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第190回 「ホンネを言えるようにしてくれたトランプ万歳」!?――ポリティカル・コレクトネスのゆくえ

 

 

■トランプ勝利

 

 アメリカ大統領選で、人種差別、宗教差別、女性差別的言辞をまきちらし、ヒンシュクを買い、品格を疑われていたドナルド・トランプが、接戦の末、次期大統領にえらばれた。

 

 大方の予想を裏切る結果に、政治評論家たちはうろたえていた。

 

 新自由主義的政策とグローバリズムによる社会的格差の拡大は、富の独占的集中と中間層の没落をまねき、最底辺に呻吟(しんぎん)する超貧困層を大量に生みだした。

 

 とりわけ、トランプを支持したとされる“プアーホワイト”層は、支配的エスタブリッシュメントのエリート層に反発し、ヒラリーではなく、トランプの毒舌に心中ひそかに快哉をさけび、それが投票行動にむすびついたとされる。

 

 いっぽう、選挙戦で、トランプとの誹謗中傷合戦の泥沼に引き込まれ、21世紀の世界におけるアメリカの生き方の問題をまったく打ち出せなかったヒラリーは敗れた。

 

 ヒラリーに対する真っ当な批判は、民主党のもう一人の候補者バニー・サンダースが、ウォール街の支配者との対決をうちだし、教育・社会福祉の充実を訴え、圧倒的に若者の支持を得ていた社会民主主義的な政策にあった。

 

(今さら)言ってもしようがないが、サンダースvs.トランプの対決だったら、選挙結果はちがったものになった可能性もある。

 

 

PC(ポリティカル・コレクトネス)に抑えつけられていた「鬱憤」

 

 

 今回、連載差別表現でふれておかねばならないと思ったのは、エリート層であるエスタブリッシュメントの支配層が、新自由主義とグローバリズムを推し進めるいっぽうで、PC(ポリティカル・コレクトネス)、すなわち用語における差別偏見を取りのぞき政治的に公正で中立的な用語使用運動を積極的に推進し、表向きは、人種・宗教・性などの差別と排外主義に反対する立場をとっていた。

 

 ところが、トランプがまったくPC(ポリティカル・コレクトネス)を無視した暴言を吐きながら当選したことにより、いままでPCに押さえつけられていた鬱憤(うっぷん)をはらし、“もの言えない閉塞”した社会状況に風穴を開けてくれたとカン違いした低・中間層の白人を中心に、PCを否定し、差別発言や差別的行為が激増しているという。

 

 

差別意識を指摘され自尊心を傷つけられた知識人が叫ぶ「快挙」

 

 

 予想されていたとはいえ、憂慮すべき事態である。

 

  しかも、日本においてもトランプの差別発言に同調し、公然と差別表現を行う“知識人”まで現れた。

 

 ポリティカル・コレクトネスは、誰が主張しているかに関係なく、いわば「言語の民主化」運動であり、言語表現された社会的差別に対し、それを是正するとりくみであり、積極的に推進されなければならない運動である。

 

  トランプ氏の勝利を歴史的快挙と評価する藤原正彦氏は、『週刊新潮』(11月24日号)の「管見妄語」で、次のようにのべる。

 

ここ三十年間のアメリカそして世界に跋扈したグローバリズム(ヒトモノカネが自由に国境を越える)およびPC(ポリティカリー・コレクト、ありとあらゆる差別や偏見をなくすこと)への反乱であったのだ。

  (中略)

またPCという「きれいごと」により、英米ではミスやミセスがなくなり、日本でも盲滅法が使えなくなるなど大々的な言葉狩りが行われた。それどころではない。PCに抵触したとメディアに判断されれば、即刻差別主義者として俎上にのせられ、社会的制裁を受けるようになった。例えば移民の抑制を口にしただけで、非人道的な差別主義者ということで吊るし上げられるから、誰もが口を閉ざすこととなった。PCにより人々はもはや本音で語ることが難しくなっている。

この閉塞感とグローバリズムのもたらした悲惨に敢然と立上がったのが、移民排斥と自由貿易協定破棄を掲げたトランプであり、移民とEUのグローバリズムに反逆した英国民だったのだ。

(「管見妄語」二つの快挙 『週刊新潮』11月24日号)

 

 

 

■あいもかわらず“言葉狩り” 批判

 

 

 「日本でも盲滅法が使えなくなるなど大々的な言葉狩りが行われた」と、藤原氏はのべる。

 

 しかし、私がこのウエブ連載で何度もふれたように、“言葉狩り”をおこなったのは、被差別者の抗議に真正面から向き合わず、言葉の問題に矮小化したメディアの側である。

 

 差別語を禁句にすることによって、差別語の背後に潜む差別の実態から目をそむけ、差別そのものを隠蔽(いんぺい)したのだ。

 

 差別発言をすれば、抗議・糾弾するのは被差別マイノリティの当然の社会的権利であり、差別表現をすれば、発言者や執筆者が社会的制裁を受けるのは民主主義社会の成熟を意味しているのであり、その逆ではない。

〈 ところが、12月に成立した「部落差別解消推進法」では、その付帯決議に、なんと「過去の民間運動団体の行き過ぎた言動等、部落差別の解消を阻害していた要因を踏まえ、これに対する対策を講ずることも併せて、総合的に施策を実施する」という文言がもり込まれている。

 この付帯決議の意味するところは、糾弾権の否定であり、自民党主導でなされたこの法案のねらいが、事実上、解放運動の抑圧にあることは明白であろう。

 糾弾権は被差別マイノリティの社会的権利であり、運動体の生命線である。

 これは不可解きわまりない話で、その背景にはいったい何があるのだろうか? これについては、次回のウェブ連載でのべることにしたい。〉

 

 

 話を戻そう。

   藤原氏はPCによってホンネで語ることが難しくなり、閉塞感がもたらされていた状況に、トランプが「敢然と立上がった」と、快哉をあげている。

 

 しかし、ホンネであろうがなかろうが、差別表現は抗議され、社会的制裁を受けるのは、民主主義社会の原則である。

 

 藤原氏のこの論理を突きつめれば、ヘイトスピーチは閉塞感を打ち破る良いことであり、カウンター行動やヘイトスピーチ対策法は、「言論・表現の自由」を圧迫する「悪業」「悪法」であるということになる。

 

グローバリズムにしがみつく人々とその体制を倒してくれるなら、無教養の成金オヤジでも誰でも構わない。セクハラでも差別でもなんでもよい。彼等の怒りはそれほどまでに深かったのである。(『週刊新潮』11月24日号「管見妄語」)

 

とは、トランプを支持したアメリカの白人層に仮託して、藤原氏が自らの心境を吐露しているに過ぎない。

「セクシストでも差別者でもなんでもよい」とは、公然と差別を肯定する発言であり、看過できない。

 

 

■「『土人』発言は差別と断定できない」――鶴保沖縄担当相答弁を承認

 

 

 この発想からは、10月25、沖縄・高江のヘリパット基地建設に反対する住民に向かって、大阪府警機動隊員が吐いた「土人」「シナ人」も、PC運動がもたらした「閉塞感」を突きくずす積極的な発言ということになる。

 

 それを受けてかどうか、政府は、大阪府警機動隊員による「土人」発言について、鶴保沖縄北方相の「土人、差別と断定できない」との発言を容認した。そして、鶴保氏の謝罪は不要とする答弁書を閣議決定している(2016年11月22日付・朝日新聞)。

 

 大阪府警機動隊員の「土人」発言は、トランプが当選する前の事件であり、その時点では、大阪府警も「土人」「シナ人」発言をした機動隊員二人に対して、もっとも軽い処置とはいえ、懲戒処分としている。

 

 つまり、公務員としてふさわしくない差別発言だと認めていたのである。

 

 それが、トランプ当選以後には、一転、「『土人』を差別発言と断定できない」としたのである。 

 

 これは、差別表現とヘイトスピーチに反対する運動にとって、見逃せない重大な変化と言わねばならない。

 

 

■PC(ポリティカル・コレクトネス)と差別表現のちがい

 

 

 ポリティカル・コレクトネスには、たとえば、Miss(ミス)/Mrs.(ミセス)のように、女性にだけ未婚か既婚を区別してつけていた敬称を、Ms.(ミズ)としたようなものがある。

 

 男性の場合は、未婚か既婚かに関係なく、Mr.(ミスター)であるのに、なぜ女性は未婚か既婚が問われるのか。ミス/ミセスは、男の側が女を価値づけする言葉なのである

 (藤原氏は「PCという『きれいごと』」として腹の虫がおさまらないようだが、その感情こそ性差別意識の正体であろう。)

 

 このように、ポリティカル・コレクトネスは、性別にかんするバイアスのかかった言葉などを、中立的な言葉に変える言語改革運動である。

 

  それに対して、差別表現は、人種・民族、性、宗教、障害者、被差別部落、ハンセン病者など、マイノリティに属する特定の個人や集団を侮辱し、社会的に排除するものである。

 

 たとえば、かつて、「ユダヤ人はシラミ」というユダヤ人に対する差別的言辞が、ナチスによってまき散らされた。

 

 この差別表現は、ユダヤ人を排外攻撃の標的とするヘイトスピーチ(差別的憎悪煽動)として、600万人以上にのぼるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を惹き起こしたのである。

 

 差別表現は、相手の心を傷つけるだけにとどまらず、肉体の殲滅(せんめつ)に至らしめるものである。

 

 

■『差別感情の哲学』――自分の中にうごめく感情を抉り出せ

 

 

 差別意識をもたない人はいない。しかし、自分が差別意識をもっている(もたされている)ことを自覚しつつ、絶えずそれを自分自身に問い続けることが重要なのだ。

 

 

 前回のウェブ連載で、藤原氏の「ジプシー」という差別語の使用のしかたを、私は批判した。

 

 氏がその指摘に腹を立てたのかどうかはさておき――腹を立てるのはかまわないが――、なぜ自分がその言葉を選択したのかを、藤原氏には自己分析していただきたい。

 

 

 『差別感情の哲学』で、哲学者・中島義道は、自分の中にうごめく差別感情を抉り出せと語り、つぎのように書いている。

 

言葉は人を傷つけることが「できる」ものである。場合によっては、人を絶望に落とし入れ、殺すことさえ「できる」ものである。それを誤魔化しなく見ることがまず必要である。その上で、各自がどのようにして過度に他人から危害を受けることならびに過度に他人に危害を与えることを避けうるか、しかも自分の誠実性を決定的に破壊せずに、こうした問いがわれわれに突きつけられているのだ。

 (中島義道著『差別感情の哲学』講談社学術文庫 184頁)

 

 

「差別のない社会」などない。

 

ポリティカル・コレクトネスや差別表現をめぐっては、すべての人間が、何らかの差別感情・優越意識・嫌悪感から逃れられないということを前提として、一人ひとりが永続的に葛藤することを課せられているということである。

 

藤原氏は、ポリティカル・コレクトネスに抑えつけられていた「鬱憤」や「閉塞感」の中身を、自分自身への問いとして、よくよく吟味すべきなのである。

 

差別表現〜差別的憎悪煽動(ヘイトスピーチ)は、社会の調和を乱し、対立を煽り、そして、人間の精神と肉体を、根底から破壊する。

 

*PCと差別表現、ヘイトスピーチについては『最新 差別語・不快語』に詳述しているので興味ある方はそちらを参照してほしい。

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