
(次号につづく)
]]>●吉野家・伊藤常務の女性差別暴言
今週のトピックは、このウエブ連載221回でとりあげた牛丼チェーン店「吉野家」常務・伊東正明氏(当時)の女性差別暴言について、掘り下げたい。
「デジタル時代のマーケティング」をテーマに若者を牛丼好きにする方法として、伊東氏は語った。
「生娘さんが(吉野家牛丼に)シャブ漬けになるような企画」
その場にいた受講生が発言を問題視し、ネット上に投稿。大きな社会問題となった。
吉野家は、緊急取締役会を開き、常務・伊藤正明を解任。
●資本の本質をありのままに表した表現――政治学者・白井聡さんの鋭い指摘
新聞テレビ、SNS上では、連日、この発言がとりあげられ批判された。
その中で、根源的な批判をしているのは、政治学者・白井聡さんだ。
ちなみに、『武器としての資本論』は、新自由主義に覆われ、疎外されていく人間が、魂や感性をどう取り戻していくのかを説いた白井さんの名著。ぜひ一読をお薦めしたい。
今回、「吉野家」伊東氏の発言について白井さんは、「女性だけでなく全顧客を軽蔑」した発言であり、そこにあるのは、「売れさえすれば何でもいい」という心理だと語る。
(5月20日 東洋経済オンライン 資本論で解く「売れさえすれば何でもいい」心理。ここでは一部のみを紹介、全文は東洋経済オンラインで読んでいただければと思う。https://toyokeizai.net/articles/-/589169)
もちろん、この問題発言が性差別的な性格を持っており、それが大問題であることは確かでしょう。しかしながら、批判がその次元にとどまるならば、真の問題は見過ごされます。
実は、マルクス『資本論』を読むと、なぜこうした発言が出てきたのか、そして何が真の問題であるかが理解できるのです。
●マルクス『資本論』で読み解く資本の心理
マルクスが『資本論』で強調したのは、資本は無限の価値増殖運動であること。
その価値の中身はどうでもよく、要は貨幣が増えりゃいい、儲かりさえすりゃいい。
それが資本主義社会なのだと、白井さんは説明する。
こうした論理が資本には本質として埋め込まれていることを知れば、伊東氏の発言は、「資本主義的には完全に正しい」ことが理解できるでしょう。要するに、伊東氏の言わんとしたことの核心は「バカにゴミを売りつける。それが王道だ」ということです。
伊東氏は男性客についても「家に居場所のない人が何度も来店する」と授業中に発言したそうですが、この発言は、伊東氏=資本が、女性だけでなくすべての顧客を軽蔑していることを物語っています。資本家たる者、なるべく原価の安い(ゴミ同然)のものをお客に売りつけるべきであり、そんな買い物をするお客はバカ者に決まっているのですから、お客に敬意を抱いたりしてはならないのです。
今回騒動を起こしたのが、有用な物を直接つくり出す立場の人ではなく、「売る方法を考える」マーケターであったことには必然性があります。商品を売る、すなわち「価値の実現」の局面においてこそ、資本主義の持っている本質的ロジックが、むき出しのかたちで現れるのです。
白井さんの指摘をシニカルで突き放した見方と感じる人もいるかもしれない。
しかし、白井さんの指摘は、資本主義社会において、部落差別がなくなりつつあるどころか、いまや「商品」として差別が売買されている現実をみれば、非常によくわかる。
●マルクス『資本論』で読み解く部落差別
「だれが部落民か」をあばく身元調査ビジネスのマーケットが、年々拡大。
有名人の出自を暴きたてるセンセーショナルな出版物が完売になる。
差別的なユーチューブ動画をアップして広告で儲けようとする輩。
世間のだれもが、口を開けば「差別はよくない」というが、現実には、部落差別は「商品」になっている。
つまり、それが差別であろうとなんであろうと、売れさえすればいい。
その内容に資本は無関心である。
それが資本主義社会のからくりなのである。
新自由主義が深まった現下においては、さらにその本質がむき出しになっていく。
「生娘 シャブ漬け」発言は、まさに「売れさえすればいい」という資本の本質を表したものだという、白井さんの指摘は、資本制に対する根源的な批判である。
さて、メディアと差別表現をめぐる現況と課題に戻ろう。
【抗議糾弾を拒否した差別事件―1987年『卓球レポート』(株)タマス】
じつは、この事件も、資本がその本質をむき出しにしたネオリベラリズムとふかくかかわっている。
日本が、福祉国家から新自由主義国家に移行する過程で、被差別部落に対する統治戦略も転換した。
(※参考 『被差別部落の真実』小早川明良)
日本政府は、部落差別に対する責任を放棄しただけでなく、糾弾権を否定しようとした。
「差別だとして運動団体から糾弾されたら、法務省に(駆け込んでください)」と言ったのである。
●月刊誌『卓球レポート』の差別表現
卓球用具専門会社「(株)タマス」が発行する月刊誌『卓球レポート』(1987年6月号)に、
「……折角小・中学校のころ芽生えた素質が、高校運動部という独特の伝統に支えられた特殊部落に入って、のびのびと育てられぬことが多い」
典型的な部落差別表現記事である。
執筆者の中条一雄氏は、以前にも『原爆と差別』(朝日新聞社出版局)の中で、同様の「特殊部落」表現で抗議を受けていた人物で、確信犯的な記述であった。
●差別を指摘しても居直る背景
タマス社に抗議したところ、話し合いの場に出席することを拒否し、東京法務局に助けを求め、その指導のもと、解放同盟からの抗議を無視する態度とることになった。タマス社の話し合い拒否の背景には、前年に出された地域改善対策協議会(地対協)の「意見具申」の影響が見て取れた。
タマス社に助けを求められた東京法務局は、民間運動団体の糾弾を否定する「意見具申」のモデルケースにする意図もあり、積極的にタマス社をかばっていた。
●地対協「意見具申」
この地対協の「意見具申」は、後に出され、受け入れられた1996年の地対協「意見具申」や「啓発推進指針」につながるものである。
「一般行政への円滑な移行」や「民間運動団体の確認・糾弾行為」を否定し、「差別事件は、司法機関や法務局等の人権擁護のための公的機関による中立公正な処理にゆだねる」ことが強調されていた。(※参照)
※地対協意見具申(ちたいきょういけんぐしん)
1986年にだされた政府の地域改善対策協議会の答申。差別撤廃施策を打ち切り、国や行政の責任を放棄した。「同和地区の実態が大幅に改善され」たにもかかわらず「差別意識の解消が十分進んでいない背景」に、「昔ながらの差別意識」とともに「新しい要因による新たな阻害要因」があるとした。その第一要因にあげたのは、国や行政が、「民間運動団体の威圧的な態度に押し切られて不適切な行政運営を行う傾向」であった。行政の主体性に名を借りた、糾弾闘争の否定と解放教育の解体などを意図した意見具申は、1986年にだされたときは運動側の反対でつぶしたが、1996年に再び出され、受け入れられた。
●阿佐ヶ谷で抗議デモ敢行
このようなタマス社の誠意のない対応と、東京法務局の腹黒い意図を見抜いた糾弾闘争本部は、差別表現事件としては前例のない、東京の南阿佐ヶ谷にある、タマス社に対する抗議デモと本社前抗議集会を敢行。
さらに、中央本部から各県連に各地の教育現場での取り組みを要請する通達を出し、タマス社に対し、徹底糾弾を展開した。
タマス社は、本業の卓球用品が全国の学校体育現場から締め出される事態になって、泣きつき、東京法務局の指導を拒否し同盟の糾弾を受け入れた。
差別表現事件史上まれにみる抗議・糾弾闘争だった。差別事件に対しては、絶対に居直りと言い逃れを許さない解放同盟の姿勢を示した闘いだった。
まさに「糾弾は解放運動の生命線」なのである。
今、差別事件が起こったとき、行政に対応を要請することが多い気がするが、それこそ、地対協「意見具申」の路線であるといっておきたい。
●新自由主義のもと、煽られる差別、利用される差別
思い起こせば、日本が、福祉国家から新自由主義国家に移行する過程で、社会運動団体(国労など中間団体)がつぎつぎにつぶされ、既得権を奪われていった。
そのときメディアが煽ったのは、世間にある差別意識である。
新自由主義のキーワードは「自己責任」。
いいかえると、「差別される責任は、ロクなことをしないお前らにある」ということ。
新自由主義と部落問題にかんする考察は、モナド新書『被差別部落の真実』『被差別部落の真実2』(ともに小早川明良著)を参照していただきたい。
]]>