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第185回『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』絶版・回収事件 その2

 

■高須克弥氏のツイート

 

 先週金曜日(6月8日)にアップした〈西原理恵子×高須克弥著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)絶版・回収事件〉に対する反響の大きさに驚いている。

 おそらく、いまだに絶版・回収の理由を一切明らかにしていない版元・小学館の姿勢とも関係しているのだろう。

 今回、〈その2〉を書くのは、この『ダーリン…』本の読者である人々が、著者の高須克弥氏に、この「ウェブ連載差別表現」のことを知らせ、高須さんがツイッター上で書いている内容について、誤解を解いておきたいと思ったからである。

 

 今週6月12日、高須克弥氏が次のようなツイートをしていることを教えられた。

 

(高須克弥@ katsuyatakasu 6月12日)

あらためて小林健二先生にご挨拶申し上げます。日本は言霊の国です。言葉狩りして差別用語を絶滅しても新たな差別用語がはっせいするにちがいありません。 差別用語に対する抗議糾弾は消滅しつつある差別用語を生きかえらほ(ママ)せる作業にみえます。

  

■「都市伝説」としての“運動団体の言葉狩り”

  

 名前の間違い(健二→健治)や、“先生”という呼称はさておき、この短いツイートでわかるのは、高須さんはまだ、筆者の「ウエブ連載差別表現」(第184)を読んでいないと思われることだ。

 

 184回ウェブ連載差別表現で、私が抗議し、問題にしているのは

 第一に、絶版・回収を決めた出版元の小学館に対してであること。

 第二に、はたしてほんとうに絶版・回収をしなければならなかったほど、ひどい差別的な内容だったのかどうかということだった。この2点は、前回の連載差別表現に書いているので、くり返さない。

 

 今回、〈その2〉をアップする意味は、“言葉狩り”を反差別運動団体が行っているという高須さんの誤解を解きたかったからである。

 この、「反差別運動団体が言葉狩りをしている」という噂と思い込みは、多くの学者・文化人そしてマスコミ関係者に共通しているが、言わば「都市伝説」に過ぎない。(いわゆる「放送禁止歌」も同じで、業界の自主規制に原因がある。詳しくは、森達也著『放送禁止歌』[知恵の森文庫]を参照のこと)

 初めに断っておくと、差別語はある、しかし、使ってはいけない差別語などないということだ。なぜなら、差別語も日本の言語文化のひとつであるから。

「穢多」「非人」「鮮人」「チャンコロ」「ロスケ」「ビッコ」「メクラ」「キチガイ」など、差別語は山のようにある。差別語には、時代の差別的実態が反映している。

  

■差別語は負の文化遺産

 

 差別語は、それを浴びせられる被差別当事者にとっては、耐え難い、屈辱的な言葉だ。しかし差別語は、日本の“負”の文化遺産でもある。

 その差別語を禁句にし、言い換えても、差別的実態を隠しただけで、差別をなくすことには何ら役立たない。むしろ、差別語に塗りこめられた賤視と侮蔑意識や忌避感情を、逆に、その差別的言葉を使うことによって、差別的実態の歴史と現実を逆照射し、その非人間性を告発し、差別を撤廃する闘いの武器となるのである。

「わしら部落民は、昔、“ドエッタ(穢多)”と言われて差別されてきた」と語る部落の古老の表現における“ドエッタ”には、被差別部落民の怨念も凝縮されているのである。

 使ってはいけない言葉など存在しない。どう使うかの問題であって、“言葉狩り”をしたのは、「ジャーナリズムの思想的脆弱性」(筒井康隆氏『断筆宣言』)のなせるわざなのである。

以下、8月上旬刊行予定の『最新 差別語・不快語』(仮題)に、新たに加えた“言葉狩り”問題についての【コラム】を載せて、この項を終わりたい。

  

  

【コラム “言葉狩り”をしたのは誰か?】

  

■『毎日フォーラム』掲載のコラム「『禁止用語』を考える」


 毎日新聞社発行の『毎日フォーラム』という月刊の政策情報誌。その2013年3月号に、牧太郎氏(毎日新聞記者・元『サンデー毎日』編集長)が自身のコラム「牧太郎の信じよう!復活ニッポン」で「『禁止用語』を考える」と題した一文を載せている。副題には、「故なき規制は『日本の文化』を失うおそれがある」とある。

 そこで牧氏は「百姓」が「差別にあたる可能性が強い」ので、「農民」に置き換えるべきだと校閲から注文され、抗(あらが)ったが直された例を挙げ「ともかくどこの誰かが勝手に決めた『差別用語』『放送禁止用語』が大手を振って歩いている」と憤懣(ふんまん)をぶつけている。

 その上で、いくつか具体例を出している。

「例えば、職業に関する差別用語。『魚屋』『八百屋』『肉屋』『米屋」『酒屋』……。全て『禁止用語」だ。『○○屋』という言い方は全て差別用語だ!というのだ。そのために『魚屋』は『鮮魚店』、『八百屋』は『青果店』、『肉屋』は『精肉店』、『米屋』は『精米店』、『酒屋』は『酒店』……『床屋』は『理髪店』と言わなければならない。

(『毎日フォーラム』2013年3月号より)

 

 そして牧氏は、つぎのようにしめくくっている。

 「実にばかげている。(あまり使いたくない言葉だが)『言葉狩り』である」と怒り、「ある言葉が『差別』を助長するかどうかの判断は『各々の主観』に基づく。あってはならないのは『差別の現実』である。『言葉』ではない」


■マイノリティの怒りに向き合えなかったメディア


 ひとこと言っておくが、上に挙げた例が「差別用語」だと、だれが決めたかと言えば、それはほかならぬ牧氏も属するマスコミ業界だということである。

 1960年代後半から80年代にかけて、部落解放同盟を中心に、障害者団体、在日韓国・朝鮮人団体、女性団体、先住民族アイヌ団体などの社会的マイノリティが、不快で他者を貶め、傷つける差別語と差別表現に対して、鋭い追求を行ってきたことはよく知られている。とくに抗議の矛先が、その与える社会的影響の大きい新聞、テレビ、出版などのマスメディアに向けられたことも、当然のことであった。

 しかし、多くのマスコミが、その抗議と怒りの声に対し、正面から向き合い、差別語と差別表現の問題を真摯に考えようとしなかったことは、各社が秘密裏に作成していた「禁句・言い換え集」などのマニュアル的な言葉の言い換え集を見れば、一目瞭然である。

 つまり、対処療法的かつ糊塗(こと)的に対応するのみで、差別語に塗りこめられた「差別の現実」を見ようともしなかった。また、その撤廃のためのメディアの社会的責任を果そうともせず、「差別語」と言われる言葉を消すこと、隠すことに専念してきた結果が、牧氏が怒る現在の状況を生み出しているのである。


■「侮辱の意志」の有無が表現の差別性を決定する


 差別語は存在する。しかし、使用してはいけない差別語(「禁止用語」)などというものはない。

 差別語の使用の有無ではなく、文脈における表現の差別性、つまり差別表現を問題にしているのである。

 一知半解なマスコミの対応の責任を、被差別マイノリティの抗議に負わせるのは、それこそ天に唾する行為と言わねばならない。

 

 牧さんは、校閲と断固闘って、「百姓」と明記すべきだった。完遂できなかった憤りを他者に向けるべきではない。妥協した自分自身の弱さを反省すべきであろう。

 

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第184回 西原理恵子×高須克弥著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)絶版・回収事件を考える
○『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』絶版・回収
 
 5月25日、主要紙に全五段カラー広告を打ち、鳴り物入りで売り出された、西原理恵子氏と高須クリニック医院長・克弥氏の共著『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』(小学館)が、発売5日で突然絶版になった。
 すでに書店に配布された本は、版元・小学館の要請によって取次店を通じて回収されているという。

 いったい何があったのか。原本を読むことができたので、思うところを述べてみたい。
 絶版・回収に至ったことについて、版元・小学館は公式には何も語っていないが、本書11ページにある以下の文章であることが明らかになった。
 
ばあちゃんの口癖は「お前は、そこらへんの漁師や百姓とは違う」。
幼い僕に、昔の栄耀栄華をよく語った。
こう言ってはなんだけれど、サイバラには栄耀栄華はないからね。
さしずめ、僕とサイバラは、白系ロシア人と農奴みたいなものか。
 
昔は「士・農・工・商・穢多(えた):非人(ひにん)」という身分制度があって「お前のひいおじいさんは、とても情け深い人で、“穢多も同じ人間じゃ。差別してはいかん”と言うて、穢多の子どもたちに餅を投げてやった。子どもたちがそれを拾って食べると“穢多の子は可愛いのう”と目を細めていた」と、ばあちゃんは言う。この話をすると、サイバラは「なんてひどいことするんだ。ものすごい差別じゃん!」って怒るんだけど。
僕が「学校で権十にいじめられた」って泣きついた時も、ばあちゃんは言った。
「権十のジジイはうちの小作で、年貢を納めるときは裸足で来たんじゃ。草履を履いて、ここまで入ってこられるような身分じゃない」
 
○編集部の注釈は必要
 
 たぶん、小学館の役員は、この箇所のとくに「昔は……」以下を部落差別につながる差別表現と判断し、高須氏に書き直しを依頼したところ断られ、止むなく絶版にし、回収措置をとったということのようだ(高須氏のツイート)。
 また、本書には「うちの母親は産婦人科もやっていたからしょっちゅう妊娠してはおろしにくるパンパンがいっぱい来ていた」(15頁)という表現もある。
 「パンパン」という言葉には、敗戦後やむを得ず進駐軍(アメリカ軍)相手に春をひさがざるをえなかった女性を貶める侮蔑語であり、何らかの注釈を、編集部で付した方が良いだろう。
 
 結論から言えば、それと同じく10頁の、「昔は……」以後の文章も、著者の高須氏に書き換えを要請するのではなく、編集者の責任において、キチンとした注釈をつけて、原文のまま出版すべきだった。
 高須氏を支援し、版元・小学館を批判する多くの人の意見を読んでいて、部落差別と差別表現の問題について、かなり誤解と偏見が見られるので、ここで改めて正しておきたい。

 
○版元・小学館を批判する意見にある誤解と偏見
 
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 差別語である「穢多(えた)」「非人(ひにん)」という言葉を使用しているから問題にされた、という意見について。拙著『差別語・不快語』(にんげん出版、2011年)、あるいは『部落解放同盟『糾弾』史』(ちくま新書、2015年)の中で、何度も強調しているように、部落解放運動が抗議してきたのは、差別表現であって、差別語の有無ではない。
 ただ、差別語を使った差別表現が圧倒的に多かったために、「差別語の使用=差別表現」と曲解し、「禁句・言い換え集」を作り、“言葉狩り”を自主的に行ってきたのが、マスコミ業界だということ。
 しかし、差別語を禁句にし抹消することは、逆に差別を隠すことに手を貸し、差別をなくすことには役立たない。
 今一度、差別表現とは何かをかんたんに整理しておこう。
 

【差別表現とは】
○差別表現とは、文脈のなかに差別性(侮辱の意思)が存在している表現で、差別語が使用されているか否か、内容が事実か否かとは直接関係しない。
 
○差別表現を問うとは、表現の差別性を問うているのであって、表現主体の主観的な意図を問題にしているのではない。表現の客観性、その表現が社会的文脈の中でどう受けとられるかということ、つまり、表現の持つ社会的性格について問題にしているのである。
 
 『一、吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す』 
(全国水平社創立大会決議 第一項 1922年)
 
(1)差別語を使用した差別表現
 
  「芸能界は(魑魅魍魎)な特殊部落だ」
   
(玉置宏氏、『3時のあなた』1973年)
 
・『特殊部落』という言葉は、明治30年代、政府によって作り出された官製の差別語。文例は、芸能界をひとことで否定的に描くため、差別語の「特殊部落」を隠喩的(負のメタファー)に使って表現した、極めて悪質な差別表現。
 

(2)差別語を使用していない差別表現
 
  「芸能界は被差別部落だ」
 
・上の例文(1)を『特殊部落』という差別語を使ったために問題にされたととらえてしまうと、特殊部落を差別語ではない被差別部落と、マニュアル的に言い換えればよいように思われがち。しかし、(1)と(2)の表現の差別性になんら違いはない。同様に、「キチガイに刃物」→「統合失調症に刃物」「あいつはめくらと同じだ」→「あいつは何も見えていない視覚障害者と同じだ」と言い換えても、障害者に対する差別表現であることに変わりはない。
 
(3)差別語を使用しているが差別表現ではない表現
 
 「わしら部落の人間は<エッタ>といわれて差別されてきた…。」
(部落の古老の語り)
 
・要は、その言葉が使われる必然性及び、社会的意義が、文脈なり作品にあるかどうか。
 
(4)差別表現ではないが差別語の使用の仕方が誤っている表現
 
  「特殊部落の子どもと他の子どもとの間にある差別感をどう取り除くか」
 
・文脈は差別表現ではないが、ここで差別語の「特殊部落」を使う合理的理由はない。「同和地区出身」あるいは「被差別部落出身」と表記すべき。

 
高須氏に差別する意図はないのだから問題にすべきでないという意見
 
 版元・小学館を批判する多くの意見にみられる誤解と偏見の二つめ。
 本書では、「昔は……」以下は、ひいおじいさんの話をおばあさんから聞かされていた高須氏が、伝聞形式で書いている。そして、その話に、「サイバラは『なんてひどいことするんだ。ものすごい差別じゃん!』って怒るんだけど。」と書き加えている。
 高知県生まれで、たぶん部落差別を身近に見知っている西原さんの直感的な批判は、その通りだが、問うべきは、“ひいおじいさん”であり、それを差別とも思わず高須氏に語り聞かせる“おばあさん”であり、語られた時代の社会的差別意識である。

 高須氏が、この「昔は……」以下のエピソードについてどう思っているのかであるが、直接的には何も語っていない。
 ただ、サイバラさんの言葉に仮託して、自分の考えに問題があることを、間接的には表明している。
 しかし、差別表現か否かにおいて重要なことは、話者・執筆者の主観的意図とは関係なく、その文脈が、社会的にどう受けとられ、どう評価されるかである。つまり、高須氏に差別的意図がないから云々の問題ではない。
 拙著『差別語・不快語』で、私はつぎのようにのべている。
 

〈一般に、差別表現か否かを、話者の主観的な意図にもとづいて、つまり悪意をもって発言したかどうかに基準をおく傾向がありますが、重要なことは、表現主体(話者)の差別的意図の有無の問題ではなく、表現内容の差別性についての客観的評価(社会的文脈)で判断すべき問題ということです。〉
 
○何が差別かを誰が決めるのか
 
 では、何が差別かを、だれが決めるのか。同書で、私はつぎのように述べている。

〈何が差別か、差別表現かを、だれが何を基準に判断するのでしょうか。 “足を踏まれた痛み”を知る被差別マイノリティが、差別だといえば差別表現になるのでしょうか。たしかに被差別マイノリティは、ほかのだれよりも差別について、鋭敏な感性をもつ当事者です。しかし、なにが差別・差別表現かは、すぐれて客観的なもので、時代とともに変化する社会意識(社会的価値観)のなかに判断基準があるといえるでしょう。つまり、被差別者の主観的告発は、社会的に受け入れられることによってはじめて、客観性(正当性)をもつわけです。なにが差別か、差別表現かは、被差別者の主観のなかにではなく、客観的な社会的文脈のなかに存在します。〉
 
さらに、ここで詳述はしないが、差別表現は、話され、書かれた内容が事実であるか否かとも直接関係しない。
 
ここまでのことをまとめると、差別表現とは、ある一文、ある発言の文脈の中に、差別性(侮辱の意志)が存在している表現であり、(1)差別語が使用されているか否か (2)発話者・執筆者の主観的意図 (3)表現内容が事実か否か、とは直接関係しないということだ。

 
○“ひいおじいさん”“ばあちゃん”の差別性への問題意識
 
 以上の観点から、再度、冒頭の「昔は……」を考えてみたい。

 まず、「昔は『士・農・工・商・穢多(えた):非人(ひにん)』という身分制度があって……」は、“穢多”とか“非人”という差別語が使用されているが、歴史的事実に沿って書かれているだけで、別になんの問題もない。ただ、現在の歴史学では「士・農・工・商」という身分制度は否定されており「武士・平人(農民と町人)・賤民」と理解されている。加えて、1871年(明治4年)の「賤民解放令」によって身分制度は公式に廃止されている。
 したがって、“ひいおじいさん”の時代には、すでに身分制度はなかったと思われる。
 問題とされたのは、たぶん、その後に“ばあちゃん”の言葉として引用されている“ひいおじいさん”や“ばあちゃん”の被差別部落民に対する意識の中に、高須氏が差別性を感取しているか否かだが、残念ながら高須氏には、その問題意識すらなく、肯定的に受け止めていると思わざるを得ない。
 しかし、間髪入れず、サイバラさんの「なんてひどいことするんだ。ものすごい差別じゃん!」って怒るんだけど。」を入れることによって、高須氏は、「僕とサイバラは、白系ロシア人と農奴みたいなものか」という、育った環境による社会意識の違いを鮮明にしている。
 つまり、「昔は……」の以降のエピソードは、その違いを明らかにすること、開明的で同情融和的な篤志家の“ひいじいちゃん”と“ばあちゃん”を尊敬していることのたとえとして語られている。

 
○文脈自体が差別表現か
 
 この「昔は……」以下の文脈に、同情融和的な差別意識があること、そして、高須氏がそれを肯定していることは確かだが、文脈自体が差別表現とは一概に言えない。
 部落差別意識を肯定助長させる可能性と懸念は排除できないが、それは、本文を書き直すことによってではなく、出版する側の、編集の責任として、誤解と偏見を抱かせないように、「餅を投げ」たのは祭事の時であることなど、編集部注や解説などをつけて、出版することがベストだろう。

 しかし、書き直しを拒否されて、絶版・回収という出版社の安直な処置は、稚拙かつ拙速と言わざるを得ない。
 しかも、絶版・回収の経緯を明らかにしていないのは、出版社の社会的責任を放棄した重大な問題と指摘せざるを得ない。
 全文を読み終えての感想だが、『ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲』は、滅茶苦茶面白い本だ。

 
○「えたをかわいがるときは、かわいがっております」――差別意識の裏返し
 
 かつて、同様の事件があった。(くわしくは『部落解放同盟「糾弾」史』42頁を参照)
 
※高知県須崎通信局長差別事件――1958年、朝日新聞の高知県須崎通信局長・清水桃一氏が、勤務評定問題を市役所で取材中、市職員に向かって、「おまえはえたの出かしらんが、えたがするようなことをするな」と発言した。解放同盟須崎支部が事実調査を行なうと、清水記者は事実を認めた。さらに同席していた同記者夫人は、「えたをかわいがるときは、かわいがっております」と発言。差別意識が血肉化しているとも言うべき、ひどい差別発言で、厳しい糾弾が行われたことは言うまでもない。
 
※月刊『太陽』差別問題――もうひとつは、1985年、月刊『太陽』(平凡社)に載った、「ある料亭の女将が語る わが人生 天にしたがいて」。材木商を営んでいた、女将の父親の人物描写をする中で、「家には、番頭や木挽職人…、それに女中…、二、三十人の使用人がおりましたでしょうか。そのなかには当時の言葉で申しますと新平民とよばれておりました人たちもございました。…」と続き、商売第一で合理主義の父親は、「そのようなことには頓着しなかったのではないかと存じております」という文章。しかし、「そのようなこと」の中身については、いっさい何もふれていない。

 今回の小学館の文章にも通ずるところがある一文だが、その当時、こちらが指摘したのは、女将の父親が開明的で、商売第一の合理主義者だということを裏付ける材料のひとつとして、なぜ、“新平民”を雇用していたことをことさら取り上げる必要があるのか、という一点にあった。
“新平民”が置かれている社会的立場には何ら問題意識を持たず、現状を肯定したうえで、みずからの同情融和的意識に潜在している差別意識の裏返しである優越意識をこそ問う必要がある。
「掃き溜めに鶴」的心性は、鶴には向けられても、掃き溜めで呻吟している被差別民には思いは至らない。



 
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第183回 ヘイトスピーチ対策法 参議院で可決
○「ヘイトスピーチ対策法」可決

 今年4月18日、与党の自公より参議院に提出されていた「ヘイトスピーチ対策法」が、5月13日の参議院本会議で可決された。可決成立した法案は決して満足できるものではないが、これからの反レイシズム・ヘイト撲滅運動の闘いの武器になることは、まちがいない。
 ヘイトスピーチ規制に消極的(反対)であった自公が法案を提出せざるを得なかった背景にはさまざまな要因がある。国内外世論、学者文化人、司法判断の影響……しかし、街頭のヘイトデモに対する現場での身体を張った反差別カウンター行動の闘いぬきに、この法案成立はありえなかったことを、まず、確認しておきたい。

 
○日本政府の怠慢に対する国際的圧力
 
 々餾歸圧力としては2014年7月24日、国連人権規約委員会が2日間に渡る対日審査を行った上で、韓国・朝鮮人や中国人に対する人種差別的言動(ヘイトスピーチや「JAPANESE ONLY」)が拡がっていることに懸念を示し、現行刑法や民法で防ぐのは困難との認識の下、日本政府に対し、すべての宣伝活動の禁止を強く勧告した。
さらに同年8月29日、国連人種差別撤廃委員会がヘイトスピーチに毅然と対処し、法律で規制するよう厳しく勧告。ヘイトスピーチの街宣活動やインターネット上で人種差別を煽る行為に対する捜査や訴追が不十分であると指摘し、(1)街宣活動での差別行為への断固とした対応(2)ヘイトスピーチに関わった個人や組織の訴追(3)ヘイトスピーチや憎悪を広めた政治家や公務員の処罰(これは日本政府も批准し留保していない同条約4条C項[※]に対応している)(4)教育などを通じた人種差別問題への取り組みなどを勧告している。


※C項 「国または地方の公権力または公的公益団体が人種差別を助長しまたは煽動することを許さない」
 
○国会内における「人種差別撤廃施策推進法案」と地方議会の闘い
 
◆々馥眦には、有田芳生議員を先頭に、昨年5月22日、野党の旧民主党(現民進党)などが「人種差別撤廃施策推進法案」を参議院に提出、ヘイトスピーチを含む人種差別の全面的な禁止を求めた人種差別撤廃条約(1995年批准)の理念の実現を強く要求した国会闘争(昨年9月25日継続審議となっていた)があった。
いっぽう、地方自治体からは、ヘイトスピーチの法規制など、国に対策を求める意見書が、300を越える県市町村地方議会で採択されている。(法務省による初めての実態調査でも2015年9月末までの3年半で、全国で1152件のヘイトスピーチが確認されており深刻な現状が明らかにされた。)
 
ヘイトスピーチを人種差別と認めた司法判断
 
 司法関係では、京都朝鮮第一初級学校前でのレイシスト集団「在特会」らの差別排外主義的街宣行動(2009年12月4日)に対し、学校側が、差別街宣参加者と在特会を相手取り、街宣禁止と3千万円の慰謝料を求め、民事訴訟を提起。刑事訴訟では中心メンバーの有罪が確定(威力業務妨害罪/2011年4月)。民事訴訟では、2013年10月、京都地裁が1226万円の賠償と学校前半径200メートル以内での街宣禁止を命じ、「著しく侮蔑的な発言をともない、人種差別撤廃条約が禁ずる人種差別に該当する」と判断した画期的な判決を下した。2014年7月、大阪高裁が在特会側の控訴を棄却して同地裁判決を維持。上告審においても最高裁が認定し、判決が確定した(2014年12月)。人種・民族や国籍で差別するヘイトスピーチの違法性(差別性)を認めた判断が最高裁で確定したのは初めてで、大きな意義をもつ。(同時にヘイトスピーチを“表現の自由”と主張した在特会の訴えを、判決は一蹴している。)
 その他、ヘイトスピーチによる被害を受け裁判に訴えた事件も、ほとんどすべて勝利判決を克ち取っている。直近では「在特会」による徳島県教組襲撃事件(2010年)に対し、2016年4月26日、高松高裁は、一審の徳島地裁より重い賠償額(230万→436万)を命じ、在特会らの蛮行を「人種差別的思想の表れで違法性が強い」と認定している。
 あいつぐ裁判所のヘイトスピーチ=人種差別との司法判断の影響も大きいと言わねばならない。

 
○街頭でレイシストと身体を張ったカウンターの闘い
 
ぁ,修靴萄2鵝⇒薪泙亮公をして「ヘイトスピーチ対策法」を出させるまでに追い込んだ最大の原動力は、街頭で行われているレイシスト達のヘイトスピーチに身体を張って、直接、抗議・阻止の闘いを、広範かつ独創的にくり広げた、男組(昨年3月解散、今年4月に復活)、C.R.A.C(旧レイシストしばき隊)、そしてプラカードを掲げ抗議の意思表示をするプラカ隊など、多くのカウンター行動に取り組んだ、反レイシズムの力強い社会的ムーブメントである。
 その反レイシズムカウンター抗議を報道することで、ヘイトスピーチの差別性と犯罪性を社会的に明らかにすることに貢献したマスメディアも少なくない。さらに少数ではあるが、ヘイトスピーチ法規制の必要性を法的・理論的に支えた弁護士、学者、文化人の闘いもあった。

 
「ヘイトスピーチ対策法」をめぐる論点
 
 今回の自公の「ヘイトスピーチ対策法」は、以上のような反ヘイト・カウンターの社会的圧力を受けて提出された法案だが、その内容(条文)には多くの欠陥があることも事実であり、すでに様々な反差別のカウンター活動家、学者・文化人、団体から、法案に対し、不充分点というより、抑止効果と実効性・救済性が疑問視され、問題点が多いと、厳しい批判がなされていた。その批判の論点と問題点を整理しておきたい。
 
○「本邦外出身者」以外の社会的マイノリティへのヘイトスピーチは?
 
,泙此第一に指摘されている問題は、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」という法案名に、端的に表れている。次の(1)(2)である。

(1)日本国籍取得者(本邦内出身者)である沖縄・アイヌ・被差別部落・性的マイノリティ・障害者などの社会的マイノリティが、ヘイトスピーチの対象から除外されている。

(2)さらに、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」について、条文第2条では次のように定義している。「専ら本邦の域外にある国または地域の出身である者またはその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘 発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加える旨を告知する など、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう」

 
○「在特会」が最初に標的にしたのはカルデロンさん一家
 
 つまり、批判されているのは、いうところの「適法居住要件」である。(可決された条文では「告知」の後に「著しく侮辱するなど」の文言が修正で加えられた。)
これでは、オーバーステイや難民認定申請者などの非正規滞在者が除外されることになる。レイシスト団体「在特会」から最初にヘイトスピーチの標的にされたのが、在留資格をもたず日本で働いていた、フィリピン出身のカルデロンさん一家に対する「犯罪フィリピン人カルデロン一家を叩き出せ」であったことを忘れてはならない。
日本政府はまだ批准していないが、移住労働者権利条約が明記しているように、違法滞在、違法就労であっても、労働基本権が保障される。同じことは国連の人種差別撤廃委員会も、人種差別撤廃条約は適法に居住しているか否かに関わらず、一切の人種差別は許されないとしている(2004年人種差別撤廃委員会が日本政府に「人種差別に対する立法上の保障が出入国管理法令上の地位に関わりなく、市民でない者にも適用されることを保障すること」を勧告)。すなわち、人権は国境を越えて保障されなければならない。
 それに対して、この「適法居住要件」は、それに当てはまらない外国人に対してのヘイトスピーチを容認することにつながりかねない。「本邦外出身者」と「適法居住者要件」は、ヘイトスピーチ規制の対象範囲を極めて狭くし、実効性を弱めているのは事実である。

 
○ヘイトスピーチ禁止ではなく「努力目標」
 
第二に指摘されているのは、明確な差別禁止規定が条文化されていないという点だ。第3条は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない」とし、いわゆる“義務規定(禁止規定)”ではなく“努力目標”としている。
 この点でも、実効性と抑止性が問題視されている。差別は社会悪であり、犯罪であるという根本的な視点が欠けていると言わざるを得ない。

 
○「人種差別」の定義

 人種差別撤廃条約は、ヘイトスピーチ(差別的憎悪扇動)をはじめ、あらゆる人種差別を禁止している。
 ここにいわれる“人種差別”とは何だろうか。

 同条約は、その第1条で、人種差別を「政治的、経済的、社会的、文化的またはその他のすべての公的生活分野における人権及び基本的自由の平等な立場における承認、享有または行使を無効にし、または損なう目的または効果を有する人種、皮膚の色、門地または民族的もしくは種族的出身にもとづくあらゆる区別、除外、制約または優先をいう」と定義しており、日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」に対応している。
その上で、人種差別撤廃条約は、第4条で「人種的優越主義にもとづく差別および煽動の禁止」を定めている。
また、国際人権規約(自由権)20
条にも次のような差別禁止規定がある。
「(戦争宣伝及び憎悪唱道の禁止)戦争のためのいかなる宣伝も、法律で禁止する。差別、敵意または暴力の煽動となる国民的、人種的または宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」

 
○人種差別撤廃条約に対応する初の国内法 「ヘイトスピーチ対策法」
 
 今回の「ヘイトスピーチ対策法」が、国際的な差別禁止法の水準から見ると、実効性に乏しく抑止効果 が期待できないという懸念があることは事実だ。しかし、ヘイトスピーチを許さない国内外の世論が、院内で圧倒的多数の与党をして、法案を提出せざるを得ない状況に追い込んだことの重要性を忘れてはならない。
 たしかに可決された法案に不満は残るが、不十分点の見直しは、法的拘束力のある附則として実現したし、法的拘束力はないが付帯決議(※)として、条文の欠陥を補う役割を果たしている。附則と付帯決議の実行を求めることを含め、反ヘイトスピーチの闘いは続くのである。
 1965年に国連で採択され、1969
年に発効した人種差別撤廃条約を、1995
年にやっと日本政府は批准したが、条約に対応する国内法をいっさい作らず、この21年間、ネグレクトし続けてきた。
 何はともあれ、やっと条約に対応した法律が誕生したことの意義は大きい。つぎの闘いは、この法律内容を、より抑止効果を高め、実効性ある法案に仕上げていくこと、そして、包括的な人種差別をはじめすべての差別を禁止する“差別禁止法”の成立をめざして、さらに闘いの輪を広げることだ。

 
※付帯決議の概要
付帯決議の,蓮▲▲ぅ面餌欧箍縄、難民申請者、非正規滞在者などに対するヘイトも許さないことを明らかにするとともに、人種差別撤廃条約に触れることでヘイトスピーチは違法し解釈 △麓治体にも施策実施を義務づける はネット対策

 【追記】
今日(13日)午前中の参議院本会議で可決成立したこの法案に反対した議員が7名いるが、その内3名は社民党の福島みずほ、又市征治(吉田忠智は本会議欠席)だ。理由は「適法居住要件」があるということらしいが、まったく政治的彼我の力関係の理解もなく、ましてやヘイトデモ被害者の叫びと願いを全く無視した裏切り行為である。ヘイトデモ現場の実態と現実を知らない(たぶんカウンター行動に参加したこともないのだろう)、抽象的かつ非現実的な対応といわねばならない。
すべての判断基準は、現場の実態の中にこそあり、条文の解釈にあるのではない。

 
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第182回 引き続き、差別犯罪本「全国部落調査」について
○有田芳生議員、人権擁護局長の認識を質す

 2016年3月10日の参議院法務委員会で、有田芳生議員が、差別犯罪本「全国部落調査」とヘイトスピーチについて、人権擁護局長と岩城法務大臣などに質問した。
 とくに、「部落地名総鑑」の原典を売りにしている差別犯罪本「全国部落調査」に対しては、まず冒頭で41年前の「部落地名総鑑」について、有田議員が、人権擁護局長の認識を質した。さらに、解放同盟東京都連と東京法務局の交渉内容などを踏まえ、ネット上および4月1日発売を公言している示現舎(しげんしゃ)の差別犯罪本「全国部落調査」に対応をせまるも、しどろもどろで、回答の体をなしていない。
 要するに、法務省側の答弁は、「部落地名総鑑」や「全国部落調査」本は、人権上、好ましくなく「看過」できない問題のある本だが、ネット上と同じく、取り締まるのが難しいということにつきる。


 
○「真実を報道するのがなぜ悪い」と居直った興信所――差別者の屁理屈は41年前と変わらず

  一方で、本来当事者であるべき部落解放同盟中央本部は、差別犯罪本「全国部落調査」の発行元・示現舎の代表に新宿で“会い”、発行中止を“要請”したというが、鼻であしらわれており、舐められているどころの話ではない。発行中止要請ではなく、抗議および事実確認と、公開しての社会的糾弾をこそ断行すべきだろう。単なる「本部もやってますよ」的なアリバイ作りなら恥の上塗りだ。41年前の1975年11月に発覚した「部落地名総鑑」糾弾闘争から何も学んでいない。確信犯的な差別主義者団体・個人に対する糾弾の仕方がわからないらしい。
 41年前の「部落地名総鑑」差別事件の関係書類を渉猟していると、その当時にも、「情報作用とは真実を探求し、真実を伝達する作用である。部落差別は存在しており未解放地区はあるのだから、その真実を報道することがなぜ悪いか」と居直った、興信所・探偵業者がいたことに、思わず嗤う。
「部落地名総鑑」の類(たぐい)の差別犯罪本は、出版・表現の自由という憲法のカテゴリーとは無関係である。「本」の体裁をとっているが、内容は凶器なのだ。度し難い差別者の屁理屈は、昔から変わらない。


 
○反知性主義者の意味不明な主張

 今回の差別犯罪本「全国部落調査」の発行について、発行元の示現舎がまとめた「部落解放同盟中央本部との面談レポート」によれば、被差別部落に対する差別意識が存在している中で、被差別部落の地名(新・旧)を出版するなどの行為は「差別者に利用され差別を助長する」との主張を(本部側が)行ったのに対し、示現舎は、

           ***

それに対して筆者が一貫して主張したのは、隠すことこそが差別を助長しているということである。隠すためには、隠す理由を説明しなければならず、西島書記長の主張は部落住民との結婚に反対する親などの主張と何ら変わりがないということ。あからさまに「自分は差別者だ」と言う人は少数派で、むしろ「他人が差別するから」と言って、結婚に反対するわけだから、西島書記長のような態度こそ差別ではないかということである。逆に部落の場所を暴露するのであれば、そのような説明をする必要はなく、「部落に住んでも、部落の人と結婚しても安心ですよ」と堂々と言うことができる。(中略)
私に言わせれば、隠すことこそが差別の原因になっている。これから部落に住もうとしている人、部落の人と結婚しようとしている人に、隠す理由をどう説明するのか。
           
            ***


 と「反論」しているが、一瞥(いちべつ)しただけでわかるように、意味不明の独断と偏見の反知性主義的主張の典型といってよい。それに対して、何ら有効な反撃を加えられなかった中央本部については、今回は触れない。
 示現舎の主張は、「ウサギの角の先は丸いか、尖っているか」並みの(ウサギには角がないので前提が成り立たない)、非現実的で非論理的な反知性主義の典型であり、本来、批判の対象となりえない言説である。(*反知性主義とは、客観性・合理性・実証性を無視ないし軽視し、自己に都合のよい物語に閉じこもる態度のこと。在特会の桜井誠vs.大阪市長橋下徹の対話が成り立たなかったように、反知性主義者との会話は成立しない。)
看過できないのは、自称・部落出身のフリーライター上原善広が、この犯罪本を「画期的な出版」と褒め上げていることだ。


 
○差別犯罪本を「画期的な出版」と褒め上げる上原善広

 上原は2月28日のツイッターで次のように書き込んでいる。
「ごく一部で話題の『全国部落調査』(示現舎)ですが、路地の人々が誇りを取り戻すという意味では画期的な出版でしょう。悪用する人が多ければ、それだけ差別があるということ。これをきっかけに、路地について学ぶ人が多くなればいいですね。」
 惹起した差別事件で傷つけられる被害者の心身の痛みに対して、思慮を欠いた差別的心性の持ち主と断言してよい。差別が起こることを傍観するのではなく、未然に防ぐ手立てこそが、求められているのである。差別の厳しい現実を見ようとしない、あるいは差別の深刻な実態を無視ないし軽視する差別的暴論といわねばならない。


 
○部落差別はインビジュアル(見えない差別)

 部落差別(部落民)は昔から「インビジュアル、ビジュアルマイノリティ」といわれてきた。つまり視覚的に「見えないが、見えている被差別者」。黒人差別や民族差別、女性差別や障害者差別などさまざまな差別があるが、それぞれ肌の色や国籍、性別、障害の有無といった違いが外見上あきらかな場合が多い。
 人種や民族、宗教や性、障害などの属性が差別の対象とされるのだが、部落差別は外見上(見た目)で判断できる属性ではない。日本国憲法14条にある「…人種、信条、性別、社会的身分又は門地により…差別されない」の「社会的身分又は門地」が部落差別に当たるわけである。
 「社会的身分又は門地」とは、封建時代(江戸時代)に存在した「武士・平人・賤民」の、とくに「賤民」についてのことである。「門地」=家柄も部落差別に関係している(部落差別は貧富の差ではない)。


 
○明治政府による賤民解放令

 周知のように、江戸時代、被差別民は「身分・職業・居住」が三位一体として固定されていたがゆえに、身分はもとより職業を変えることも、自由に他所に移ることもできなかった。
それが、1871(明治四)年の太政官布告、いわゆる「賤民解放令」によって、身分・職業共平民同様とするとし、法律・制度上の差別の廃止が宣言された。しかし、明治政府が部落差別をなくすための施策を何ひとつ行わなかったため、現実には依然として厳しい差別が残ることになった。


 
○被差別部落とはなにか

 お上(国家)に頼るのでなく、自ら立って部落差別撤廃をめざす、自主的な部落解放運動組織=全国水平社が1922年3月3日に創立された。この時、「全国に散在」している、つまり全国に意味をもって存在していた賤民の住む地域(穢多・非人など)を拠点として決起し、結集したのである。
 解放同盟の綱領にも書かれている。
「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に穢多・非人などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である。」
 つまり、被差別部落は具体的な地名をもち、そこには日々生活している人々が実在している地域なのだ。


 
○差別するメルクマールが見えにくいからこそ身元調査が行われ、「部落地名総鑑」が売買され悪用される
 
 言うまでもなく、結婚や就職の際に行われる身元調査、とくに41年前の「部落地名総鑑」差別事件が明らかにしたように、当時、結婚に関して、相手の身元調査依頼の99%が、被差別部落かどうかだったと、「部落地名総鑑」発行者の坪田義嗣は、同盟の確認・糾弾会の中で話している。
 違法な身元調査(戸籍・住民票の取得や過去帳の閲覧)が横行する背景には、部落差別がインビジュアル(見えない差別)なことがあげられる。
 部落差別は、土地(地域)と一部職業を媒介にした封建的身分制をもとに、近代的に再編成された賤視観念と実態的差別であるが、その姿が見えにくいということがある。つまり、差別されるメルクマールがインビジュアルであり、存在がわかりにくいという特徴をもっている。
 差別犯罪本「全国部落調査」の発行元・示現舎らが言うところの「隠すことが差別を助長し、差別の原因になっている」という虚言に、何ひとつ科学的な根拠も正当性も論理整合性もない。
現実は、被差別部落出身であることを「隠す」ことによって、予見される差別を避けている出身者も多い。それがなぜ、「差別を助長し、差別の原因となっている」などと言えるのか。
 差別事件が起こることを望む態度こそ、度し難い差別的心性といわねばならない。
 たとえば黒人は、肌の色が黒いことを「隠して」いない。ではなぜ差別されるのか、ハッキリしている。肌の色が黒いことに差別の原因があるわけではないからである。原因は、差別する側の意識の中にある。「黒人は肌の色が黒いから差別されるのではない。一定の社会関係の中において差別されるのである」。
 差別は、国家に包摂された社会関係(差別的な社会システム、構造的差別)のなかで“作られ”、基本的人権を侵害し、人間の尊厳を傷つける。


 
○個人に表象される<差異>が見えない部落差別
 
「差別」とは、<差異>を手がかりに、特定の個人や集団が意図的に排除・忌避・抑圧・攻撃・軽蔑の対象とされ、基本的人権(市民的権利)が侵害され、社会的に不利益を被る状態である。(『差別語・不快語』より)
 
 そして、<差異>とは、目の色、肌の色、髪型と色、人種・民族、性、宗教、言語、生活習慣などの文化の違い、区別である。その違いを主観的、非科学的、非合理的にイデオロギー化して、差異(区別)を差別に転化するのは、国家に包摂された社会関係においてである。
しかし、土地(居住地)を媒介にした差別である部落差別は、その個人に表象される<差異>がないゆえに、一般社会に入るとインビジュアルになる。ここが、部落差別と、ほかの差別との大きな違いであり、特徴なのである。インビジュアル、ビジュアルマイノリティと言われる所以である。
 2012年に起きた『週刊朝日』の橋下徹氏に対する差別報道を思い出してほしい。あのとき『週刊朝日』取材班は、橋下氏の実父のみならず縁者一族の故郷の地に入り、興信所のごとくかぎ回り、「出自」を暴いたのである。「取材」の目的は何だったのかと言えば、橋下氏が被差別部落出身であると特定することであった。


 
○差別的身元調査を禁止する規制条例

 くり返すが、部落差別はインビジュアルであるからこそ、被差別部落出身であることを特定するためには、身元調査が“必要”なのであり、それを許さない取り組みもまた、「壬申戸籍(じんしんこせき)」の閲覧禁止にはじまり、戸籍、住民票の不正所得の禁止などとして、現在も続けられているのである。
  部落解放運動は、大阪府の部落差別調査等規制等条例(2011年、更に厳しく改正された)など、各県で差別的身元調査の禁止、また土地差別調査の糾弾などを通じて、条例を克ちとっている。
 それゆえ、被差別部落出身者の「出自」を暴くことを目的とした「全国部落調査」などの出版は犯罪であり、法律で厳しく取り締まる必要がある。しかしそれは、部落解放運動として、社会的な糾弾を行った上でのことであろう。つまり、自力で阻止行動を展開した上で、法的必要性を訴えることだ。


 
○「カミングアウトしないから差別が助長される」のではない

 部落差別とおなじく、「その個人に表象される(差異)が見えにくい」LGBT(セクシュアルマイノリティ)の人たちの中で、カミングアウトしている人も多いが、圧倒的多数の人は自己の性的指向や性自認と社会意識・社会制度の狭間で苦しんでいる。カミングアウトしないから差別が助長されるのではない。
 社会意識としてLGBTに対する差別観念が存在し、社会制度も整備されていない現実があるからカミングアウトできないのである。これは部落差別も同じだ。
カミングアウトするとは「社会的立場の自覚的認識」に立って、差別と闘う主体性を確立したときに、みずから行うものであり、他者からあれこれ指示されることではない。
 被差別部落出身であることを「隠し」、LGBTであることをカムアウトしないのは、それぞれの当事者の「弱さ」に起因する事柄ではない。差別との闘い方には多様な手段・方法と態度がある。みずから「出自」を名乗る必要もないし、名乗っても差別されない社会関係と制度の確立こそが問われている。
 カミングアウトして明らかになるのは、カミングアウトされた側の差別意識の有無である。


 
○カミングアウトの意味

 差別犯罪本「全国部落調査」を発行するという行為は、公的機関による、あらゆる市民意識調査が示しているように、被差別部落に対する予断と偏見にもとづく差別意識が確固として存在しているという厳粛な事実=社会環境のもとで、新たな差別事件(被害当事者を苦しめる)を引き起こさせ、場合によっては、差別した側をも苦しめる。
「エタ」であることを誇りに思うかどうかと、「出自」を明らかにすることは、別の問題である。他者からあれこれ言われる筋合いの事柄ではない。
被差別当事者の自覚にもとづいておこなわれる自立的な行為が、カミングアウトなのである。

 
“ふるさとを隠す”ことを父は
けもののような鋭さで覚えた
ふるさとを暴かれ
縊死(いし)した友がいた
ふるさとを告白し
許婚者に去られた友がいた
吾児よ
お前には
胸を張ってふるさとを名のらせたい
瞳をあげ
何のためらいもなく
“これが私のふるさとです”と名のらせたい

                   (“ふるさと詩/丸岡忠雄
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第181回 部落地名総鑑糾弾闘争の教訓


○差別犯罪本「全国部落調査」(出版元・示現舎)
 
 差別犯罪本「全国部落調査」の出版元・示現舎は、いまだに「4月1日に発刊する」とうそぶいている。
 この間の事情については、緊急事態としてウエブ連載178回でふれた。アマゾンには50数冊の予約注文があったというが、アマゾンは当然、販売キャンセルすべきだし、その取り組みをおこなわねばならない。
 紀伊國屋書店や宮脇書店をはじめ、全国の主だった書店も、学者や学校関係者からの連絡を受け、直取引に応じない、と言明している。
 いま、喫緊の闘争問題は、この差別犯罪本の発売元・示現舎に対する徹底した抗議と糾弾だろう。

 

○匿名の告発から始まった『部落地名総鑑』糾弾闘争
 
 今から41年前の1975年、今回と同じく、全国の被差別部落の所在地や戸籍・主な職業などを記載した、いわゆる『部落地名総鑑』が密かに出版され、多くの企業や大学、病院などが購入していたことが発覚し、解放運動史に残る大糾弾闘争が展開された。
 周知のように、事が発覚したのは、一通の匿名の封書が、解放同盟大阪府連の人権対策部宛に届いたところから始まる。今でいう内部告発である。

 

○「人事極秘『特殊部落 地名総鑑』」の発行者を探し出す
 
 そこには“企業防衛懇話会”なるいかがわしい団体から、各企業・団体の人事担当部長、課長宛に出された<人事「特殊部落 地名総鑑」発行について>の文章が同封されていた(特別頒布価格・壱部 金3万円也)。
 当時、大阪府連の上田卓三委員長、向井正書記長、山中多美男政治共闘部長らが先頭に立って、この人事極秘『部落地名総鑑』の発行者「京極公大」こと「坪田義嗣」をさがしだし、直接、糾弾している。
 その糾弾の過程で、多数の企業や大学、病院が購入していることが発覚し、さらに、その他にも9種類近くの「部落地名総鑑」類似本の存在が明らかになった。


 
○1975年「部落地名総鑑」糾弾声明
 
当時、解放同盟中央本部は、これらの事実確認を元に、マスコミ各社を集めて声明を発表している。その時の全文を以下に掲げておく。

           ***
           
           声 明

 
 今般、部落解放同盟大阪府連合会によせられた、匿名の手紙によって明るみに出た企業防衛懇話会(理事長・京極公大)発行の「人事・特殊部落地名総鑑」について、わが部落解放同盟は、その悪質きわまりない差別性を重視し、全国的な糾弾闘争を展開するものである。

 一.本書は全国に散在する被差別部落の所在・新旧両地名を明らかにすることによって、何代にもさかのぼって出身をあばき、差別を拡大助長し、興信所などによる身分調査にも悪用され、結婚差別をひきおこし、また就職の機会均等を奪い、採用から排除することをねらったものである。しかも総需要抑制・不当首切り時に符ちょうを合わせたものであり、部落解放運動史上に例を見ない悪質なものである。
 
 二.わが部落解放同盟が、壬申戸籍のたたかい、さらには戸籍の公開の規制のたたかい等をすすめ、とくに同対審答申10年、特別措置法残り3年というきわめて重要な今日の課題にまったく逆行するもので、差別意識を利用して、営利を目的とし、大企業を中心に販売している点は、許しがたい悪質きわまりない差別行為である。

 三.われわれは、ときまさに人権週間のなかで惹起した本差別事件の意味を深刻にうけとめ、日共・正常化連(注=全解連の前身)や、北原(泰作)の「差別はなくなりつつある」とするキャンペーンが、いかに誤っているかを暴露し、差別の存在をあらためて強く訴えるものである。
 
 以上の観点をふまえて、われわれは部落解放同盟の組織をあげて、

 1.総理府・法務・通産ならびに労働その他関係各省に対してきびしくその行政責任を追及するとともに、あわせて部落大衆の就職の機会均等の保障を強く要求する。

 2.「企業防衛懇話会」に対する糾弾闘争を行い、その責任を全国民とともに追及する。

 3.本「差別文書」を購入した企業を明確化させ、企業の差別性を追及する。

  以上、本日開催された部落解放同盟第三回中央委員会の名において声明する。
                   
       1975年12月9日 
       部落解放同盟第三回中央委員会
 


○今回の差別事件での、法務省への「申し入れ」
 
 ひるがえって、41年後の現在、部落解放同盟中央本部は、今回の差別犯罪本「全国部落調査」について何をしていたか?
「全国部落調査」本の出版が明らかになってから一週間後に、法務大臣と人権擁護局長宛に、下記の
<「全国部落調査 部落地名総鑑の原典 復刻版」発行・販売に関する申し入れ>
(下記資料参照)を出したが、要するに、権力=法務省に頼って、作成・販売の中止を要請しているに過ぎない。


 


*読みづらいと思われるので、上の「記」以下の、要請3点を再度列記しておこう。
 
(1)「全国部落調査 部落地名総鑑の原典」と題した、被差別部落の地名などが記載されたこの書籍は、「出版の自由」「表現の自由」を逸脱するものであるととともに、明らかに差別目的であり、部落差別を助長するものと考えますが、法務省としての見解を明確にされたい。

(2)「全国部落調査 部落地名総鑑の原典」の作成・販売が、差別を拡散し助長する恐れのある書籍であることから、この書籍が販売されないよう法務省としての方策を図られたい。

(3)この書籍の作成・販売が、差別目的であり、部落差別を助長するものだと認識したうえで、作成者である示現舎ならびに鳥取ループへの厳正な指導をされたい。さらに、インターネット上に掲載される被差別部落の地名一覧についても、規制の措置を取られたい。



 ではもう一度、1975年当時の解放同盟の<声明>をみてみよう。
 解放運動史上、例をみない露骨な差別事件として、全国的糾弾闘争を展開すると宣言し、具体的には

々埓責任の追及
◆峇覿繁姫匣話会」に対する糾弾
9愼企業の差別性の追及

 をおこなうことを決定し、後に、実行している。

 

○「差別を商うもの」に対し、今なすべきことは

 冒頭でも書いたが、緊急性を要する「全国部落調査」のアマゾンへの予約出品削除、宮脇書店および紀伊國屋書店など、全国のグループ書店への取り扱い中止などの抗議行動を起こしたのは、学者・教育者のネットワークや、自主判断した解放同盟の地方組織だった。
いま、中央本部がなすべきことは、
第一に、具体的な出版をされることによる被害(人間の命がかかっている)を食い止めること。(アマゾンがすでに予約注文を受けている50数冊の注文取消しの取り組みを行うこと)、
第二に、発行元の示現舎に、直接乗り込み、社会的な糾弾を、徹底的に公開して敢行することである。
 中央本部は、権力・法務省に頼らず、自力自闘で、差別者を糾弾し、発行・販売を阻止する運動を、41年前に倣って展開すべし。できないのなら、中央本部は解散すべきだろう。
















 
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